青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

桜ごはんと甘えん坊凜

2016-03-18 07:03:15 | 日記

友人に桜茶用の桜漬けの話をしたら、「桜茶も良いけど、桜ごはんも美味しいよ」と教えられました。分量は、お米3合に桜漬け5~6つです。
炊いている間も炊飯器から仄かに桜の香りの湯気が立って、ちょっとしたお香効果。癖の無い塩味で、香りを楽しむための御飯です。

ところで、ただ今、我が家の柴犬・凜ちゃんが不定期の甘えん坊期に突入中。
何処にスイッチがあるのかわかりませんが、たまに赤ちゃん返りします。いつもはしっかり者のお姉ちゃんなのですけどね~。後追い期の乳幼児のごとく、一日中私について回り、アイロンをかけている間や食事中も膝の上に載ってくるので作業しづらいです(笑)。あと、病気でもないのにブルブル震えます。具合が悪い時に震えたら大事にして貰えたことを覚えていて、悪戯して叱られそうな時や甘えたい気分の時には、とりあえず震えます。演技派犬ですね。可愛いから良いけれど(笑)。
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無鹿

2016-03-16 07:10:28 | 日記
遠藤周作の『無鹿』は、著者晩年の短編集。『無鹿』『取材日記』『あの世で』『御飯をたべる会』の四篇が収録されている。

『無鹿』は、定年間際の銀行員・加治が、彼にとって最後の出張となる宮崎市内の小料理屋で聞かされた無鹿という地を訪れる話。

無鹿は、大友宗麟と西郷隆盛がそれぞれの夢をかけて、その夢が破れた地だ。今は平凡な田舎町で、当時を偲ばせる遺跡はない。北川という川の流れだけが当時のままだ。

加治は出張の直前に血痰を吐き、肺癌を疑われて検査を受けた。その結果は、帰京後に言い渡される。

大友宗麟は、日本史の教科書でキリシタン大名として数行で説明されている程度の、どちらかと言えばマイナーな武将。そのためか、土地の人たちも観光客らしき加治に西郷の話ばかりする。

しかし、この作品の核は宗麟なのだ。
この世の楽土として、この土地を見出し、無鹿と名付けたのは宗麟だ。無鹿は、ラテン語でムジカ、英語でミュージック、音楽と言う意味だ。

宗麟が日本人として初めて西洋音楽を聴いたのは、豊後の府内(現在の大分市)に宣教師トルレスや修道士アルメイダたちが建てた教会を訪れた永禄5年の秋のことだ。
その時、演奏された曲目は記録に残っていない。しかし、初めて耳にした西洋音楽に魅了された宗麟は、ムジカなる言葉を憶え、いつまでも忘れなかった。

宗麟はすぐに洗礼を受けられた訳ではない。
九州六か国の総領である彼は、仏教徒である家臣団や僧侶の反撥、妻の反対を考慮して、洗礼を受けることを伸ばしに伸ばした。そして、北九州の国人たちを絶えず扇動して反乱を起こさせていた毛利元就が死に、宗麟の体制が盤石となったと思われた時になって、漸く洗礼を受けたのである。
生来の虚弱体質に無理を重ね、屋形である激務や絶えざる謀反にくたびれた宗麟は、基督教徒になった時、この世に理想の地を作ろうと思いたった。それは、彼があの時聴いた音楽“ムジカ”のように穢れの無い、山も川も優しい、陽の光温かな土地だ。
「余はその土地をムジカと呼ぼう」
と、宗麟は常々側近にそう語っていた。

宗麟が、北日向の土持親成の居城近くを理想の地と定めたのは、天正6年のことだった。
4万6千の将兵は三軍団に分けられ、主力は府内から南下し、嫡男・義統は大野郡の野津に駐留して背後に備え、宗麟自身は臼杵から日向灘に南下した。出発の日に宗麟の洗礼名、聖フランシスコの祝日である9月4日を選んだのも、日向の理想の地を聖なる街にする記念でもあった。
白の緞子に赤い十字架をつけ、金糸の刺繍がほどこされた旗が、宗麟の乗る船に建てられた。つき従う船にも十字架の旗がはためき、乗り込んだ家臣団はすべてキリシタンに改宗していた。
彼らが上陸したその地には、晩秋の日を浴びた白い薄原が広がり、丘と丘に挟まれた北川が水量豊かに流れていた。北川沿いの丘に教会が建てられ、鐘の音が野に流れる。信仰が人々を結ぶ。神の国をそのまま地上に具現したかった。

