言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

数秒遅れの生中継

2010-05-25 | 日記
柘植久慶 『宴のあとの中国』 ( p.20 )

 オリンピックの開会式や閉会式、それにライヴでの人気種目のTV中継は、多いと五億人とか一〇億人が観る。そのときテロが発生したり、とんでもない不測の事態――フリー・ティベットのデモなどが割りこんだら、満天下に中国の恥を晒す (さらす) ことになる。
 そこで中国の当局者が考え出したのが、三秒遅れで映像を世界に配信する、というやり方だったのである。あたかも村上龍氏の小説『五分後の世界』そのものだ。
 これなら万が一にも事件が発生しても、瞬時に用意された映像に切替えれば、何とかその場を繕える。事実が広まり始めるまでの時間に、当局者は然るべき言い訳を準備する、ということになる。
 もしこれが重大な出来事であればある程、リアルタイムで世界に流れては望ましくない。そのとき稼ぐ三〇分とか一時間のインターヴァルは、中国のような共産党一党独裁国家にとって、この上なく貴重なものとなってくる。
 胡錦濤以下の共産党幹部たちは、あの天安門事件の教訓を活かしたのである。すなわちリアル・タイムでの映像が流れると、いかに百万言を費やしたとしても絶対に否定できない、ということだ。
 そのため映像をいったんシャットアウトしてしまえば、そこで稼いだ時間で作文をでっち上げることができる。素早くストーリーを書いて、それに合致する幾つかの事実を抽出し、筋書を補強してゆけばよい。
 何故突然映像が切替えられたかについては、そのカメラが被害を受けたからだと説明できる。つまり映像が国外に流出しさえしなければ、いかようにも処理できることになる。
 三秒というと短く思うかもしれない。けれど東京ドームからの野球中継は、地上波と衛星放送での差が一秒近くあるが、並べて観ると前者は結果が出ているのに、後者はまだボールが投本間のあいだ、というくらいの差が生じる。三分の二秒から一秒の差でこうだ。
 一九六〇年代を中心に活躍した、ニューヨーク・ヤンキースのミッキー・マントル選手は、左打席で一塁まで三秒一で到達した。三秒とはそれほど長い時間でもあることを、北京オリンピックではっきりと再認識させられた次第であった。


 北京オリンピックの映像は、リアルタイムの生中継ではなく、3 秒遅れの映像だった、と書かれています。



 著者を疑うわけではありませんが、補強するために、同様のニュース記事を引用します。



静岡新聞」 の 「生中継、3秒遅れで放送 五輪閉会式」 ( 2008/08/24 )

 【北京24日共同】中国国営の中国中央テレビが24日夜、北京五輪閉会式を国内向けに“生中継”した際、北京で受信したNHK衛星放送などに比べ3秒遅れていた。
 中央テレビが不測の事態に備え、意図的に放送を遅らせている可能性がある。同テレビは8日夜の開会式でも数秒遅れで放送した。


 中国国営の中国中央テレビが、開会式と閉会式を中国国内向けに数秒遅れで放送していた、と報じられています。



 したがって、たしかに「北京オリンピックの映像は、数秒遅れで放送されていた」と断定してよいと思いますが、

   数秒遅れで放送されていたのは、中国「国内向け」の放送であり、
   NHK衛星放送には、このような「作為的な遅れ」はなかった、

と考えられます。

 とすれば、「天安門事件の教訓を活かし」て、「満天下に中国の恥を晒す (さらす) ことになる」のを避けたと考えるには、無理があると思います。中国国内は騙せるでしょうが、

   海外にはリアルタイムで放送されている以上、
   おかしな作為を加えれば、かえって「満天下に中国の恥を晒す (さらす) ことになる」

からです。



 しかし、それではなぜ、中国当局は国内向けに、数秒遅れの映像を流したのでしょうか。それが問題です。

 作為を加えるつもりがないなら、そのまま映像を流せばすむことであり、やはり、著者の説くような意図があったと考えざるを得ないのでしょうか。



 そこで推測するに、これはおそらく、「中国のメンツ」の問題ではなく、もっと現実的な、政治的な理由だったのではないかと思います。たとえばテロが発生した場合、それを契機として (またはそれを合図として) 中国国内の不満分子による暴動などが発生することが考えられます。このような暴動を避けるためだったと考えれば、つじつまが合うと思います。

 当時、チベット問題 (中国当局による住民の弾圧と、それに対する抗議活動) などが報じられていましたので、このように解することには、現実性 (リアリティ) があると思います。



 この推測をもとに考えると、中国政府は、群集の暴動を「恐れていた」ことになります。

 もちろん、数秒遅れで放送することによって「ごまかせる」のは、北京近郊ではあり得ません。北京近郊であれば、爆発音なり群集の喚声なり、なんらかの音や雰囲気によって、事実がバレてしまうからです。

 したがって、当局の「恐れ」は、オリンピックに訪れた海外の要人や観戦客に危害が及ぶことであったとは考え難く (そのような要素もあったかもしれませんが) 、「恐れ」はもっぱら、北京以外の場所で発生する暴動の発生に向けられていたはずです。つまり、中国当局の「恐れ」は、中国の社会秩序・国家体制が破壊されることへの懸念によるものだったと考えられます。



 以上より、当局に対する不満はかなり蓄積されており、

   中国社会はいつ崩壊してもおかしくない状況にある
      (すくなくとも中国当局はそう考えている) 、

と推測してよいのではないかと思います。



■追記
 中国社会崩壊云々とまで考えるのは行き過ぎで、「暴動が広がり、面倒なことになるのを避けたかった」と考えるのが、もっと合理的だと思います。