青い花

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山の人魚と虚ろの王

2021-09-14 08:43:32 | 日記
山尾悠子著『山の人魚と虚ろの王』

“これはわれわれの驚くべき新婚旅行の話。ある種の舞踏と浮遊についての話。各種の料理、いくつかの問題ある寝台と寝室の件。大火。最終的には私が私の妻に出会う話。”

前作『飛ぶ孔雀』から三年ののちに刊行された本作は、内容的には短篇集『歪み真珠』中の「夜の宮殿の観光、女王との謁見つき」「夜の宮殿と輝くまひるの塔」に続く物語だ。本編と四つの短文が収録されている。

硬質で明瞭な文体は健在だった。
何もかもが虚構の幻想文学なのに、出てくるアイテムの描写がリアルで、そのギャップに酩酊する。浮遊と舞踏の物語ということで、特に。
夜闇に輝く電飾とガラスや金属の建造物という山尾作品でお馴染みの舞台で、生死の定かでない主人公と、浮遊する年若い妻が脅威の五日間を過ごす。

妻の女代理人の手配で、主人公夫婦は夜の宮殿まで列車の旅に出た。
夫婦にはそこそこの年齢差があり、しかも互いによく知りもしない。今回の旅程については、思うところが色々ある。行く先々で電話をかけてくる女代理人に対しても。

新婚旅行は初日から波乱含みだった。
旅牛が通過すると、列車は停車駅でもない場所で動けなくなる。
列車が遅れに遅れたため、駅舎ホテルに深夜の到着となった主人公夫妻は、夕食も取らせてもらえず、新婚だというのに強制的に別々の階の部屋に追いやられる。
部屋は相当に狭く、何より格子天井が低くてほどんど頭を打ちそうなほどだった。
深夜、主人公は部屋の窓から、駅の構内で立会人なしの決闘が行われているのを目撃する。獲物は大ぶりのナイフ。技量の差がものを言い、決闘はじきに決着がついた。主人公はナイフを拭く勝者の男と視線が合う。この男の顔を旅の間、数度に渡って目撃することになる。

寄宿学校にいたらしい。主人公とは血縁があり、共通する伯母は〈山の人魚団〉という舞踏集団を主宰している。それ以外、主人公は妻のことをほとんど知らなかった。
旅の中で、主人公は妻にはいくつかの特徴的な癖があることを知っていく。それらを旅の間に、或いは人生の意外な局面で目撃することになる。
ぎゅっと目をつむり、眉をしかめ、子供のように口の両端を下げる。行く先々でパンを大量に鞄にしまい込む。ちょっと目を離すと行方不明になる。「あたしは狭い場所が好き」と繰り返し言う。そして、野放図に浮遊する。

主人公が夜の宮殿に行くのはこれが三度目だ。
一度目は母と来た。
主人公の子どもの頃の記憶には空白があり、母がいつ亡くなったのか覚えていない。その母が若いころの姿のままで現われ、主人公と言葉を交わす。

宮殿事務局の抽選会場で知り合ったP夫妻とともに夜の宮殿の降霊会に参加する。
全員で手をつなぎ、テーブルを囲んでいると、隣の妻がみるみる空中に浮きあがり、そのまま降りてこなくなる。
数多くの列柱越しには舞踏集団によるパフォーマンスが垣間見えている。
屋外の芝地には、抽選に漏れて宮殿の中に入れなかった観光客たちが毛布を広げて犇めいている。
妻とは宮殿内で何度もはぐれ、探し回る羽目になったし、シャンデリアと鏡だらけの一角でナイフ投げの的になっている姿を見た記憶もある。
だけと、これらすべては、泥酔した主人公がバスルームで見た妄想かもしれない。

“夜の宮殿の印象。視覚の記憶。夜の宮殿内はぎらつく照明に満ち満ちて、ほとんど目が痛くなるような白黒市松格子の床の大広間に長い長いテーブルがある。クロスをかけたテーブルの最も遠い上座に女王らしき盛装の中年女が座り、給仕を受けながら食事をしている。丸ごとの魚をゼリー寄せの花野菜で覆ったもの、ほろほろと崩れる骨付き肉、汁気たっぷりの多重層パイ、嚙みちぎられ奥歯で磨り潰される細片や泡立つ汁は唇から溢れだし、顎へと垂れるかあるいは周辺のあらゆる部位へと派手に飛び散る。母に手を引かれた子供である私はテーブルのもっとも下手の位置にいて、女王の様子をじっと観察している。極端に長いテーブルの中途あたりにもひとがいて、ぎざぎざの短髪で真っ青な顔の娘が座って目を伏せうつむいている。女王が山の伯母だとすれば、真っ青な顔の娘はげんざいの私の妻なのだろうか――それは少し違うのではないか、と子どもの私はひそかに考えている。”

