古事記によると、三嶋湟咋(みしまのみぞくい)の娘の勢夜陀多良比売という美人を気に入った美和の大物主神は、赤い丹塗り矢に姿を変え、勢夜陀多良比売が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、彼女の下を流れていくときに、ほと(陰所)を突いた。彼女は驚き走り回ったあと、すぐにその矢を自分の部屋の床に置くと麗しい男の姿に戻った。こうして二人は結ばれて、生まれた子が富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすすきひめ-)であり、後に「ほと」を嫌い比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)と名を変え、神武天皇の后となった。
箸墓古墳に関する伝承である。倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)は、夜ごと訪ねてくる男性に「ぜひ顔をみたい」と頼む。男は最初拒否するが、断りきれず、「絶対に驚いてはいけない」という条件つきで、朝小物入れをのぞくよう話した。朝になって百襲姫が小物入れをのぞくと、小さな黒蛇の姿があった。驚いた百襲姫が尻もちをついたところ、置いてあった箸が陰部に刺さり、この世を去ってしまったという。
『古事記』では、三輪大神は意富美和之大神とされる。
なおこれを系図に起こすと、陶津耳命ー活玉依毘売ー櫛御方命ー飯肩巣見命ー建甕槌命ー意富多多根古となる。
活玉依毘売のもとに毎晩麗しい男が夜這いに来て、それからすぐに身篭った。しかし不審に思った父母が問いつめた所、活玉依毘売は、名前も知らない立派な男が夜毎にやって来ることを告白した。父母はその男の正体を知りたいと思い、糸巻きに巻いた麻糸を針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えた。翌朝、針につけた糸は戸の鍵穴から抜け出ており、糸をたどると三輪山の社まで続いていた。糸巻きには糸が3回りだけ残っていたので、「三輪」と呼ぶようになったという。
高橋神社
「日本書紀」景行天皇53年の条によると、「景行天皇、東国を巡狩し給い上総国に至り、海路、淡水水門を渡り給うとき、海中に白蛤を得給う。従い仕え給えし此の命、之れを膾に作りて献るに、天皇いたく其の美を賞し給うに膳臣を以てし給う。十世の後、更に高橋の朝臣を賜う」とある。以後、磐鹿六雁命 (イワカムツカリノミコト)は、料理の神として祀られるようになった。また、崇神天皇の御代に疫病が流行し、多くの民が死んだ。天皇が嘆き悲しんでいると、夢枕に大物主神が現れ「この疫病は自分の心である。大田田根子をして我を祀れば祟りは消え、国は安らかになるだろう。」と告げた。そこで天皇は大田田根子を探し出し、神主として大物主神を祀った。すると、お告げどおり疫病は消え去り、国は平和になった。この祀りの時、大和国添上郡にあった高橋邑の活人という者を酒人にしつらえ、お神酒を捧げさせたという記述がある。
旧地は現鎮座地の北約100mのところにあったが、永禄年間に松永久秀の兵火によって焼失したため現在地に遷座したとされている。その後、旧鎮座地から神鏡が三面出土し、これら神鏡は神宝として祀られている。
- 祭神は以上の2柱である。料理の始祖神とされており、共に高橋臣の氏神である。
新月と満月の日だけに作られる護符
新月と満月の違いは、
新月は月と太陽がほぼ同じ方向にある状態を指します。
一方の満月は、月と太陽が反対の方向にある状態を指します。
よって肉眼で見ると、新月は月と太陽が同じ方向にあるので、太陽の光に隠れて月は見えない状態にありますが、
満月は、月と反対方向に太陽があるので、キレイな状態で見える訳です。
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滋賀県の岡神社の 「さざれ石」 を解説したウェブページによると、「外観上小さな石の隙間が炭酸カルシュウムや水酸化鉄等で埋められ固化した石を一般に「さざれ石」と呼んでいるようである」 ということである。
また、栃木県の大叶マインテックという会社のページでは、さらに学術的に 「学名 『石灰質角礫岩』 と言います」 と言い切っており、「石灰石が長い年月の間に、雨水で溶解され、その時に生じた粘着力の強い乳状液(鍾乳石と同質)が次第に小石を凝結して、だんだん巨石となり、河川の浸食作用により地表に露出し、苔むしたものです」 としている。
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①たえ。カジやコウゾなどの木の皮の繊維で織った布。「白栲(しろたえ)」 ②ぬるで。ウルシ科の落葉小高木。
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辞書によれば「細石(さざれいし)の巌となる」は、「砂子(いさご)長じて巌となる」に同じだそうです。
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「昂」を「昴」と誤るケース
