青い花

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ホフマン短篇集

2021-12-14 08:34:09 | 日記
池内紀編訳『ホフマン短篇集』

「クレスペル顧問官」「G町のジェスイット教会」「ファールンの鉱山」「砂男」「廃屋」「隅の窓」の6編収録。

一ヶ月ほど前に、ジェローム・K・ジェロームの『骸骨』を読んだのだが、その後無性にホフマンが読みたくなった。やはり私にはドイツロマン派がしっくりくる。
ホフマンは、ドイツロマン派を代表する作家だ。ホフマンと聞いてピンとこない人にも、「くるみ割り人形」の原作者と言えば伝わるだろう。
本書収録作の中では、「砂男」が最も有名だと思う。この短編は、ドイツロマン派アンソロジーや恐怖短編アンソロジーなどに取り上げられることが多い。

“わたくしたちの心に意地悪い糸をたらしてうまうまとひっかけて、普段なら足を踏み入れないような危険きわまるところにわたくしたちをひきずっていく暗い力があるとしましょう。もしそういう力があるとしたら、自分のなかにあって、自分自身と同じかたちをとり、つまりはわたしたちそのものになるにちがいありません”

“魔性の力にうつつをぬかしていると外の世界が投げかける異様な心を自分のなかに見るものだし、それはつまるところ、自分で自分に興奮しているだけなのだが、ついに妙な錯覚におちいって、その姿が語りだすように思うものだと。自我の幻影とでもいうのかしら、それがぴったり寄りそったり働きかけたりする結果、地獄に落ちることにもなれば天国に舞いのぼることにもなると”

夜いつまでも眠らない子供の目に砂を押し込み、血まみれの目玉を持ち去る砂男の伝説に、ナタナエルの子供時代に暗い影を落とした弁護士コッペリウスが重なる。
コッペリウスとナタナエルの父親は、深夜に度々怪しげな実験を繰り返していた。
実験の最中に爆発事故が起き、父親は惨い死に方をした。コッペリウスは事故直後から失踪し、ナタナエルとは縁が切れたかに思えた。

青年になったナタナエルは、遠縁のクララと婚約を結ぶ。
ところが、ナタナエルが大学に進学すると、下宿に晴雨計売りのコッポラが訪れるようになった。コッポラの風貌は、あのコッペリウスを彷彿とさせた。
晴雨計などいらないと断るナタナエルに、コッポラはしゃがれ声でいうのだった。

“晴雨計はいらんとな!――ならば目玉はどうかな――きれいな目玉だがな!”

コッポラが机一面に眼鏡を並べていく。ガラスの眼差しが入り乱れて交錯し、光の束となってナタナエルの胸を貫く。
コッポラは眼鏡をしまうと、今度は大小様々な望遠鏡を取り出した。
強すぎる光を放つ眼鏡レンズと比べると、それらは変哲のないものに見えたので、一つ買ってやることにした。

ナタナエルの父親が夢中になっていたのは錬金術だった。
その狂気の血はナタナエルに受け継がれていた。彼を正常な世界に留めていたのは、一重にクララの愛情だったのだ。
だが、ナタナエルの心に長年染みついていた「砂男=コッペリウス」のイメージに、更に晴雨計売りコッポラが重なった。そのコッポラから買い取った望遠鏡を用いて、向かいのスパランツァーニ教授宅の窓を覗いたことから、彼の精神は秩序を失っていく。

望遠鏡越しに見る、教授の一人娘オリンピアの美しさといったら――ナタナエルはオリンピアの虜となり、クララへの愛を忘れた。
しばらくして、教授宅でオリンピアのお披露目の宴が催された。
ナタナエルは本人と対面して幻滅するどころか、ますます熱を上げていった。
オリンピアは、彼の語る詩や物語に退屈そうな素振りを見せることなく、黙って聞いてくれた。彼の詩心に水を差し、理性の世界に押し留めようとするクララとは正反対だ。
オリンピアこそが真の恋人であると、ナタナエルは確信した。
しかし、ナタナエル以外の招待客の目には、オリンピアは好ましく映らなかった。
ぎこちない仕草と異様な沈黙が、人々に違和感を抱かせた。教授の娘は愚鈍に違いないとの意見で一致した。