だが、一か月後の11月、大友軍は薩摩軍に大敗する。
大友軍は名だたる武将の大半を失い、屍は累々として子丸川から北の耳川の七里の原野を埋めた。耳川もまた大友兵の溺死体で流れが堰き止められたほどだったという。
理想の地は、こうして放棄された。

人間の声の中へ
楽器の音が流れこむ
その瞬間は
秋のよろめき

宗麟が初めて西洋音楽を聞き、理想の地・ムジカを夢見たのも、その夢を永遠に失ったのも秋のことだ。
そして、加治が無鹿を訪れたのは、秋の香りがまだ残る初冬。
加治は、秋の名残を惜しむように宗麟の残り香を求めて、無鹿を逍遥する。それは加治自身の人生の総決算でもあったのだ。
北川の橋を渡った時に、雲の間から陽の光が丘やそのまわりの田園に幾条か射しているのが見えた。それは人間の声の中へ楽器の音が流れこむ、その瞬間のようだった。

宗麟は、美への憧れに生きた人だったのだろう。
その心根は武将より、学者や芸術家に近い。激しい戦乱の世では、敗者となることがあらかじめ運命づけられていた儚い人だ。
本作は、短編ということもあり、宗麟の人物像を深く掘り起こしてはいない。だが、むしろそのことが、遠い昔に夢に殉じた人の残像として、切ない余韻を読者の心に刻む効果となっている。

もっと宗麟について知りたいのなら、遠藤周作の長編『王の挽歌』を読むと良いだろう。長編だけあって、宗麟の生涯に起きた様々な事件、その時その場で抱いたであろう想いが詳しく描かれている。作品としての完成度も『無鹿』より『王の挽歌』の方が高い。
『王の挽歌』の宗麟は、迷いが多く、脆い、ある意味人間臭い人物として描かれている。遠藤周作が、同じキリシタン大名でも高潔と評価される高山右近より、欠点の多い宗麟を愛した理由がわかるのだ。
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ホワイトディ

2016-03-14 07:30:54 | 日記
夫から私と娘にホワイトディのプレゼント。乙女おじさんなので、全体的にピンクピンクしています(笑)。




ルピシアの春紅茶。ロゼ・ロワイヤルと桜&ベリー、それから桜茶用の桜漬けです。桜茶は職場の人にも買っていましたよ。


仄かに香る桜の花びらが心地良い。娘の口には合わなかったようですが(笑)。


ザ・ボディショップのバスフォーム。ブリティッシュローズです。娘の大好きな薔薇の香る泡風呂を楽しみました。




チャプチーノのウーピーパイ。クラシックとピスタチオ&チェリーとストロベリーミルクシェイク。玩具っぽい可愛いデザインです。

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江戸城大乱

2016-03-11 07:17:49 | 日記
『江戸城大乱』(1991)は、徳川五代将軍の 座を巡る跡目争いを題材にした時代劇映画。
監督・舛田利雄。製作・高岩淡 、村上光一。企画・日下部五朗。原案・桂木薫。脚本・ 高田宏治。出演・松方弘樹、十朱幸代、 坂上忍、三浦友和、丹波哲郎、 金子信雄、十朱幸代など。

《延宝8(1680)年の春。四代将軍・徳川家綱(金田賢一)は、虚弱体質で世継ぎも出来ぬまま病いの床に就いていた。
家綱に代わり政を取り仕切る大老・酒井雅楽頭忠清(松方弘樹)は、時期将軍として家綱の次弟・綱重(神田正輝)を擁立した。大方の賛同は得たものの、尾張当主・徳川光友(金子信雄)だけは、「将軍位継承の権利は御三家にもある」と異を唱える。
剛腕の酒井に反感を持つ者は多い。三代将軍・家光の血を引く館林当主・綱吉(坂上忍)もその1人であった。綱吉は若手旗本の不平分子を集めて酒井暗殺を画策するが、彼らの動きはすべて酒井側に筒抜けだった。綱吉らは全員、堀田備中守正俊(三浦友和)によって捕縛された後、小伝馬町にて綱吉以外は打ち首となった。釈放された綱吉は、堀田相手に徳川一門に生まれたことの恨みをぶちまける。

