東京老人Tokyorojin

こごとじじい増山静男のブログです。

新京へ帰る(終戦時の回想2)

2011年08月18日 06時55分03秒 | Weblog
終戦後一ヶ月ぐらいを北朝鮮ですごしたわれわれは、新京に帰ることになった、
帰りの汽車旅の記憶はない、
その後1年間に及ぶ新京での生活は大変な苦労を伴うものだった、

何しろ自治体というものがない、電気がない、ガスがない、食料がない、
まず、ソ連軍が進駐だ、その少し前から女性がいなくなった、いなくなったのではなく、断髪、男装に姿を変えたのだ、さらに家のドア、窓に頑丈な板を打ち付けて入られないように注意した、こんなことをしてもだめなときはダメだが、すこしでも進入を妨害することにはなる、そして家の中では女の子を隠す、押入れの奥に隠し場所を作った、そういうことをしてもソ連兵が侵入し、女の子を拉致することもある、翌日かえされた女の子(若妻)は半狂乱になっていて共同井戸に飛び込んで死のうとして、みんなに止められたり、タイヘンだった、

その次は中華民国軍と、八路軍(中共軍)の戦争だ、
うちの前の市街地で、一進一退の打ち合いだ、家の壁は弾痕だらけだ、
こんな事態のときでも国内で戦争をしているのだから

満州国をつくった時には中国には統治能力はなく、どこが傀儡政権だ、

その前に思い出したのだが、ソ連軍は満州国のあらゆる品物を持っていってしまった、家の窓からは電話交換局が見えたのだが、その機械もすべて持ち出してしまった、その前は原っぱになっておりわれわれの遊び場だったのだが、国軍、八路軍の戦争の際、負傷して取り残された兵隊が上半身を持ち上げたりしていたが次第におきることがなくなった、

窓からはガスタンクも見えたと思う、次第に高さが低くなっていき、ガスが出なくなった、電気はもっと後まであったが、停電続きであった、

うちでは父親も何とか隠れてシベリア送りにはならなかったが、シベリアに抑留された男たちはひどかった、何万という人々が命を落とし、生き延びた人もソ連の共産教育を施され、日本に帰ってからも赤だといわれ、つらい思いをしている、

いずれにせよわれわれはよく帰ってきたものだ、
一年間の何もない生活は大変だったし、もっと奥地から逃げてきた日本人たちは例外なく何回も匪賊に襲われてそれこそぼろぼろ、一銭でも金になるものは何一つ持っていなかった、子供を殺したり、中国人の家庭に預けたり(しばらく前まで身寄り探しがつづいた)

日本本土では、戦災、原爆、食料不足で、大変な目にあっていたのだが、満州国では終戦まで比較的平穏な生活ができた、終戦を境に上記のようなめにあっていたのだ、

満州国の生活破壊的だった(は快適だった)
新京市には莫大な資金が投資された、
幅80メートルの大通り、
直径1キロのロータリー、
電柱の地下化、
水洗便所、

内地にはないインフラが整備された、
本当に終戦までは快適に住んでいたのに、
これは終戦時一年であった私の回想録だ、
もう少し書いてみよう。

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2 コメント

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ソ連軍 (マオママ)
2011-08-19 23:42:32
不可侵条約を破って進行してきたソ連軍
略奪行為はお家芸かもしれません(笑)
北方領土も実効支配されたままですね

小学一年生でも記憶がしっかり残ってるんですね~
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マオママさま (東京老人)
2011-08-20 06:47:28
ソ連は、軍というよりドロボーです(笑)
満州にあった工場の機械でも何でも持っていけるものはなんでももっていってしまったのです、
特にひどいのはニンゲンまで、
それに共産教育をして、
こういったことはしっかり教育しておかないといけませんね、
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