時系列のはっきりしない物語である。
これは現在の主人公が体験していることなのか、それとも子供時代の主人公が見た夢なのか。そもそも主人公が現在生きているのかも怪しいのだ。

そこだけ別次元の空間といった美しさの〈山の人魚団〉の娘たち。
毛皮の種類や髪の結い方が様々であるのと同様、どれも完璧に整った顔にはそれぞれ差異があるようだ。山の伯母は、彼女たちを主人公の妻よりも大切にしていたのに、なぜか後継者に選んだのは妻だった。

女代理人から送られた伯母の逝去を知らせる電報と、それに続く電話で、主人公は妻と共に彼の生家に戻ることになる。主人公の歩みは旅程通りではないのに、どこにいても確実に電話はかかってくる。まるで、彼の脳内に直接つながっているようだ。
生家の管理人の孫にあたるのが、例のナイフ男らしい。

〈山尾の人魚と虚ろの王〉は、昔からの団の代表作だ。
多くの柱が並ぶ明るい場所で楽し気に踊る人物がいて、どうやら脚を得た山の人魚が王宮の舞踏会で踊る場面であるらしかった。
踊り子の衣装は、立体フリルの多重層で内側がぎっしり詰まった長いスカートと、堅固なコルセット。乳房に食い込み不自然に押しつぶす際どい衣装は、どれほど激しく動いてもずれ落ちることがなく、むき出しの背中や腕の肉感が目を楽しませる。
一点物の舞台衣装と異なり、舞台靴はなぜか型番付きの既製品だ。
主人公が妻を探している間に、舞台の場面は変わり、剣劇場面らしく、男の踊り手と男装の踊り手がナイフで渡り合っていた。

舞踏公演の続く表側エリアを過ぎ、立食会場に出る。
シャンデリアの反射がぎらつく床は鮮やかな白黒市松格子で、これは主人公が子供の時に見たものと一緒だ。
長いテーブルに所狭しと並ぶご馳走の皿や、林立する瓶や霜のついたピッチャーには、夏の離宮らしい献立が多めに感じられる。街はすでに秋だというのに、夜の宮殿の時間の流れは奇妙にずれている。
妻はと言えば、固いシューをピラミッド型に飴で固めたデザートに関心を寄せている様子だった。
その間にも、巨大なシャンデリアの一つは微妙に揺れ動き続けている。

シャンデリアの猿は、夜の宮殿における記憶の小景の一つだ。猿は実際にいなくてもいい。山の伯母に扮した女舞踏手は言う。

“「非在の猿ってことね。シャンデリアに飛びついて揺らすだけの存在。長い鎖で吊られて、ゆったり振り子のように揺れるシャンデリア、あたしはネックレスみたいなタイプのシャンデリアがいちばん好き」”

“「そうねえ、ごつごつした枝燭台みたいなのじゃなくて。ダイヤみたいなクリスタルガラスが、長く連なって、それがたくさん束になって。白い炎の滝みたいになった船底型のシャンデリア」”

夜の宮殿の気配そのものの真白なシャンデリアを飛び移る猿。
煌めくクリスタルガラスの連なりから、垂れる尻尾を見たことがあるような気がする。舞台の床には、淡い影が散り敷くように交錯する。足を頭より高く上げることのできる女たちが輝くシャンデリアの底から片手片足で吊り下がっている。

“「虚ろの王はね、衣装だけの存在でその役の踊り手はいないの。でもほかに、機械仕掛けで少し動く個体もあるのよ」――舞台衣装に細い毛皮を巻いた若い女団員は私に向かって言うような別の誰かに向かって言うような、不思議なもの言いをした。「ワイヤーで中身のない衣装がつられていたのがね、あれが〈月の位相と虚ろの王〉のパートだったの。そういうこと」”

