marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(911回)僕らのあの時代・・・Mの日記から

2021-09-05 18:06:06 | 小説

(Mの日記から抜粋)◆雄が雌に対して、特に繁殖期、性的イメージを持つことは、動物として当然の成り行きである。・・・とまぁ、客観的に述べられるのは、僕が歳をかなりとってきたからなのであって、若いことの欲動?なるものは、不可思議な思考の対象事となる。吉本隆明や岸田秀や栗本慎一郎とか浅田彰なる思考を云々する時代で、幻想論なるものがあって、まずは訳分からぬも思考に重きをおいて、まずは自分探しの土台を強化しようと偉ぶっていた。アウトサイダーやアウトローや何某かの発散の思考を躍起にぶっ放していた時代だったように思える。肉体の欲求を正直に発露する、それが商売になるそんな時代。

◆1960年代のこの国にの高度成長期などには、不思議な目に見えるような動きが実際に沢山あった。ずうーと上り坂の不思議な時代だったように思う。1970年代には学生運動も、それからウーマンリブなどもあからさまにあって、人の内面の「何故?」が、陽明学のように実行にならなければ考えてもいないことと同じなのだ、という鬱憤が日本を世界を取り巻いていた。ベトナム戦争もそうだし、あからさまにイデオロギーなる言論によって人は一つの方向性を持たなくていけないのだと躍起になっていたように思われる。アメリカ合衆国誕生から、それはキリスト教から起こった哲学、プラグマティズムは実に目的志向型の考えで、それは結局、非常に前頭葉を使う考えであったように思うがビンビン頭には響いた。それが経済に転用されると人命までもが手段となってくる危険なものとなりそうだった。イージーライダー:1960年代アメリカンバイク・ハーレーに乗ってルート66を走って見たい物だと思ったりしたものだ(映画は南部であったけど)。いずれ僕らは、自分たちのエネルギーのはけ口をもとめて躍起になっていたものだ。ウッドストック。。。

◆1000回目指してスパートをかける。到達したら次の世界に出発する。その準備に4000冊以上はある書棚(あったからといってどうというものでもないのだが)の整理をしていた。僕はやたらと整理しないで読み終わると無造作にどんどん本棚にあちこち詰め込むので、ジャンルわけでも大変だ。・・・で、18歳のころに書いつづっていたノートを見つけた。茶色のノート、青色のノート、当時から僕は大江健三郎やカミュやキィルケゴールを読んでいた。いずれ、当時の僕は自分の存在をなぜかとても憎んでいたのだ。次回、そのキィエルケゴールの手記を茶ノートに書いていた記事を見つけてので書いてみたい。