おやじのつぶやき

不動産会社を経営する今年53歳のおやじが日本国を憂い仕事・趣味・健康などをテーマに日々つぶやきます・・・・

祝「紀元節」(建国記念日)

2012-02-11 | 憂国

2月11日が神武天皇が2672年前に橿原で即位された日であることを知っている人が実に少ない。
今朝、朝礼でも社員は一人も知らなかった。残念だ・・・
大問題だ。
学校で教えないからだ。義務教育の範囲内で教えることが当たり前だ。

産経新聞20120211 主張

 昨年3月11日の東日本大震災のあと初めて迎えるきょうの「建国記念の日」は、例年にもましてその意義が一段と強く胸に迫ることだろう。

 大震災と原発事故によってわが国は未曽有の困難に直面し、今は復興と並んでさらに多くの難題が加わっている。内に経済不安や急激な少子化による国力の衰退懸念を抱え、外との間では、領土・領海が中国などによって脅威にさらされ、日米同盟の弱体化が国家の安全保障を不安定なものにしている。

 わが国の存立基盤は危機的状況にあるといわざるを得ない。

 しかし、危機をはね返す底力は日本人に備わっているはずだ。先の敗戦後でも、日本人は一致団結して復興を成し遂げた。

 思い起こしたいのは、被災地で命懸けの救援にあたった自衛隊の活躍だ。救出した人は1万9千人を超える。国家と国民を守る組織があったればこそだ。絶望の中で冷静に行動して助け合った日本人の姿も、目に焼き付いている。

 国民の多くがそこに民族の精神の柱を見たはずである。その淵源(えんげん)は、紀元前660年の建国に求めることができるのではないか。

 『古事記』や『日本書紀』などには、国生みの神話などに続いて神武天皇即位の記述がある。現在の「建国記念の日」につながるものだが、残念ながら戦後、神話も建国のいわれも皇国史観や軍国主義に結びつけられ排除された。

 代わって反日的な自虐史観が勢いを増し、健全な愛国心が希薄になった面もある。自国の歴史を否定する国家にどうして民族の誇りや自信が育ち得ようか。

 わが国では、建国当初の国家が一度の断絶もなく現在まで継承され、神武以来125代にわたって一系の天皇を戴(いただ)いてきた。日本人は、神話や建国の物語とともに、この世界にもまれな歴史に畏敬と誇りをもち、幾多の国難を凌(しの)いで国造りに努めてきたのである。

 今年は古事記の完成から1300年にあたる。国民が神話を見直し、古代人のものの見方や国造りに対する考え方に触れる契機にしてほしい。

 苦しいとき、人は故郷(ふるさと)を思い出して試練に耐えることができる。日本人が現下の国難に立ち向かって底力を発揮すべく誇りと自信を取り戻すには、国家と民族の故郷ともいうべき建国の経緯を振り返ることが必要ではなかろうか。

産経新聞20110211 土日曜日に書く

 ◆紀元節は維新のモデル

 『日本書紀』によれば、初代神武天皇は「辛酉(かのととり)年の春正月の庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち)」に橿原宮で即位した。西暦に直すと紀元前660年の2月11日に当たるとして、この2月11日が「紀元節」とされた。

 といっても、さほど古いことではない。祝日としての「紀元節」が始まったのは明治6(1873)年のことだ。

 その5年余り前の慶応3(1867)年12月、岩倉具視らが起草して「王政復古の大号令」が発せられる。その中で「諸事神武創業之始(はじめ)ニ原(もとづ)キ」と、神武天皇の建国をモデルとして、明治維新にあたることを宣言した。そこから「紀元節」が生まれたのである。

 すんなりと「神武創業」が選ばれたわけではなかった。天智・天武期の「大化の改新」も候補となる。後醍醐天皇、楠木正成の「建武の中興」を推す意見もあった。しかしこれまでにない大胆な国づくりを目指し、国民の結束力を強めるには、思い切って神武天皇の時代にまで戻るべきだとなったのだという。

 もっとも、『古事記』『日本書紀』とも神武天皇について記述するのは、ほとんどが日向から大和に向かったいわゆる「東征」についてである。具体的な建国の事業にはそれほど触れていない。

 ◆人々が一緒に住む家に

 ただ推測ではあるが、『日本書紀』には、明治新政府の指導者たちをひきつけたに違いない考え方が出てくる。即位を前にしての天皇の令(のりごと)である。「民の利益になるなら、どんなことも妨げない」などとした後、こう述べる。

 「六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)にせむこと、亦可(またよ)からずや」

 国を一つにして都を開き、天地四方の人々が一緒に住む家のようにしよう。それはすばらしいことだ-という意味にとれる。

 「八紘一宇」という四文字言葉となり、戦後は日本の植民地主義を育てたとして、批判の対象ともなった。しかしそれは、この言葉が利用されただけのことである。虚心坦懐(たんかい)に読めば、人々の「絆」を強調した気高い国づくりの理念をうたい上げている。

 実際、明治政府がこの上古の建国理念をかかげたことは、日本国民の「絆」を強めるのに一役も二役も買った。その証拠に、日本と戦った米国がこの「紀元節」を忌み嫌った。

 占領下の昭和23年、新たな祝日を制定するとき、国民へのアンケートで「紀元節」の復活を願う声は強かった。だがGHQ(連合国軍総司令部)は許さない。

 その思想が日本を戦争にかりたてたというのは誤解だったが、日本人の団結力の源泉になってきたことは見抜いていたのだ。

 ◆強かった復活への願い

 それでも日本国民の「紀元節」復活への願いは強く、自民党政府は、昭和32年から何回も祝日法改正案を国会に提出する。だが反対も根強く41年になってようやく成立、翌42年から「建国記念の日」と名を変え、実施された。

 反対の理由は、紀元節が日本の軍国主義を生んだという米国同様の誤解と、『日本書紀』の記述には科学的根拠がないということだった。

 だが後者については、戦前、天皇を中心とした歴史観に批判的だった歴史学者の津田左右吉が「歴史的事実はわからないが、建国の日は2月11日でかまわない」という論を展開したことで、反対の矛先は鈍っていった。

 津田のような「進歩的」な学者でも、明治の教育を受けておれば「建国」を記念する日の必要性を強く感じていたのだ。

 しかしそれから半世紀近くがたつのに、この2月11日を建国記念の日とした意義が国民の間に十分浸透しているとは言えない。

 戦後の教育が神武天皇について何も教えてこなかった。さらに自民党時代も含め、政府自らが積極的に祝おうという姿勢を見せなかったからだ。ましてや、今の天皇陛下が何代にあたるかを官房長官が答えられなかったような民主党政権の関心は希薄である。

 あの大震災以来、家族や地域、そして国民の間の「絆」の大切さが言われている。昨年の「今年の漢字」ともなった。その一方、例えば津波による膨大なガレキの受け入れ、処分を頑強に拒否する地域があるなど、「絆」のほころびも目立つ。

 だが日本では「神武」の時代からそうした「絆」を国づくりの理念としてきた。そのことに気づいた明治維新期の人たちは、受け継ぐため「紀元節」を設けた。

 大震災による未曽有の危機を乗り越えるため、現代の政府も国民も、もう一度そのことに気づきたい。そして虚心坦懐に今日の「建国記念の日」を祝いたいものだ。(さらき よしひさ)