marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(928回)親愛なるMへ:お話のメモ(その4)

2021-09-24 08:08:08 | 手紙

 続き・・・◆それで話したのは、ヨハネによる福音書です。「永遠の命」というイエスの言葉が書かれているから読みなさい、とルターがガラテア人への手紙と共に勧められているところ。ところが、取り上げたイエス様の言葉は、不思議な箇所で又、普段の私達には一読、分からない箇所なのです。「自分の命を愛する者は、それを失う。この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」自分の命を粗末にするという意味ではもちろんない。結論から言えば、永遠の命に入る為には、自分の命を憎むことが必要だ、ということになるのだがそれはどういう意味なのか。
◆ここで、黄金律と言われている言葉もあることので考えて見たい。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして汝の主なる神を愛せよ」これが第一の戒めで、つぎにこう述べている言葉は、先ほどのイエス様の言葉と矛盾しないだろうか。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」これが第二の戒めであると。これは、旧約のレビ記に出てくる言葉だ。旧約だから当時の言葉はイスラエル人という仲間に対してなのだが、イエスは、だれでもに対する言葉のように普遍的解釈としてそれを新約の時代となって語る。ここで言われている言葉には「命」という言葉はなく、「自分」とだけ書かれている。土台となる言葉を受け取る「自分」をしっかり考えてみることは、とても大切なことだと思われる。しかし、ここで先の言葉と矛盾しているように思われるのはなぜか。イエスご自身言われる「自分」とは、普段の私達が思う、詰まり七面倒な、命とかのような言葉の細かな分析のようなことではなく、32や33節のように素直にそのまま、読めるのに聞く対し、私たち人に関する「自分」についてはひとひねり、ふたひねりしているのはなぜなのか。何に気づかせようとされているのだろうか。御言葉を聞く、私たちに関する「自分」といことばには、さらに細密に自分について考えなくてはいけないと促しているようだ。それは、永遠の命に係わることだから、ということになるだろう。イエスの言われた「自分」とはそして「命」とは、どういう意味なのだろうか。