青い花

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ウィリアム・トレヴァー『異国の出来事』

2024-10-09 08:31:44 | 日記
アイルランドを離れ、異国を舞台にした旅がテーマの短編集。日本オリジナル編集による傑作選だ。
収録作は、「エスファハーンにて」「サン・ピエトロの煙の木」「版画家」「家出」「お客さん」「ふたりの秘密」「三つどもえ」「ミセス・ヴァンシッタートの好色なまなざし」「ザッテレ河岸で」「帰省」「ドネイのカフェでカクテルを」「娘ふたり」の12編。

私がトレヴァーの作品を読むのはこれで四冊目だが、本作で初めて読むのにしんどさを覚えた。
つまらなかったわけではない。そもそもつまらなかったら最後まで読んでいない。
カバーの紹介文に“旅をめぐって静かな筆致で精密に綴られる普通の人々の〈運命〉と〈秘密〉の物語”とある。そのとおりの短編群なのだが、トレヴァーの作品は、アイルランドの美しい自然の描写を抜きにすると随分と息苦しくなるのだなと妙な感慨を抱いたのだった。

普通の人々とは、誰もがみな、人知れず苦い思いを心の奥に抱きながら、何ということも無い顔をして生きているものなのか。
そうなのかもしれない。巧妙に体裁を取り繕い、他人だけではなく自分自身をも偽りながら淡々と過ごしている人生が、日常から少し離れた異国の旅で些細なことから地金が露になり当惑する。
夫婦、恋人、親子、友人、行きずりの男女……様々な組み合わせの物語が綴られるが、どの組み合わせも絶望的なくらいわかり合えない。これが普通の人生というものか。
道を踏み外さず、普通に生きることの息苦しさをこれでもかと浴びながら、逆説的に普通の人々の尊さを考えさせられる短篇集だった。

「エスファハーンにて」は、妻の不貞による離婚を二度も経験した男と、インド人実業家と結婚したが、相手に思ったほど資産がなく、そのうえ大勢の親族との同居を余儀なくされた女の観光地エスファハーンでの一夜の語らい。
何か起こりそうで、何も起こらない。バーで飲みながら、男が女の身の上話を聞かされただけだ。
女は旅の中で思いやり深い一人の紳士に出会ったと思った。男は女が望むような礼儀正しく快活な紳士としてふるまった。女はその男との思い出をポンペイのバンガローに持ち帰り、失敗に終わった己の人生の数少ない素敵な思い出として、終生抱きしめ続けるのだろう。
男はというと、自分の話は殆どせず聞き役に回っていただけなのに、なぜ自分が寝取られ男になってしまったのか分かってしまった。

“世の中の表面をすいすい移動していく男だが、自分自身を見せる場面も表面しか見せられない。ゆきずりの男としてしか受け止めてもらえない人間なのだ。それゆえ二度も結婚したのに、見た目と異なる自分自身を見せられぬままに終わった。人生で一度妻を寝取られたのならば運が悪かったですませられよう。だが同じことが二度起きたとなると、自業自得めいた匂いがしてくる。”

男は自分の存在が他人の人生を彩る材料でしかないという事実に気づいてしまった。
綺麗にラッピングされた彼の内側には、実は何も入っていなかったのだ。

「帰省」は、同じ汽車で帰省する寄宿学校の少年と副寮母の突然の関係の逆転が鮮やか。
自分を大層賢いと思っているらしい生意気な少年が、無害そうに見えた副寮母の感情の爆発に圧倒され狼狽える様には、大人を舐めるから怖い思いをするんだと少しだけ愉快な気持ちになった。
異性関係の奔放な母を軽蔑しながらも、その母の財力でウェイターや副寮母などの労働者階級に横柄な態度を取っていた少年が、おそらく生まれて初めて大人を怖いと思った瞬間だ。
この地味な中年女の体のどこにマグマのような負のエネルギーが宿っていたのか。
面白半分にからかい貶めた女の38年の歳月がどれほど重いものだったか、13年しか生きていない少年には理解が及ばなかったことだろう。
容姿の醜さゆえに、折り目正しい人生を送らざるを得なかった副寮母の気持ちを考えると胸が痛くなる。何で何も悪いことをしていない人が尊厳を踏みにじられないといけないのか。
醜さを補うほどの知性も特技も持ちえなかった副寮母は、両親の失望をひしひしと感じ、映画一本観に行くのにも気兼ねしながら、この先も面白くとも何ともない人生を送るのだ。

「娘ふたり」は、旅先のシエナで再会したかつての親友同士が、同じ青年に恋した苦い過去を思い出す。
本書収録作の中で唯一アイルランドを舞台としているため、ほかの作品に比べると爽やかな印象だが、この青年は収録作の登場人物の中でもトップクラスに質が悪い。
物語の基調として、衰退していくアングロ・アイリッシュの末裔たちの日常と田舎の美しい自然が繊細なタッチで描かれる。
二人の少女は、一人は地元の子で、もう一人はイギリスから疎開してきた子だ。
二人の行きつけの菓子屋はバニラと葡萄の混ざった匂いがして、ショーウインドーにはリコリス菓子、レモネードパウダー、ゼリー菓子など色とりどりの菓子が並んでいる。それらの可愛らしい商品名とともに、少女たちの口から語られるいくつもの小説や映画のタイトルと、彼女たちが自転車で走り抜ける爽やかな夏の空気を纏った田舎道。そんなトレヴァーの作品でお馴染みの描写が、胸を締め付けられるような哀惜をもって丹念に重ねられていく。
このまま娘ふたりの少女時代がキラキラした煌めきのままで終われば良かったのに、二人は同じ青年に恋してしまった。
私がこれまで読んだトレヴァーの作品で、恋が美しいものだったためしがない。
娘ふたりの思春期は、優しそうな顔をした悪魔に無残に踏みにじられた。
病弱な青年は何を思って、娘ふたりに恋のゲームを仕掛けたのか。彼は娘ふたりが16歳の時にあっさり死んでしまったので、その心の裡はわからない。
自惚れからなのか、病身の鬱屈からなのか。
彼が娘ふたりの恋心を操り、友情を歪めることで自分という人間がいたことの爪痕を残そうとしたのならば、それは一時の儚い勝利でしかなかった。
娘ふたりの友情は元には戻らなかったけど、死者の記憶は歳月の波に浚われ朧気になり、ドラマ性を失った。小手先の奇術で娘ふたりを翻弄した男は、ずっと昔に亡霊になっていた。それを確認できただけでも、中年を迎えたふたりが異国で再会した意味があったのかもしれない。

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