青い花

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『ふたつの人生』ウィリアム・トレヴァー

2023-10-13 08:10:29 | 日記
ウィリアム・トレヴァー二冊目読了。
前回読んだ『ラストストーリーズ』は短編小説集だったが、本書には「ツルゲーネフを読む声」と「ウンブリアのわたしの家」の二作の中編小説が収録されている。

「ツルゲーネフを読む声」は読む女、「ウンブリアのわたしの家」は書く女の物語だ。
両者は完全に独立した作品だけど、アルバムのA面とB面のように楽しむこともできる。
ひたすら己の世界に閉じこもり他者を拒絶する読む女と、親切と言えば親切だが、押し付けがましく、他者との距離の詰め方がおかしい書く女。
出会った当初に困惑するのは後者の方かもしれないが、実は前者の方がはるかに傲慢で手強いのではないか。人生を損なわれたのは彼女ではなく、彼女の夫や義姉の方だと思った。

「ツルゲーネフを読む声」は、田舎町の一人の女の人生を追うという、ともすれば単調になりがちなストーリーに読者を飽きさせない仕掛けが施されている。
作中に流れる二つの時間軸。主人公が度々口にするツルゲーネフの小説からの引用。物語の背景にある1950年代のアイルランドにおけるプロテスタントの衰退。それらの組み合わせの妙味が、物語に独特の寂寥感を帯びさせている。

メアリー・ルイーズは、現在57歳。
31年間精神病院で暮らしてきたが、病院が閉鎖されることになったので、夫エルマー・クウォーリーが迎えに来て家に戻ることになった。
物語の主な舞台は、メアリー・ルイーズが若かった頃のアイルランドの田舎町。彼女が執着する「人生で一番好きな一年」は、1957年だ。

メアリー・ルイーズとエルマーは、ともに先祖代々プロテスタント信徒だ。メアリー・ルイーズの初恋の人で、彼女の従兄弟のロバートもプロテスタント信徒。
物語の進行につれて萎れていく三人の人生は、アングロ・アイリッシュの衰退の暗喩とみることができる。1950年代のアイルランドにおいてプロテスタント信徒は、かつての特権を失い零落していくマイノリティーだった。
一方で、新興中産階級であるカトリック信徒の羽振りの良さは、メアリー・ルイーズの姉レティが結婚するデネヒーの実家の隆盛に現れている。
レティが進んで夫の実家の同化し、生まれてきた子供にカトリック的な名をつけるエピソードに、カトリック信徒とプロテスタント信徒の力関係の逆転を見て取れる。

21歳のメアリー・ルイーズは、自作農の単調な暮らしから逃れたかった。
35歳のエルマーは、実家の服地商会の跡継ぎをつくる目的で若い嫁が欲しかった。
そんな二人が出会い、交際を始め、結婚を決意する。
メアリー・ルイーズの両親は、エルマーの資産に魅力を感じるが、兄と姉は、メアリー・ルイーズとエルマーの年齢差、エルマーの冴えない容貌、エルマーの二人の姉たちの底意地悪い性格を理由に結婚に反対する。エルマーの姉たちは、メアリー・ルイーズの実家の貧しさからやはり結婚に猛反対する。
怪しい雲行きの中で始まった結婚生活は、エルマーが不能だったことから、予想以上に悲惨な展開を迎えることになる。
メアリー・ルイーズには、夫の不能を打ち明け、相談できる相手がいない。周囲の人々の子宝を望む目と、同居する義姉たちからの嫌がらせに、メアリー・ルイーズは追い詰められ、度々自転車で遠出をするようになる。
エルマーはエルマーで、夫婦生活のプレッシャーからアルコールに溺れるようになっていた。

ある日、憂鬱な気持ちに任せて自転車を漕いでいたメアリー・ルイーズは、いつの間にか従兄弟の家の近所に辿り着いていた。
黙って通り過ぎるつもりだった。だが、伯母に見つかり家に招かれてしまった。そこで、従兄弟のロバートと数年ぶりに言葉を交わした。結婚から二年後、1957年のことだった。

メアリー・ルイーズは、少女時代の一時、ロバートに恋心を抱いていた。
それは短期間で、病弱なロバートはじきに学校に通えなくなってしまった。彼との接点が無くなってすぐに恋心は冷めたので、メアリー・ルイーズ自身、ロバートへの恋は、恋に恋するような淡い気持ちだったと片付けていた。
ロバートは今でも一日の大半を自宅で過ごしている。メアリー・ルイーズの結婚式に出席していたが、披露宴には参加しなかった。
ロバートは博識で読書を好み、特にツルゲーネフの三冊を大切にしている。メアリー・ルイーズは読書の習慣を身につけずに育ったが、ロバートとの再会を機にツルゲーネフを読むようになった。

