暇人に見て欲しいBLOG

別称(蔑称)、「暇人地獄」。たぶん駄文。フリマ始めました。遊戯王投資額はフルタイム給料の4年分(苦笑)。

2006年冬休みの日記(後)

2006年01月10日 13時11分27秒 | 日記系
 1月8日。(注! ネタばれアリ)
 昨夜2時、ようやく『翼ある闇』を読了した。
 やばい。
 その一言である。
 ものごっつい作品が来ました。
 もう、「やばい……」を連発、連呼です。わけがわかりません。
 ちょっとこれは、もしかするとボクが読んだミステリの中ではベストワンなんじゃないかと……。
 また、この作品はミステリの裾野を広げたというか、ミステリの持つ可能性をまた拡大させたんじゃないかと、思います。
 これまでボクのベストワンは、綾辻行人先生の『霧越邸殺人事件』だったのですが、その上を行ってしまった感がありますね。
 あまりの動揺に、いつのまにやら丁寧語になってしまっています(笑)。
 後半、どんでん返しの連続でした。
 そしてまさか彼が神になるとは、思ってもみませんでした(この一文は読んだ方にしかわかりませんね)。
 一番裏切られたのは、名探偵が死んでしまったことですね。
 彼はのちの作品でも登場するので、まさかデビュー作で死んでしまうとは思ってもみませんでした。
 前回の日記で、作者の麻耶雄嵩(まやゆたか)氏はミステリ狂だと書きましたが、誇張表現ではなかったようです。
 壮大な見立て殺人。
 そのあまりのスケールの大きさに、見立てた作品を全く知らないミステリ音痴のボクも、驚嘆するしかありませんでした。
 いや、この作品は、まさに、≪ミステリマニアのためのミステリマニアによる作品≫でしょう。
 そしてボクが最も評価したのは、この事件の解釈――それも、かなり信憑性のある解釈です――が、いくつも出来る、ということです。
 作中で、名探偵諸氏がいくつかの解釈を披露しますが、どれもそれなりに納得させられるのです。
 下手な刑事――といっても、ドラマや小説に出てくる、探偵の言うことを鵜呑みにしてしまう馬鹿刑事であって、実際には存在しないと思いますが――なら、その解釈で事件解決! と、なるでしょう。
 逆に言えば、ミステリ作品に登場するほとんどの刑事が、納得して事件解決になってしまうと思います。
 名探偵諸氏が、あれだけ論理的に推理した解釈が、ことごとく間違っているのです。
 なんだか、探偵がかわいそうに思えてくるほどですよ。
 いくつもの解釈が可能。
 こういう側面は、ボクの作品には無いですね。
 ボクのは、バカみたいに単純で、それ以外にありえないような、はっきり言って誰でも解ける問題でしかないのです。
 それゆえ、事件の只中に探偵をぽんと入れておくだけで、あっさり事件が解決してしまうんですね。
 我ながら単純明快です。
 ボクには無理ですねぇ、そういう凝った事件物は。
 ついでに書いておくと、麻耶雄嵩氏の第二作品『夏と冬の奏鳴曲(ソナタ)』は、≪ミステリに新次元を拓く奇蹟の書≫と、謳われています。
 なんですか。
 これ以上の奇蹟があるというのですか。
 今、手元にありますけどね、いかんせん分厚い。
 新書二段構成で500ページですか。無理ですよ。
 原稿用紙1000枚分ですよ。ありえないですって。
 しかも、あの死んだ名探偵が登場するようです。あわわ。
 1000枚って、凄いですよね。
 ボクの短編がだいたい100枚程度なんですが、ボクの場合、改行がべらぼうに多いですから、そんなに原稿は詰まってないんですよ。
 もう、すかすかですよ、余白がもったいないです、はい。
 なぜそうなるかというと、ボクがライトノベルをきっかけに読書しはじめたからなんですが。
 特に改行大王と謳われる(謳われてないですが)、鏡貴也先生に影響されてそうなってしまったわけです。
 だからそもそも、ボクは重厚なミステリに向いていないんです。
 だからやっぱり、ボクのミステリは中身が薄いんですね。ま、いいですけど。
 そういえば、『本格推理委員会』の「あとがき」において、著者である日向まさみち(ひなたまさみち)氏はこんなことを語っています。