葬儀は明後日なので、必ず明日のうちに山のお屋敷へ到着するように。
女代理人の言葉に従って、主人公夫妻は、旅行の三日目に午前の列車に乗り込んだ。妻の相続の件があるし、山の人魚の葬儀となればいかないわけにはいかない。
またもや旅牛の通過に遭遇したため、到着したのは深夜だった。
主人公夫妻は、老管理人の案内で、聖堂か僧院の内部のような空間で一晩を過ごすことになる。この時も妻は「あたしは狭い場所が好き」と言い、その声を聴きながら眠りに落ちた主人公は、駅舎ホテルの狭小サイズのバスルームの夢を見たのだった。
朝になると妻の姿は消えていて、寝台には主人公の母がいた。

場内は、舞踏団のメンバーや、フードを被った老管理人、ナイフ使いの男など様々な人たちでごたついている。
妻と女代理人が入場すると人波は二手に分かれ、広い場内の別の場所では巨大な彫像を搬入する騒動が起きている。
主人公はようやく妻と話すことが出来た。

“「列車の事故がありましたの、あなたは重傷を負い、意識不明なのですわ」
「どの時点で」私は尋ねたが、子どものころ読んだ本のなかの出来事のようだと思われたのだった。「さいしょの日、それとも二日目か三日目かな」
「さあ、それはあたしにはわかりかねますわ」”

運び込まれた彫像は、巨大な足首であり、棺桶を模した形の台座の据えられたそれは、舞踏家のデスマスクということのようだった。その足の爪や甲、踝の形は、〈つま先立ちの魔女〉との異名を持つ山の伯母の足の形にそっくりなのだった。
人波の渦巻く場内では、女代理人が「あの娘こそが今や唯一の相続人であり、継承者なのですわ」と宣告する。山の人魚の遺したもの、その思想を継承し、更に子へと伝えて行けるのは、主人公の妻のみなのだ。それに対する不満や反論の声で場内は騒然とした。

母の声が言うことには、妻は世俗的に言ってもいろいろと継承している娘であり、あの娘を狭い場所に封印していたのは山の伯母の判断だったらしい。そして、近い血縁だけあって主人公夫婦の顔は結構似ているが、それぞれの虚ろはまったく違っている。

主人公は妻を追って地下へ向かう。
地下室は横倒しになった様々な機械の残骸と、それに押しつぶされた何者かの体から流れる血で惨憺たるありさまだった。
そこで見た、痙攣するように不格好な突起部からどくどくと黒い油を垂れ流し、機械仕掛けで動いていた虚ろの王は。

“火をつけるのよ。燃やすの。なかったことするの、何もかも”

火をつけて逃げる二人に、火の反映はどこまでも付きまとう。
主人公は、ふらふらと浮遊する妻の手を苦心惨憺引っ張りながら走る。人魚が去った後の霧の海や血走った一つの巨大な眼球が浮遊しているのが柱と柱の間から見える。闇の中で無数の光線が四方へ放たれる。港駅行きの列車に乗り込んだ二人は。

“これがわれわれの話。夜の宮殿の印象。その他の旅のこと。”

彼らの新婚旅行の、どこからどこまでが夢の中の出来事なのかが判然としない。
極端な話、主人公は最初から最後まで昏睡状態であるとも解釈できる。その後、妻の財産の運用を任された女管理人は、主人公のことを昏睡中のままであるかのように振舞うのだ。
機械仕掛けの虚ろの王とは何者だったのか?なぜ山の伯母は、妻を狭い場所に封印していたのか?主人公と妻、それぞれの虚ろとは?
それらすべてが謎のまま、星々を散りばめた暗黒宇宙のような物語は幕を下ろす。
旅行から十月十日後に生まれた夫妻の子どもの目からは、静かで精巧な機械音を感じることがある。それは、主人公自身の中にも感じられなくもないのだった。

駅舎ホテル、夜の宮殿、山のお屋敷と巡って、主人公はどんな妻と出会ったのだろう。
物語は、一応、ラストで最初の場面に戻っているように読めるのだが、途中に差し挟まれた同じ場面や同じ台詞の反復によって、時空に捻じれが生じ、別の地点に繋がったようにも読める。
主人公は、互いに口に出さない記憶を共有する共犯者としての夫婦になったと述べているのだが、さて。

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