堀田備中守正俊に綱重出迎えの大命が下る。ところが江戸への帰還中に綱重は何者かに殺されてしまい、堀田は窮地に立たされる。

綱吉の生母で、家光の側室・桂昌院(十朱幸代)は、実子の綱吉を五代将軍にと考えるのだが、酒井はこれを強硬に跳ね除ける。
酒井の理不尽な対応に激怒した桂昌院は、酒井とは最早戦うしかないと決意し、堀田に助力を求めた。実は、桂昌院と酒井の間には、綱吉の出生に関して決して口外できない秘密があったのだが…》

あえて五代将軍・綱吉の継承争いというマイナーなネタを持ってきたことは評価したい。
酒井忠清とか堀田正俊なんて映像作品ではなかなか取り上げられる人物でもないので、彼らを中心に据えて、どのような物語を作り上げたのか興味を持って鑑賞したのだが…。
如何せん切り込み方が中途半端なのである。地味でも史実に忠実に進めるか、お金をふんだんにかけて娯楽性に特化するか、どちらかにして欲しかった。

あまり知られていない地味なテーマを持ってきたがゆえに、何とか盛り上げようとして余計なエピソードを盛り込み過ぎて散漫な印象になってしまった。首を傾げたくなるような珍説がいくつも採用されているので、気が散って仕方が無い。架空の設定は最後に明かされる酒井と綱吉の隠された関係のみにしておいた方が、インパクトが大きかっただろう。

それならば、せっかく有名なテレビ俳優を多数起用しているのだから、お正月長編テレビ時代劇風に賑やかな内容にすれば良かったのかと言えば、そんな内容ならあえて劇場に足を運ぶ意味も無いわけで…。本作にも一応殺陣や爆破シーンはあるのだが、ちょっと予算不足が透けて見えるような仕上りだった。無理に劇場上映にせず、二時間ドラマとしてテレビで放映すれば良かったのではないだろうか?

将軍家の世継ぎ争いなのに、登場人物が皆あまり賢くない印象なのが残念。知力より暴力で、まるで田舎ヤクザの抗争劇である。
知略も戦略も中途半端で、登場人物たちそれぞれの背景や動機が曖昧。それもあえてぼかしているのではなく、単に構想の練り方が甘いだけというような印象だ。俳優の知名度に寄りかかった作品だと思った。

文句ばかりで終わるのは心苦しいので、最後に気に入った点を一つ挙げたい。
力強い毛筆の題字に、ギラギラした笑みを浮かべた酒井の生首が宙を飛ぶパッケージのデザインは格好良かったです。
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山猫

2016-03-09 07:04:40 | 日記
『山猫』(1963年・イタリア・フランス)は、ルキノ・ヴィスコンティが唯一自身を語ったという意味で代表作中の代表作。1963年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールに輝いた。
ミラノの名門貴族の家柄に生まれたヴィスコンティが、1860年のイタリア・シチリア島で歴史の波に呑まれていく名門貴族の悲哀を描く。
主演はバート・ランカスター。他にアラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレ、リナ・モレリ、パオロ・ストッパ、ジュリアーノ・ジェンマなどが出演。

貴族趣味溢れる装飾品の中でも、特に鏡の使い方が効果的だった。私は鏡に映る人物と本人を同時に視るのが好きなのだが、『山猫』にはそのような場面が多かった。本人よりも鏡に映る顔の方が雄弁なのだ。
特に印象的だったのはサリーナ公爵(バート・ランカスター)が髭を剃る場面。
サリーナ公爵の覗き込んでいる鏡に甥のタンクレディ(アラン・ドロン)の顔も写っている。その後、椅子に腰かけ、サリーナ公爵と会話を続けるタンクレディの斜め後ろにも鏡があって、正面を向いて話すタンクレディと、鏡に映ったタンクレディの横顔や後頭部がカメラに同時に捕えられている。本人が鏡を意識していないというのが良い。