 ――この『本格推理委員会』はミステリでありますが、論理を追究する本格ミステリにはさして重要でない「キャラクター」というものに命をこめました。だから多分、この作品はライトノベルやキャラクター小説という枠組みに入れてもらえるのだと思います。

 著者に無断で、一部転載させていただきました。この程度なら「引用」と認められるので、著作権にはひっかからないでしょう(選択科目が法学で助かった)。
 さて、この言葉を定義として適用するならば、ボクの書いた中編推理小説は、微妙な立場になってしまいます。
 まず、論理を追究しているか? してません。だから本格ミステリとは言えないかもしれない。
 キャラクターを重視しているか? 一応していますがそれはミステリの中での最重要人物――探偵においてのみです。ほかの登場人物はただのバカです。だからライトノベルやキャラクター小説とも言えないでしょう。
 ということはですよ。
 つまりボクの中編推理小説は、本格ミステリでもライトノベルでもキャラクター小説でもない、のです。
「本格ミステリ」と「ミステリ」の違いはミステリマニアの間でも意見の割れる問題ですから、細かいことは無視するとして、ボクはこう考えています。
 本格ミステリとは、ミステリというジャンルの中のひとつのカテゴリーなのだ、と。
 簡潔に述べるなら、本格ミステリというのはミステリという大きな枠組みの中のひとつである、というわけですね。本格ミステリといっても要はミステリなんだ、と。
 そう考えるなら、中編推理小説「ダイイングメッセージ!?」は、一応ミステリということで、差し支えないと思います。
 ミステリ=推理小説ですからね。推理が主体であれば、なんでもミステリなんですよ。たぶん。
 さて、こんな簡単なことの説明に、原稿用紙2枚分以上の文字数を費やしてしまいました。
 長々とすみません。もう少し続けてもいいですか。構いませんか。どうも。
 先ほど、ボクは自分で「推理が主体であれば、なんでもミステリなんだ」と定義づけました。
 そこで去年の夏に書き上げた二つの短編「愛せない存在を消す方法」と「ピンポンだっしゅ」を検証してみます。
 実は、どちらの作品にも、推理は皆無なのです。いや、後者では推理っぽい会話がなされますが、事件自体には関わっていません。
 推理のない作品を、果たしてミステリあるいは推理小説と呼称してしまってよいのか?
 そこがボクの悩みです。
 早いところ本業の方もしくは編集者に見ていただいて、はっきりさせたいところであります。
 ボク個人の意見を述べるならば、一応ミステリに入るんじゃないかなぁ……、という感じです。
 というのも、まずミステリの定義は、ボク自身が前述した見解が全てではないからです。
 推理小説ですが、推理が必ず必要かというとそうでもないような気がします。
 ミステリというのは、まず第一に不可思議な謎があって、それが読者の前で氷解する、そういうプロセスのことを指すんではないかと思われるのです。
 その考え方でいくならば、短編2作品はミステリである、と言えます。
 謎が生じてちゃんと解けていますからね。
 うーむ。
 ミステリというのは非常に曖昧かつ複雑なジャンルのようです。
 ひとくちにミステリといっても、様々なタイプのものがあるのです。
 ――ミステリとは何か?
 一番の謎は、実はそれなのかもしれません。

