マリヤンカ mariyanka

日常のつれづれ、身の回りの自然や風景写真。音楽や映画や読書日記。手づくり作品の展示など。

「応仁の乱勃発地」

2010-05-06 | Weblog

上御霊神社の塀の脇に「応仁の乱勃発地」の石碑があります。

1467年から約11年間、京都の街を戦火が覆い何度も焼け野原になりました。
その最初の戦闘の地が、ここ上御霊の森だったそうです。
(西陣はその時西軍の陣が置かれた所。)
中部、四国、中国、北九州の大名たちもなだれ込み戦乱は幾重にも膨れ上がって、
農民からも徴兵した兵士の総数は双方それぞれ10万人とも15万人ともいわれています。
地方の農地も荒らされ、家は焼かれ、食糧も奪われました。
一揆が頻発し、百姓の自立を即し、やがて荘園制度は終焉していきます。そして次第に戦国時代に移行していった…そうです。

金閣寺を建てて絢爛豪華な生活を謳歌していた足利義満の時代から100年後のことです。
銀閣寺は戦乱の焼跡に地方の貴族や寺社の援助を受けて足利義政が建設を始め、
義政の死後に完成しますが、
金閣寺が象徴する北山文化とは違う侘び寂び幽玄の東山文化の拠点となっていきました。
そして能、茶道、華道、庭園、連歌など日本文化独特の美意識を育んで各地に伝搬していくことになった…そうです。

意味のない戦乱に巻き込まれた庶民にはとんでもないことですが、
応仁の乱は社会が大きく動き始める、時代の胎動だったのかもしれません。
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