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ファシズムに追われた作曲家

2024-07-30 21:00:00 | 現代
日曜日はお琴の合わせの後、阪急宝塚線で池田へ、池田公民館ホールで、池田ギター練習会でした。


公園の中にあります。
反対側は公園のグラウンド。
2時前に着いたら、小学生の男子が公民館のエレベーターホールに駆け込んできました。
一緒にエレベーターを待っているとエレベーターの上に設置してある電光掲示板を指さして
「37.7℃やって!」 
「もう、外で遊んだらあかんな。」
本当にそうです。
ロビーに子どもが遊べるコーナーが作ってありました。
ホールは4階。

先週西宮で主催の鈴木淳一さん
に誘われました。

お相手は先週と同じ渡邉信行さん。
テデスコの「ソナチネ」op205の第一楽章。
実は当日初合わせ。
良い子は真似をしないように。

マリオ カステルヌオーヴォ=テデスコ(1895-1968年)
イタリア フィレンツェ生まれ、

フィレンツェでイタリア系ユダヤ人(セファルディ系)の銀行家の家庭に生まれます。 

母親にピアノの手ほどきを受け、9歳にして最初のピアノ曲を作曲します。

1914年にフィレンツェ音楽院のピアノ科を修了すると、作曲科に転じてイルデブランド・ピツェッティに師事し、1918年に卒業資格を得ます。

フランス帰りの作曲家でピアニストのアルフレード・カゼッラにより注目され、作品を演奏会でとり上げられるようになります。
カゼッラは、テデスコの作品が国民音楽協会(イタリア現代音楽協会(英語版、イタリア語版)の前身)の演奏会でも取り上げられるべきだと考え、前途有望な新進作曲家のひとりとしてヨーロッパ中に売り出すことを図りました。

テデスコの作品は、1922年度国際現代音楽協会ザルツブルク大会に取り上げられました。

1926年、ニッコロ・マキャヴェッリ原作の自作のオペラ《マンドラゴラ Op. 20》を初演。
これは偉大な文芸作品に着想を得た最初の作品であり、このほかに、アイスキュロスやウェルギリウス、ウィリアム・シェイクスピア、ウィリアム・ワーズワース、ウォルト・ホイットマン、ジョン・キーツの作品を原作として作曲を行ないました。

民族的な素材による作品として、旧約聖書やユダヤ教の典礼に基づく《ヴァイオリン協奏曲 第2番「預言者たち」》がある。これはヤッシャ・ハイフェッツの依嘱作品で、反ユダヤ主義がヨーロッパ中にはびこる中で、ユダヤ系の血統への自負や、作曲者自身の言を借りると「昔日の輝き」を表現したものです。

1932年度国際現代音楽協会(ISCM)ヴェネツィア大会で、スペインのギタリスト、アンドレス・セゴビアと初めて出逢います。

この出会いに触発されて《ギター協奏曲 第1番》を作曲、100曲余りあるギター曲の第1作となりました。

これによってテデスコは、20世紀におけるギター音楽作曲の大家との名声を得ます。

《世紀を越える変奏曲》、ギター・ソナタ《ボッケリーニを称えて》、ギターと朗読者のためのメロドラマ《プラテーロとわたし》などを作曲しています。

その翌年にイタリアのファシスト政権が文化綱領を明らかにしますが、それは芸術をプロパガンダの道具と見て、人種主義を広めようとするものでした。

ムッソリーニが1938年に公的に人種政策を採用する前から、テデスコは放送局や演奏会場から締め出しを食らっていました。

そして、彼にイタリア脱出を決意させたのは人種法でした。

スカラ座の前音楽監督のアルトゥーロ・トスカニーニに手紙を書いて窮地を訴えると、トスカニーニは渡米するなら支援するとの約束を返してきました。

1939年、第二次世界大戦開始の直前にテデスコはイタリアを離れました。  

ハリウッドについたテデスコはハイフェッツの援助のもとに、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)と契約して映画音楽の作曲家となりました。

それから15年の間に、MGM以外のものも含めて、約200点の映画に楽曲を提供しました。

映画は本質的にアメリカ的な芸術の形だと割り切っていました。

アメリカ合衆国でも新しいオペラの作曲を続け再起を賭けたものの、生前および没後も上演されることはなく、娯楽作品として構想された《真面目が肝心 Op. 198》が死後上演された最後のオペラになりました。

テデスコのスコアとしてよく知られているのはルネ・クレールの『そして誰もいなくなった』 (1945)、チャールズ・ヴィダーの『カルメン』 (1948) などであるが、クレジットされている作品以外にも多数の映画音楽を作曲している(たとえば『名犬ラッシー 家路』 (1943) )など多くあります。

フルートとギターのためのソナチネ op.205は、
1965年に、ウィーン・フィルの首席フルート奏者、ヴェルナー・トリップと高名なギター/リュート奏者、コンラート・ラゴスニックのために書かれました。
ファシズムによってアメリカ商業音楽を作らなくてはいけない状況に置かれ、それらを量産したテデスコは生涯、現代クラッシック音楽を作りたかったと言われています。
作られたオペラや他の曲は上演機会が少ないままですが、ギターを主とする曲のみが演奏され続けています。

第1楽章