 ミステリの浅はかな知識をひけらかしたところで、違う話をしよう。
 3行前の文を書いたときは外が明るかったのだが、もう真っ暗である。
 空白の1行の間に、数時間が経過した。その間に私は本を読んだりご飯を食べたり昼寝をしたりした。
 読んだのはSF作家山本弘先生の『こんなにヘンだぞ!『空想科学読本』』だった。
 パラパラとめくるだけのつもりが、つい黙読してしまった。
 これを読んでいると空想科学読本の著者がとんでもなくいいかげんでバカな人なのだということが、ひしひしと感じられる。
 人を馬鹿にするのはよくないことだが、そもそも彼自身が特撮やヒーローものを馬鹿にしているので、良いのである。
 ボクは空想科学読本なんてものは読んでいないので(単に読書嫌いだっただけだが)、本当に良かった。
 こんなデタラメだらけの(そして、他人の創造物を不当な理屈でけなした)本は、罪だ。小説のようにフィクションだと断わっているならホラ話でもいいが、実用書のコーナーにそんな本が並んでいるなんて、消費者は何を信じて買い物をすればいいんですか。
 ま、そんな本を賞賛してしまった日本の社会にも問題があると思うが。
 爆笑問題の本を見よ!
『爆笑問題の日本原論』のまえがきには、こう記されている。

 ――その日私たちがやった漫才は″事実と違うことがある″どころか、″事実と違うことしかない″モノだったからです。(中略)この『爆笑問題の日本原論』の中にも事実と違うことがたくさん出てきます。

 空想科学読本シリーズにも、このような潔いまえがきが必要である。
 ここで便乗的に言っておくが、私、いやボクの小説にも嘘がまぎれている。
 なのでぜひ、ホラ話として受け取ってください。お願いします。
 ボクの小説といえば、今日は例の中編推理小説の梗概を作成していた。
 小説賞に応募する場合、ほぼ必ず梗概というものを書かなくてはならないのだ。
 梗概というのは概要とかあらすじなどと同義である。
 長い作品を要約したもの、といってよい。短い文章でその作品内容を語ったものである。
 ボクはそういう作文めいた説明文めいたものが苦手である。
 小学生のときなど、親に、
「あんたの作文は事実を並べただけね」
 と、よく言われていた。
 楽しかったの一言もなく、ただ無感情に、あったことを時系列に沿って書いただけ、なのだ。
 そこに文才も文章作成能力も、全く必要がなかった。
 小学校の先生は作文の練習をさせるために日記というものを書かせていたようだが、ボクには何の意味もなかった。

  今日は家の手伝いをした。
  皿洗いをした。
  米も洗った。
  掃除機もかけた。
  50円もらった。
  お菓子を買った。
  食べた。

 こんな感じである。



 1月9日。
 今日で冬休みも終わりである。
 バイトにバイトにバイトで、大変だった。もっと引きこもっていたかったのに。
 さきほど、ふと、以前書き始めて途中放棄していた小説を読んだ。
 それがとんでもなく、良かった。
 ――は? これ、ホントにオレが書いたの? 嘘だぁ!?
 と我が目を疑った。
 あまりに感動して、つい、続きを書き始めてしまった。
 これはおそらくギャップのためである。
 というのも、その書きかけの作品というのはせつない恋愛小説であり、かたやこの前書き上げた小説は無感情な推理モノだったのである。
 自分にこんな心理描写ができることなど、とうに忘れていた。
 おそらくこれを書いたとき、筆者は精神的におかしかったのだ。
 ボクという人間は、頭が壊れたときにこそ、その真価を発揮する。
 妄想の力が爆発するのだ。
 反対に、推理小説なんていう頭が正常に働いていないと書けないような作品を書いているときは、すこぶる正常である。
 また恋愛小説なんていう妄想を始めた今のボクは、完全に頭がおかしい。完全に狂っている。
 冬休み最後の日を狂った頭で終えなければならないかと思うと、少し悲しい。
 おそらくこの症状はしばらく(少なくとも執筆を終えるまでは)続くと思われる。
 健全なみなさんには、じゅうぶん用心してほしい。
 最後に一言。
 今年の冬は、馬鹿寒い。


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1 コメント

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訂正? (筆者)
2006-01-10 18:16:52
今年の冬というか、「去年から今年にかけての冬」ですね。ま、細かいところですが。
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