「厳」という字「巌」
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日本の天皇が即位する「大嘗祭」というのがありますけれど、大嘗祭は「真床襲衾」(まどこおふすま)という儀礼が中心ですが、龍の神様が人間の女性と婚姻を結んで、新たに(象徴的に)天皇が生まれ出るというものです。
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人類学者の金関丈夫が今から40~50年前の書物のなかで「日本古代の海部は、支那海沿岸一帯の、海神をトーテム(宗教的な関係を持つ存在)とする文身族(文というのは刺青の形だといわれています)とその習俗、信仰をともにしていた。おそらく日本に弥生文化を運んだのは彼らの祖先であり、その渡来の初頭には、漁をしながら河口に近い湿地帯に稲をつくっていた。農耕神が龍であり、蛇であって、水辺の斎女(いつきめ:神に仕える未婚の若い女性)がこれと婚交することがその主要な祭事となっている」と書いています。
大嘗祭において斎女の役割をしているのを水の女(みずのめ)というのですが、民族学者の折口信夫は「水の女」という論文でそのことについて詳しく触れています。それを主要な祭事とする農耕民の信仰は、龍神、蛇神をトーテムとする海部の信仰と切り離して考えてはいけないだろう、ということになります。
われわれは海と非常に密接な活動をしてきて、海から川を遡って、日本列島の各地に聖地をつくっていったわけですけれど、それらは色々な形で繋がっています。例えば、伊勢神宮(三重県伊勢市)と諏訪大社(長野県諏訪市)は龍神信仰で繋がっていますし、そして多くの神社がお互いに一番底のところで、雨乞いや子安や豊饒儀礼など、非常にプリミティブ(原始的)な自然信仰で繋がっていて、それらの影響関係をいまも見ることができる。それが大切なことなんですね。
伊勢について集英社のWEBで連載しているのですが(伊勢神宮フィールドワーク)、これまで伊勢というと唯一、天皇家の氏神を祀ったところいわれていますが、もともと宇佐神宮(大分県宇佐市)だったのではないかということもたびたび文献に出てきます。とにかく、天皇の氏神を祀った所というのは宇佐神宮と伊勢神宮と二つあるんですね。いまは伊勢神宮にほぼ一元化されているように思いますが、宇佐神宮のほうがかつては大きな意味を持っていたかもしれません。天皇家に何かあったときには必ず伊勢神宮と宇佐神宮に指令が飛ぶわけですけど。
ではこの宇佐で、つまり、宇佐神宮、宇佐八幡宮で祀られている神様をご存知ですか? 伊勢神宮はみなさんご存知のとおり天照大神ですが、宇佐神宮で祀られている神様はなんと応神天皇なんです。正確にいうと、八幡大神(応神天皇)、比売大神(ひめおおかみ)、神功皇后が祀られているのです。このあたりを考えていくと日本の天皇とか支配者は必ず西から、東漸というのでしょうか、東へ移っていったという経路がうかがえるような気がします。
『世界遺産 神々の眠る熊野を歩く』(集英社新書ビジュアル版)という本でも書きましたが、熊野で一番大きな祭りといえば、熊野川の河口で行われている海の神様と川の神様が出会う祭りですね。熊野に限らないですけれども、河口に祀られている神様は非常に大事で、伊勢神宮の場合もそうです。
僕は的矢湾(三重県)からずっと船に乗って神様がどうやって入ってきたのか経路を調べてきました。五十鈴川はそのまま海から内宮に繋がっていますけれど、いまの五十鈴川はかつての五十鈴川ではなかった。もっと東側に河口があったのですが、それが1498年の明応地震によって流れが変わり、いまの地形になったのです。元の五十鈴川があった場所には江神社(江戸の「江」と書くのですが)があってそこは元々倭姫命(やまとひめのみこと)が遡って入ってきたところでした。そして途中に朝熊神社、鏡宮神社という川の分岐点に祀られる神社があり、そして、その奥に内宮、つまり、皇大神宮が祀られているのです。
しかし、さらにですね、さらに五十鈴川を遡ってみたんです。どこまで行くんだろうかと思いまして。すると上流に鏡岩という巨大な岩があって、そこではやはり水の神が祀られているのです。江戸時代に書かれた「伊勢参宮名所図会」にも鏡岩が描かれています。いまはほとんど訪れる人もないそうです。しかし、そうやって人々が動いたプロセスを辿っていくと、水源のみならず人々が信仰を伝えた道筋が見えてくるんじゃないかと思います。
最後に一つ付け加えるとしたら、伊勢神宮の禰宜(ねぎ:神職の名称の一つ)の家系ですが、度会(わたらい)という人たちが磯部の人々の代表で、現在は外宮の宮司をしていて、内宮は荒木田家が代々禰宜をしているのですが、どうやら荒木田家というのは比較的新しい系譜のようですね。この地では度会家が一帯の信仰を支えていたと思います。その度会の「ワタ」というのは海神(わだつみ)の「ワダ」でもあって、そして韓国でいう「パタ」になると海ですね。度会は「パタライ」、つまり、海を行き来する人々という語源説も考えられます。
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