私がギリシャを愛する最大の理由はその言語と音楽でしょうか。そしてそれを生み出した人々。なぜそれほど、惹かれるかというと、言葉と音楽は、その人々の哲学と風土と歴史と涙と情熱で創り上げられた、人間としての根元に深く根ざすものだからです。
夏のギリシャでは音楽や民族舞踊のステージがよく開かれます。 彼らとの出会いは2005年のスペツェ島。日が沈んで、午睡から目覚めた人々がブブリナ広場に集まってきました。広場の舞台では、5人のバンドが演奏していました。涼しい夕風に運ばれてくるそれは何か不思議な音感のギリシャ語でした......
彼らはイタリアにわずかに残るギリシャ語を話す村から来た人々グレカでした。ギリシャ語ではカート・イタリアと呼ばれる南イタリアや、シシリアの一部に今もギリシャ語を話す人々が存在することをそれまで知りませんでした。
このビデオはイタリアのかかとのあたり(下の地図参照)にあるその名もカリメーラCalimeraギリシャ語で「こんにちは」という村の人々のドキュメンタリです。1編が15分ほどで4編に分かれています。彼らの音楽は対岸のケルキラによく似ています。言葉はほぼギリシャのギリシャ語と同じですが、アクセントがイタリア語風に変化しています。
街の入り口にはkalos irtateと書いてあります。ギリシャ語のΚΑΛΩΣ ΗΡΘΑΤΕ「ようこそ、いらっしゃいませ」と同じ意味です。そんなカリメラの村は今もかなり牧歌的なところのようですが、言葉が生き延びた理由は決して牧歌的ではありません。
「私の両親はギリシャ語しか話さなかったよ」とインタビューに出てくるお年寄りは言います。彼ら自身は学校に通いイタリア語を覚えますが、それでも、冬の間は学校に通えなかったので、完全にイタリア語化されるのは大人になってからだそう。
なぜ冬学校に行けなかったのかって?靴がなかったからです。カリメラの人々はそれほど貧しかった。
とはいうものの、おそらくは周辺のイタリア人家庭でも同じような条件だったのではないでしょうか?第2次大戦前、戦後の南イタリアはとても貧しい地域でしたから。
ドキュメンタリーの続きでは、彼らがいつギリシャから渡って来たのか?という疑問を探ろうとしますが、それはおかしなこと。彼らは誰も覚えていないほど昔からずっとここにいたのであって、戦争や歴史が国境を動かしてしまったのではないですか?彼らの使っている単語に古典ギリシャの言葉がのこっているのが長い歴史の証拠だと思います。残念ながらギリシャ文字はグレカの文化に残っていません。グレカ(イタリアのギリシャ語)は話し言葉だけで伝わってきたのです。
2005年にグレカと出会いそのご動画共有サイトにギリシャの音楽特集番組アラティ・ティス・ギス(地の塩)で特集しているのを見つけました。それを見てからさらに興味が湧いて、彼らに会って実際に話をしてみたいと、ずっと思ってきました。
ゆっくりと言葉を選びながら話す彼らのギリシャ語は現在のギリシャ人のギリシャ語よりも、私には聞き取りやすいです。この人たちが一生懸命思い出しつつギリシャ語を話したり、過去の苦労を全て忘れるように楽しげに踊っている姿を見ていると、なぜか涙がこぼれます。
初めてスペツェ島で彼らに出会っていつのまにか10年経ってしまいましたが、今年の夏はいよいよグレカの人たちに会いに行けそうです。19歳から世界中いろいろな場所へ旅したり、住んだりしてきた私も最近やや燃料切れ???
ここからはブログ主題と離れるのですが、当ブログを読んでくださる中に若い方がいらしたら(いるかしら?)、ぜひ伝えたいことがあります。どうか、たくさん旅をしてください。旅には危険も悲しみも、生きる喜びも、驚くような発見も、素晴らしい出会いも、辛い別れもあります。
人生で大切なことを、私は全て旅から学びました。「いつか時間ができたら」、「仕事を引退したら、優雅な旅をする」それもいいかもしれませんが....旅は「足が硬く、心が柔らかい」うちにしておきなさいと、ミティリー二のお母さんのような人がいつも私に言ってくれていました。

Kalos Irtate-Grecia Salentina 2/4
Kalos Irtate - Grecia Salentina 3/4
Kalos Irtate - Grecia Salentina 4/4
おまけ:アラティ・ティス・ギス カート・イタリア ΤΟ ΑΛΑΤΙ ΤΗΣ ΓΗΣ ΚΑΤΟ ΙΤΑΛΙΑ (2時間番組ですので時間のあるときにどうぞ)