この日は、兄、両親、私の4人で作業しました。
花祭りでしたので、母は中抜けして近くにあるお寺さんに向かうのですが、当番さんが来なくてちょっと困った様子でした。
無住のお寺さんなので、全部檀家さん達でやるしかないのですが、ま、寒村のお寺さんと檀家さん達の関係なんて、テキトーですからね。
イライラする母を尻目に黙々と作業です。
父の衰えるが冬よりも進んでいて、パイプ椅子に腰掛けるのがうまくいかないし、1人で椅子から立ち上がるのが難しいし、90度とか180度の方向転換をするのに一歩足が出なかったり。
座って切り枝から花摘みをするのはできるのですが、それもなんか雑な作業なんです。
父はもともとはムチャクチャキッチリした性格なので、こんなまばらに花摘みをするような性格じゃあないんだけれどなー、と。
本人もそれは承知していますから、父には自身が納得できる形で労働してもらえればいい、と思い直しました。
昼頃に小雨が少し降ったので、午後は早めに切り上げてきました。
これからお天気は下り坂でしたから。
そのかわり、摘み取った花から花粉採取する花粉づくりの作業も少しやりめした。
摘み取った花は、25リットル分くらい。
それを兄が粉砕機で粉砕して、私が荒目と細目のフルイにかけました。
2回のフルイかけで葯(雄しべの先の部分)と雄しべの軸くらいになったら、自動フルイ(電動)にかけて、葯だけにします。
25リットルの花から200デシリットルくらいの葯が集められました。
私のお手伝いはここまで。
その後、兄が開葯器(電動)を使って湿度と温度を調整して花粉採取をします。
これでできるのは粗花粉なので、そこからまた精製して10グラムくらいの純花粉が採取できます。
私が子どもの頃から手順はほぼ同じですが、電動フルイは初めて見ました。
子どもの頃は、粉砕機は簡単なのでやらせてもらったことはありますが、荒目、細目のフルイはやらせてもらえなかったですねぇ。
とくに亡くなった祖父は道具の使い方には口うるさかった(汗)ので、子どもにフルイは使わせてくれないンです。
フルイの縁をトントントンなんて叩こうモノなら雷が落ちたからなぁ(苦笑)
でも見ておいたお陰でこの日、初めてフルイを使っても使い方は分かるモンだなー、と。
そして私が使ったフルイがどう見ても亡くなった祖父が使っていたような年代モノ。
私「ニイチャン、このフルイは何年もの?」
兄「さぁ?うちで果樹始めたときからじゃあねぇの?」
私「じゃあ昭和30年くらい?」
兄「そーかもなー」
ほほう。ホントに年代モノだなぁ。
私の実家が果樹園を始めたきっかけは、親戚のお嫁さんの実家が、東京都稲城市(稲城長沼)にあって、廃園にするからと果樹を大量に放出したのが始まりです。
村内の農家達がまとめてもらって来てこぞって植えてみた、という感じ。
当時果樹は多摩川沿いの沖積層土壌で育てるもの、という固定観念があったそうで、実家のような火山灰土壌では失敗するだろう、と言われていたとか。
それがどうにか軌道に乗っちゃったから、もっと内陸の横浜市北部(十日町あたり)でも昭和35年頃には生産が始まったンです。
実家近くの果樹園はいまでは4軒に減っちゃったけど、私が小学生だった昭和50年代後半は10軒くらいは生産していたンです。
いまはマンションばかりになった丘陵地も、当時は丘を果樹園が埋め尽くしていて、春の開花期は丘が丸ごと白く見えて美しかった…これはたぶん一生忘れられない憧憬であり、私の原風景でしょうね。
その原風景と相まって、先人の苦労や道具を大切にする心とか、受け継いでいきたいモノはあるものの、それは簡単ではないな、と思います。
次回も楽しくお手伝いしたいです。