言語空間+備忘録

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核廃絶は世界を危険にする(報復用の核は必要)

2010-12-29 | 日記
西部邁・宮崎正弘 『日米安保50年』 ( p.261 )

(西部) 核武装についてもう少し論じてみようと思います。まず確認しなければならないのは、核廃絶が世界で行われたら、それが最も恐ろしい瞬間であるというロジックを押さえるべきです。なぜならば、仮にアメリカとロシアのそれぞれ一万発近くも、中国の二百四十発のものも全部解体されたとしても、核兵器に関する知識そのものは廃絶不可能です。そして、誰かが、たとえば宮崎さんが核兵器を密かに作れば、極論すると、世界は宮崎帝王のもとに服従しなければいけなくなるからです。そういう恐ろしい段階まで文明が来ているということを、まず押さえなければいけない。
 第二に、政治家も含めて、軍事判断が正しいかどうかは保証の限りではないということがあります。アメリカのイラク戦争が非常に示唆的だったのですが、アメリカはあの時、間違いなくフセインが大量破壊兵器を持っていると考えていた。しかし結局見つかりませんでした。そうすると、人間は未来を予測できないということと関係があるのですが、未来についての判断において国家も誤謬(ごびゅう)を犯し得るのです。このままいけば相手が自分を襲うはずだという予測の下に、軍事専門用語で言うところのファーストアタック、先制攻撃をこちらから予防的(プリベンティブ)に仕掛ける、つまり先制攻撃(プリエンプション)です。ところが、その判断が間違っている可能性があるわけです。
 核兵器の恐ろしさは、間違った判断で一発ぶちこんで三十万、五十万を殺してしまったら、これはヒューマニズムで言うのではなくて、国際社会にあるべき冷静なルールからして、「あの国は間違った判断で、敵国ないし仮想敵国の国民を何十万、何百万と殺してしまった」ということになって、その国家のレーゾンデートル、生命線に関わる問題になってきます。そう考えると、厄介なことに核兵器は、核武装をやるときには、いわゆるセカンドアタックとしてしか使えないのです。ということは報復です。リタリエーション、相手が撃ち込んできたことに対する報復としてしか使えない。そう憲法に明記しなければいけないということです。
 第三に、さらに厄介なのは、核兵器を持つときには、日本人はそれを持つ理由としてファーストアタックは甘受するわけです。そうすると、何十万、何百万殺された暁に初めて立ち上がるということになります。逆に言うと、日本人は絶えずものすごく強い国防意識を保持して、その延長において、何十万人、何百万人をファーストアタックで殺されることも覚悟したうえで核を持つのだという話になってくるのです。これは日本民族に限った話ではありません。各国民がそうあるべきだと僕は思います。
 これらは非常に厄介なことですが、いくら厄介なことでも、僕は知識人として繰り返し言い続けなければならないのが核をめぐる予測の困難性という問題だと思うのです。


 第一に、核廃絶が世界で行われたときが最も恐ろしい。第二に、核兵器は報復としてしか使えない。これは憲法に明記しなければいけない。第三に、核兵器を持つときには敵国からの先制攻撃は甘受しなければならない、と書かれています。



 世間では、核廃絶は「よいこと」だ、といった考えかたが有力だと思います。これは核廃絶論者にかぎらず、核武装論者においても一般的な考えかたなのではないでしょうか。

 つまり核武装論者も、核廃絶そのものを否定しているわけではなく、核廃絶はよいことだが不可能であり、「やむなく」日本も核武装すべきだ、と考えているのではないかと思います。

 ところが著者(西部)は、核廃絶は「恐ろしい」ことである、と主張しています。要は、
物理的に核兵器がなくなったところで、核兵器を作る知識、製造方法はなくならない。したがって誰かが核兵器を作れば、世界はその誰かに服従しなければならなくなる。世界はその誰かに対抗するための核を持っていないからである
ということですが、これはまさにその通りではないかと思います。

 誰かが核兵器を作ったら「そのときに」世界もまた、対抗するために核兵器を作ればよい、とも考えられますが、やはり核兵器を作るためには、それなりの時間が必要でしょう。つまり、世界は「ただちに」対抗する手段を持たない、ということです。とすれば、世界は「誰か」に服従しなければならなくなる危険性が高く、核兵器がなくなると、かえって世界は危険になると言ってよいと思われます。

 著者の着眼点は凄いと思います。



 次に、核兵器は報復としてしか使えない、という点についてですが、これは「あきらか」でしょう。というか、いまの日本に、「先制攻撃用に」核兵器を使おうと考えている人はおそらくいないのではないかと思います。

 ところで、相手が通常兵器で攻撃してくれば、こちらも通常兵器で防戦することになります。

 とすれば、立場を逆にして、「相手も」核兵器を撃ち込んでくることはありえない、と考えられるならば、核兵器は必要ないことになります。

 しかし、相手も先制攻撃用に核兵器を使わないという保証はないので、やはり核兵器は必要なのではないかと思います。



 第三の点、すなわち核兵器を持つときには、敵国からの先制攻撃を甘受しなければならない、という点については、

 核兵器を持っていない場合にも、やはり先制攻撃を甘受しなければならない以上、「核兵器を持つときには」先制攻撃を甘受しなければならないとは言えないでしょう。

 核兵器を持っていれば「攻撃されやすくなる」というなら、著者の主張も成り立ちうるとは思いますが、核兵器を持っていれば「攻撃されにくくなる」と考えるのが普通だと思います。

 したがって、最後の点については、著者の主張には説得力が欠けているのではないかと思います。おそらく、核武装したところで「攻撃される可能性はなくならない」ので、核武装すれば安全であるなどと考えてはならない、といったことを意味されているのだろうとは思いますが、それは言うまでもないこと、当然のことではないでしょうか。



 以上より、著者の主張のうち、
  1. 核廃絶は世界を危険にする、したがって核廃絶を目指すことは現実的でないばかりか、目指すことそのものが(論理的に)間違っている可能性が高い、
  2. 核兵器は先制攻撃用に使ってはならないと憲法に明記すべきである、
という部分だけはその通りであり、正しいと考えてよいのではないかと思います。

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