鏡、ガラス窓、望遠鏡、眼鏡。そして、人形の眼球。
ガラスを通して見る世界は、裸眼で見るそれとは異なる色彩を帯びている。
ホフマンの作品においては、特に望遠鏡が重要な役割を果たしていて、望遠鏡越しの世界は主人公の心模様とともに目まぐるしく変化する。
彼は望遠鏡越しに見たものに耽溺し、狂気の世界に引きずり込まれる。いや、元々病的な気質だからこそ、現実の世界を捨てて望遠鏡の向こう側に誘い込まれるのか。

ナタナエルの目には、望遠鏡越しに見たオリンピアが理想の女性と映り、実際に彼女と対面しても幻滅するどころか、幻想から逃れることが出来ない。むしろ、オリンピアに違和感を感じる友人たちや、ナタナエルの詩心に理解を示さないクララを魂の無い人間のように感じてしまう。
オリンピアの瞳から彼への愛の眼差しを感じ取った。数少ない言葉から永遠の彼岸のありかを教わったような気がした。見つめ合うと、その眼差しはますます熱く生き生きとしてくるのだ。
オリンピアの瞳の中にあるのは、クララが言うような「自我の幻影」にすぎないのか。或いは、ナタナエルが信じるような詩的な人間にのみ開かれている深い秘密なのか。
生・秩序・理性の体現者クララと、死・混沌・妄想の体現者オリンピア。
ナタナエルの心が後者に傾くのは、砂男に怯えていた幼い頃から決まっていたのだ。

ナタナエルはオリンピアに結婚を申し込むことにした。
ところが、教授の屋敷に辿り着くと、教授とコッポラがオリンピアの体を引っ張り合いながら激しく争っていた。
コッポラがオリンピアの体で教授を殴りつけたから堪らない。
オリンピアの顔から目玉が零れ落ちた。血塗れになった教授は目玉を掴むと、ナタナエルに投げつけた。オリンピアは生身の人間ではなく、自動人形だったのだ。
ガラスの目玉はナタナエルの胸に命中し、彼の心を狂気の炎で焼き尽くした。

“ヒュー!火の輪だ、火の輪がまわる――まわれ、まわれ、どんどんまわれ!――人形もまわれ、すてきな美人の人形もまわれ”

ナタナエルは精神病院に入れられたが、クララの献身で正気を取り戻した。
彼は母親とクララとクララの兄ロタールと共に、郊外の別荘に引っ越すことにした。

引っ越しの日。
新居に向かう前に、ナタナエルたちは市庁舎の塔から山を見に行った。
しかし、望遠鏡越しにクララの姿を見た途端、ナタナエルは狂気を再発してしまう。

“まわれ、まわれ、木の人形。まわれ、まわれ、お人形さん!”

ナタナエルはクララを塔の見晴らし台から投げ落とそうとしたが、寸でのところでロタールに阻止された。見晴らし台に取り残されたナタナエルは、塔の下に駆けつけた群衆の中にコッペリウスの姿を見つけた。

“わーい、きれいな目玉だ――きれいな目玉だ”

それを人生で最期に見た光景として、彼は塔から墜死した。


現実を象徴する女と、幻想を象徴する女。
二人の女の間を揺れ動く男の物語という点は、「ファールンの鉱山」も同様だ。

まばゆい太陽の輝いた7月。
イェーテボリの港で、若い船乗りエーリスは悲嘆に暮れていた。
母親孝行をするために船乗りになったのだ。なのに長い航海から戻ってみれば、既に母親は亡くなっていて、葬儀も済まされていた。目的を失ってしまった。

