真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

ジャングル大帝 8 箱根旅行

2006年08月29日 15時24分50秒 | 虫プロジャングル大帝
4月第1話が完成した、この頃山本暎一さんは、ジャングル班の実務管理や「アトム」「W3」3班とのプロデューサー会議を、もりちゃんに任せることが出来ていた、
その結果、暎一さんは作品の内容に打ち込むことが出来たといっている。
 そのころのW3はロッテのスポンサーで6月からの放送が決まって毎日貫徹が続いていた。
そんなころであった。暎一さんが森ちゃんに、
「第1話を完成させたので、みんなで旅行にでも行きたいな」といった、それがきっかけとなった。
「それはいいですね」
と賛成はしたが、すぐに、お金の心配をした、制作費の管理を任されていたので、とてもそんな予算は無い事を知っていたからだ。
「自費で行けばいいだろう」
と暎一さんは言う
「ジャングル班の体制はスタッフの将来のためにあるんだ、そう言う自覚を持ってもらうためにも自腹にすべきだ」
との考えを述べた。森APは
「そう言うことなら、意義をガリ版で刷って、全員に、呼びかけてみます」

 その結果有志による旅行実行委員会ができた。
箱根湯元への一泊旅行に決まった。交渉すると宿泊先の送迎バス2台が第二スタジオの駐車場まで迎えに来てもらえることになった。

役員会を通して、役員から寄付をもらえる事にもなった、そして手塚先生からも寄付してもらった。その上虫プロとしても寄付をすることになった。
虫プロにはいろいろな業者が入っていた。例えば、食事のための、レストランや、食堂、それにお菓子屋さん、3時の休憩前に注文を取りに来て、休憩時間に合わせて届けてくれた。
本屋さん、これも注文や、予約を取りに来た、月ぎめの本などは、発売されると届けてくれた、またそのほかであった。ツケがきいたので、ほとんどの人は、月2回の給料日にまとめて払っていた。
虫プロの周りには、虫プロで成り立つお店が増えていた。
 実行委員会はこれらのお店の人たちにも、カンパを頼んだ、(以後悪習として残ってしまった)結果かなりの金額となり、自己負担も少なくて、豪華な旅行が出来たのであった。
新緑を迎えた箱根の山は、仕事を忘れ、大いに盛り上がった。

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