『山猫』の主人公は、山猫の紋章で知られるシチリアの貴族・サリーナ公爵。イタリア統一時代のシチリアを舞台に、 社会情勢の推移、公爵自身の心情の変化が新しい世代のタンクレディやアンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)との対比によって描かれている。

1860年、イタリア統一を目指すガリバルディ率いる義勇兵団・赤シャツ隊がシチリア島に上陸した。それまでのイタリアは、ローマ教皇領を含めた小国が乱立した弱小国家集団だった。統一運動は、南部イタリアの王朝国家の滅亡や北部イタリアのオーストリアからの割譲などを経て、1870年にローマの教皇領を併合することにより完了する。
その中で、貴族社会は終焉を迎えようとしていた。旧世代の貴族の一人であるサリーナ公爵も、ついには統一国家の国王に一票を投じることになる。また、革命運動に身を投じる甥のタンクレディは公爵の娘よりもブルジョアの娘・アンジェリカとの結婚を望む。

サリーナ公爵は、時代の波に乗ろうとするタンクレディを愛し、新世代の若者たちが自分の属する古い貴族社会を破壊することを甘受する。

イタリア統一の是非を問う国民投票の後にミラノから新政府の高官がシチリア島を訪れる。
高官は、新政府がサリーナ公爵を上院議員に推薦することに対して、サリーナ公爵自身の内諾を得るために派遣されたのだ。高官はサリーナ公爵に、新政府内の中でサリーナ公爵への評価が高いことを伝える。
しかし、サリーナ公爵は、「私は不幸なことに、新旧二つの世界にまたがって生きている。そして、なんの幻想も持っていない」と上院議員への推薦を断るのだ。
高官は、「今やこの島は未来ある新しい国家の一部です」と説得を試みるが、サリーナ公爵は暫く下を向いた後に、「言われることは分かるが、遅すぎた」と答える。
サリーナ公爵は、「我らの願望は――忘却だ。忘れ去られたいのだ」と呟く。「逆に見えても、実はそうなのだ。血なまぐさい事件の数々も、我らが身をゆだねている甘い怠惰な時の流れも、すべて、実は、官能的な死への欲求なのだ」と。
サリーナ公爵は、自分の代わりにタンクレディの義父となる人物を推薦する。
高官は「彼の事なら聞いたことがあります。だが、我々には公爵様が必要だ。理想なき者の登場は困るのです」と懇願を続ける。
しかし、サリーナ公爵の心は変わらなかった。

全編を通して、古い時代と共に滅びゆく美しい人々と、新しい時代を生きる逞しい人々の対比が荘厳に描かれている。

タンクレディの下品な冗談に、アンジェリカがこれまた下品な馬鹿笑いで応じ、同席していた貴族たちが侮蔑を露わに全員退出する場面。
タンクレディに抗議したサリーナ公爵の娘の顔は硬質な清らかさを湛えていて、そばに居たアンジェリカは卑下するように目を伏せていた。しかし、時代の変遷は残酷で、両者の形勢は逆転し、美しい貴族たちは滅びていく。

そして、新旧二つの階級が参加した大舞踏会の場面。
多数の蝋燭が点火された中を踊る242人の貴族役を演じた人々は、3分の1が実際のシチリア貴族の末裔たちだそうで、その場面ばかり何度も観なおしたいほど豪奢だった。
華やかな舞踏曲が流れる中、着飾った人々の群から離れて静かな部屋にたどり着き、鏡に向かって一人静かに涙を流すサリーナ公爵。官能的な死への欲求を湛えた彼の泣き顔を高貴で美しいと思うと同時に、美しい人が損なわれていく姿に仄暗いざわめきを覚える私はつくづくゲスで図太い一般大衆なのだと、己に呆れてしまうのだった。

おお 星よ
変わらざる星よ
はかなきうつし世を遠く離れ
なんじの永遠の時間に
我を迎えるは いつの日か?
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