悄然とするエーリスに、一人の老人が声をかけてきた。ファールンの鉱山で鉱夫をやらないかというのだ。
エーリスには、明るい太陽を捨てて、地下でモグラのように働く人生など考えられない。が、老人に言わせればそれは、無知のなせる見解というもの。
黒褐色の壁の続く壮大な鉱脈、鉱床に埋もれている限りない宝。坑道を巡り歩けば、やがて岩は息づき化石が生を受け、鉄鉱石やザクロ石がランプの明かりに照り映え、水晶は玄妙な輝きを放ち始める――長年鉱夫を務めてきた老人の語る地下の世界は、孤独な青年の心を幻惑し、今まさに自分が地底にいるような気がした。

その晩。
老人と別れてから、エーリスは宿で不思議な夢を見た。
水晶の床に立っていて、頭上には黒光りする岩盤がそびえている。あたりが一斉に揺らぎ始めると、足元からキラキラ輝く金属の草花が生えだした。地面は水晶なので、その下がはっきり見える。草花の根のはるか下に数知れない白い女が犇めいていて、その心臓から草花が生え出て葉を伸ばし、花をつけているのだ。
エーリスは地下に降りる決意をする。すると、眼前にあの老鉱夫が現れ、エーリスに呼びかけてきた。

“いいかね、エーリス・フレープム、あれが大地の女王様だ。顔をあげて拝みなされ”

老鉱夫が示す方向を見ると、虚空に手を差し伸べて、もの悲しげな声で彼の名を叫んでいる、一人の愛らしい女が見えた――。

朝、目覚めたエーリスには、海や港町が随分と味気のないものに見えた。彼は老鉱夫の話と、昨夜の夢に導かれるようにしてファールンに向かった。

ファールンの町は、彼が思っていたよりもずっと風紀が良かった。
彼はそこで美しい少女ユッラと恋に落ちた。その一方で、彼は坑道に降りるたびに、地下の女王の幻に囚われていった。
自分が二人いるような気がする。本来の自分は地下にいて、女王の腕に抱き留められているような気がしてならない。地上の生活がだんだんと色褪せていくようだ。ユッラが愛と将来の幸せを口にするたびに、坑道の奥の壮麗さを思わずにはいられない。
結婚式の当日、聖ヨハネの祝日にエーリスは姿を消した。

行方不明になったエーリスを待ち続けたユッラが哀れだ。
五十年後の聖ヨハネの日に、坑道から石化した若い鉱夫の遺体が発見された。
長い歳月のうちに、「ヨハネ婆さん」とあだ名されるよぼよぼの老婆になったユッラを、地下の女王が哀れんだのだろうか。しかし、遺体だけ返されたところで何になろう。エーリスの魂は、地下の女王の腕に留まっているのに違いないのだから。
それでも、金輪際手放さないというように、石になった花婿を胸に抱いてユッラは息絶えた。


憧憬、予感、不安、期待、郷愁、流離、夢想などのワードで表現されるドイツロマン派の文学は、孤独で病的な様相を帯びやすい。
昼より夜を愛し、現実より夢想を愛し、生身の女より自動人形を愛する。が、結局は健全な世界の前で消滅してしまう。そんな儚い夢物語だ。

普通の生活に喜びを感じることの出来ない彼らは、我知らず日常の秩序からはみ出し、混沌と夢想の世界に溺れていく。その結果の狂気と死だ。
しかし、正常とは、幸福とは、何であろうとも思う。お定まりの秩序に従って、誰の目にもわかる安定を手に入れることが、正常で幸福な人生なのだろうか。
ホフマンの主人公達は、錯覚を現実と信じ、「自分で自分に興奮しているだけ」だったかもしれない。しかし、そこには常人が見ることの出来ない別世界が本当にあったかもしれない。
正常な世界の基準では、彼らは安全な場所から闇へ、狂気へ、死へと転落していったことになる。
だが、見方を変えれば、彼らは退屈な現実の世界を捨てて、もっと上位の、憧れを知る人だけが見ることの出来るの世界にシフトしたのかもしれない。人形の瞳の奥に夢幻を覗きたい私には、そう思えてならないのだった。
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