言語空間+備忘録

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経済学者の意見が「まちまち」である理由

2011-06-18 | 日記
N・グレゴリー・マンキュー 『マンキュー入門経済学』 ( p.42 )

 経済学者は、しばしば経済事象の原因の説明を求められる。たとえば、10代の若者が他の年長の労働者よりも高い失業率にさらされている理由を問われることがある。またあるときには、経済状況を改善するための政策提案を求められることもある。たとえば、10代の若者の経済的福祉を改善するために、政府は何をすべきかを問われる。経済学者は、経済を説明しようとするときには科学者となり、経済を改善しようとするときには政策アドバイザーとなる。

★実証的分析と規範的分析

 経済学者が果たすべき二つの役割を明らかにするために、まず言葉の使い方を検討しよう。科学者と政策アドバイザーとは異なる目標をもっているので、言葉の使い方も異なってくるのである。
 たとえば、最低賃金法について議論している2人組がいるとしよう。2人は、それぞれつぎのような主張をしている。

ポリー:「最低賃金法は失業が増える原因になるわ」
ノーマ:「政府は最低賃金を引き上げるべきよ」

 2人の意見に賛成するかどうかは別として、ポリーとノーマが違うことを言おうとしている点に注意しよう。まず、ポリーは社会の仕組みについて意見を述べることで、科学者のように話している。一方、ノーマは社会をどう変えたいかについて意見を述べることで、政策アドバイザーのように話している。
 一般的に、社会についての意見は2種類に分けることができる。ポリーのような主張の仕方は実証的といわれる。実証的な主張は説明的であり、社会がどのようになっているかについての主張である。ノーマのような主張の仕方は規範的といわれる。規範的な主張は処方的であり、社会がどうあるべきかについての主張である。
 実証的な主張と規範的な主張との根本的な違いは、その正しさをどのようにして判定できるかにある。実証的な主張は、原則として、証拠を吟味することで肯定したり否定したりすることができる。経済学者であれば、最低賃金の変化と失業率の変化の時系列データを分析することにより、ポリーの主張を評価することができるだろう。対照的に、規範的な主張を評価するには、事実だけでなく価値観も必要である。ノーマの主張が正しいかどうかを判定することは、データだけではできない。よい政策と悪い政策とを判別することは、科学だけではできないのである。それには、倫理、宗教、政治哲学などに対する考え方も必要になってくる。
 当然、実証的な主張と規範的な主張とは関連している。社会の仕組みについての実証的な見方は、どの政策が望ましいかという規範的な見方に影響を与える。もしポリーが言うように、最低賃金法が失業を増やすのであれば、最低賃金を引き上げるべきだというノーマの主張には反対すべきだろう。しかしながら、規範的な結論は、実証的な分析のみによって導き出されるものではない。規範的な主張には、実証的な分析に加えて価証判断が必要なのである。

(中略)

 なぜ経済学者が政策立案者に呈示するアドバイスはしばしば対立するのだろうか。これには二つの基本的な理由がある。
  • 世界の仕組みに対する見方が実証的諸理論のなかで分かれていて、どれが妥当性をもつかについて意見が一致しない可能性。
  • 価値観が異なるために、政策が達成すべき目標について規範的な考え方が異なっている可能性。


 社会についての意見には、実証的な主張と規範的な主張との2種類がある。経済学者の意見が異なる理由も、これに対応して2種類がある、と書かれています。



 自然科学とは異なり、社会科学には「答えが一つではない」というケースが多いと思います。社会科学のなかでも経済学は、かなり自然科学に近いはずなのですが、それでもやはり、

   人によって(経済学者によって)言うことが異なる

傾向がみられます。



 私は理論(学問)にも関心がありますが、私の主要な関心は「要するにどうなのか」です。つまり私は、理論よりも現実に関心があります。

 このようなこともあり、私は「人によって意見が異なる」経済学は「実用性に乏しい」と考えていたのですが、(私は)上記引用部分の記述で考えかたを変えつつあります。



 「実証的な主張」における意見の相違は経済学が「実用性に乏しい」と考える根拠にはなり得ますが、「規範的な主張」における意見の相違は「当然」であって、このことをもって実用性に乏しいとはいえません。

 そしてどちらかといえば、おそらく、経済学者の意見の相違は、「規範的な主張」においてより顕著なのではないかと思います。とすれば、経済学が「実用性に乏しい」という考えかたは「(どちらかといえば)偏見」であるといってよいのではないかと思います。

 もちろん「実証的な主張」における意見の相違は(偏見とはいえず)経済学の実用性に対する疑問符にはなり得ますが、そのような意見の相違は経済学が比較的「若い」学問であることも影響しているのだろうと思います。



 というわけで、「なぜ、経済学者の意見は『まちまち』なのか」は重要だと思います。今回の引用はこのような理由によるものです。

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