二人はロバートのお気に入りの場所であるアトリッジ家の墓所でツルゲーネフを朗読した。
薔薇の茂みに覆われた教会の前を歩き、サギを見に小川に通った。それは二人だけの秘密の時間。メアリー・ルイーズは夫にも実家にもロバートに会いに行っていることは黙っていた。伯母は姪が病弱な息子の見舞いに来てくれていると思っていた。
メアリー・ルイーズは、ままならない現実から逃げ出し、虚構の世界に楽園を見出す。それは、ロバートの死を境に、誰にも踏み込むことができない不可侵領域となった。
死の前日、メアリー・ルイーズはロバートから、子どもの頃からずっと彼女に恋していたと告白された。だから、披露宴には出席できなかったのだと。
メアリー・ルイーズは夢見心地のまま、自転車を漕いで帰宅した。素敵な日だった。互いの気持ちを知っていたら、エルマーとなど結婚しなかったのに。
幸せな気持ちは、その日の深夜にロバートが急死したことから美しい夢のまま永久に凍結した。

メアリー・ルイーズは、ロバートの葬式の後に開かれたオークションにこっそり参加して、ロバートの家具とおもちゃの兵隊を手に入れた。貧家に寄付されたロバートの衣服を買い取った。伯母の部屋からロバートの懐中時計を盗み出した。それらを自宅の屋根裏部屋に運び込み、籠りきりになった。
義姉や夫が何を言おうが聞き流した。いつも上の空で、会話に唐突にツルゲーネフの小説の文言やロシア人の名が混ざるようになり、人々は彼女の狂気を確信した。
義姉の食事に殺鼠剤らしきものが混入する事件が起こり、メアリー・ルイーズは精神病院に入れられた。
メアリー・ルイーズは、病室にロバートの遺品を持ち込んだ。
31年間、そこでツルゲーネフを読むロバートの声を聴き、彼との空想に浸りきった。
幸せだった。虚構の世界に閉じ籠るには、義姉や夫のいる自宅の屋根裏よりも病院の個室の方が適していたのだ。

母親以外の人と顔を合わす機会が殆どないロバートの単調な生活の中で、メアリー・ルイーズへの恋心は褪せることはなかった。
だけど、メアリー・ルイーズは?

“ロバートとわたしは、生まれる前からお互いの一部だったんです。お互いのことを知るずっと前から”

本当に?
彼女の中では、ロバートへの恋心は一時の気紛れみたいなもので、結婚式で彼の姿を見た時にも特に心が疼くことはなかったのだ。
エルマーとの夫婦関係がうまくいっていたら、せめて子供が生まれていたら、ロバートと再会しても恋心が再燃することはなかったし、ツルゲーネフにのめり込むこともなかったのではないか?
少女時代にメアリー・ルイーズがロバートと交際したとしても、案外短期間で別れたかもしれない。
だけど、思い出と妄想とツルゲーネフの小説が混ざり合った世界では、二人は死にも分かたれない永遠の恋人同士だった。
ロバートは彼が望んでいたアトリッジ家の墓所とは別の墓所に埋葬されていた。
メアリー・ルイーズはそれをずっと気にしていて、入院中から面会に来るエルマーに度々埋葬のやり直しを要求していた。それは自宅に戻ってからも変わらなかった。
エルマーの家業は零落し、とうに店を売り渡していた。それでも、エルマーは妻を精神病院に入れた罪悪感から、彼女に出来るだけのことをしてやるつもりでいる。

31年の間にプロテスタントは衰退し、町はカトリック式になっていた。
プロテスタントの教会を訪れるのは、今ではメアリー・ルイーズただ一人だ。
メアリー・ルイーズは、ロバートのためにセンスの良い衣服を身に纏い、信徒席に腰掛ける。ロバートが「きれいだよ」と言葉にした美しさはまだ消えていない。
最後の夜、ロバートはメアリー・ルイーズの姿を夢に見ながら、聖母マリアそっくりだとつぶやいて死んだのだ。

教区に派遣された若い牧師は、メアリー・ルイーズと対面すると、いつも信仰を試されている気持ちになる。
メアリー・ルイーズは牧師に色んなことを打ち明けていた。
ロバートと墓地に行き、二人きりでツルゲーネフを読んだこと。処方された薬をトイレに流し続けたこと。精神病院に入れられる決定打となった殺鼠剤事件は、実は緑色のインクを混ぜただけだったこと。
牧師の目には、メアリー・ルイーズは幸せそうに見える。愛に生きる彼女は、じっさい1957年からずっと幸せなのだ。
牧師は、若い頃のメアリー・ルイーズの姿を思い浮かべる。いくつもの場面の後、ツルゲーネフを読むメアリー・ルイーズとロバートの声が絡み合う。二人の世界には、彼ら以外の人間は存在しない。
メアリー・ルイーズは、夫や義姉たちより長く生き延びるだろう。
遠い未来から、年老いたメアリー・ルイーズに「望み通り手配しました」と告げる牧師自身の声が聞こえる。
僅か数ヶ月の思い出をよすがに31年を生き、これからの人生も生き続ける女の一生。それを下支えするのは、彼女の夫の経済力というやり切れなさ。
牧師は愛の真実におののきつつも、恋人たちの葬式を引き受けるのはお安い御用だと思っている。
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