ΙΌΣ
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イオス島のホラの頂上にある教会からの景色です。
真っ青な空に強いキクラデスの北風が吹きすさんでいます。風に吹かれブーゲンビリアの花びらが蝶々のようにあちこちへ飛び回っています。
日曜の朝、1727年に建てられた小さな教会ではミサが進行中。日陰に立って耳を傾けていると自然と神聖な気持ちになります。
祈りの声と風の音が紺碧のキクラデスの海を祝福しながら浄めているみたい。
「ギリシャの犬」の記事を書いていて、アテネで起きた犬にまつわる不思議な出来事を想いだしました。
それは、1983年の復活祭を目の前にした4月でした。その頃は春のギリシャが好きでいつも4月ころに旅行していました。エアのチケットが安い上に、遺跡を歩き回るのは気候の良い春が一番です。ギリシャの春の遺跡は野草のお花畑です。ペレポネソス半島をローカルバスで回ったりしていたのもこの頃です。
アテネにいた私はザッペイオンの近くのバックパッカーが泊るスチューデント・ホステルに宿泊していました。女の子部屋と男の子部屋に別れていて、基本は4人とかのドミトリーで、若者のひとり旅にはうってつけ。今のようにギリシャの島のローカルバスの時刻表までネットで検索できるなんて、思いもよらない時代。情報交換の為にもこういったホステルは人気があったのです。気の合う人を見つけて、一緒にご飯を食べに行ったり、次の目的地まで一緒に旅したり。
そして、当時のアテネはアジアからヨーロッパへ向かう旅人や、反対にここからトルコへ抜けてアジアを目指す人の交差点のような役割を果たしていました。シンタグマ広場付近には格安航空券の店が軒を並べ、ロンドンからギリシャを経由してインドへ向かうマジック・バスもまだ現役で走っていました。
中央郵便局前のカフェニオンに座っていると、ありとあらゆる人種が行き交っていました。ある時は、その数年前にニューヨークのグリニッジ・ビレッジで出逢った知り合いが私のテーブルのすぐ横を通りかかる、という奇跡のような偶然が起きたりしたものです。
シンタグマ広場のグラン・ブルターニュの前にはテーブルクロスをかけたカフェニオンがあって、白いタキシード風の上着を着た中年以上の男性が恭しくウェイターをしていました。
ところで、今は当たり前のウエイトレスが現れるのはギリシャでは90年代になってからです。それどころか、それ以前は街で若い女性を見かける事はまれでした。市場で食料品やら子供服やら買い物をしているのも、おじさんか黒ずくめの中年以上の女性でした。
その夜、ホステルで知合った人と夕飯を食べに出て、帰りが遅くなりました。復活祭が近く空には大きな満月が登っていました。シンタグマ広場の角までくると野犬がたくさん集まって、なにやら興奮状態。たくさんの犬が吠えながら通りかかるバイクや車を群れになって、追いかけていたのです。
「満月だから、祖先の狼の血が騒ぐのだろうか。怖いねぇ」と話ながら、友人と公園を突っ切ろうと歩いていました。北ヨーロッパからお嫁入りして来たアマリア王女が丹精をこめて作ったナショナル・ガーデンの真ん中辺りは時を経て、木立がうっそうとしいます。ふと回りをかなりの数の犬に囲まれているのに気がついたときは、しまった!と思いました。
さっき出逢ったのとは違う群れで、吠えてはいませんが、じっとこちらの様子をうかがっているようなのです。こういう時に、怖がって走ったりすると危ないと思い、自然に振る舞おうと、ゆっくり出口を目指して歩き始めました。すると、なんということか、犬たちが一斉に私たちの後ろについて来たのです。
緊張しながら歩き続けると、途中で白っぽい毛並みの大型犬が私たちを追い抜きました。
ああ、良かったどこかへ行ってくれそう、と思ったのに、彼らが進む道は私たちが目指している方角です。まるで「ついてこい」とでもいうように白い犬は私たちの前をゆうゆうと歩いていきます。
ようやく公園の出口まで来ると、他の犬たちは来た方へぞろぞろと引き返していったのですが、白い犬は結局ホステルのある交差点の角まで、私たちを先導するように先を歩いてきました。まだかなり先にあるホステルの前の階段を指差して、「あれ?階段にローソクが灯してあるよ」と友人が言います。
なにかが、確かにそこで輝いていましたのに、辿り着いてみると階段にはローソクもなにもありません。あの光は何だったのか、そしてあの白い犬はなぜ私たちの行く方角がわかったのか?
知っているのはあの夜アテネの空に輝いていた白い満月だけなのかもしれません。今でもアテネで白い大型犬を見ると、あの白い犬の子孫かも、と思います。
*写真はneolaia.grから拝借しました。
ユーロ通貨を導入した年の夏、レスボス島のペトラ村でひと夏を過ごしました。
ギリシャが世界でも有数に古い通貨であるドラクマをいとも簡単に捨ててしまったのは大きな驚きでしたが、その頃のギリシャ経済界は好景気に(今思えば見せかけの)浮足だっていました。しかし、多くの市民は慣れない通貨に混乱していたのです。
導入時の1ユーロは340ドラクマの換算でしたが、端数切り上げで、250ドラクマが相場だったカフェニオンのコーヒーは一気に1ユーロになったのを初めとして、ユーロ・インフレというような物価の一斉値上げが始まったのです。
しかし、人々の金銭感覚は一夜にして変わるわけではなく、すべてのユーロ価格をいちいち、「えーと、340かけると、、、」とドラクマに換算しつつ値段の交渉をしたり買い物をしていました。あの頃ほど、アテネの露天商で計算機が売れていたことは後にも先にもなかったと思います。
孫にお小遣いをねだられたミティリーニの年金生活者のキラ・カテリーナは、以前の感覚で5ユーロ札を渡したところ、居合わせた息子に「母さん、それ1700ドラクマだよ。いいのかい?」と指摘され、「キャー!」と金切り声をあげ、取り返そうと孫の後ろを追いかけていきました。リウマチで足の悪いキラ・カテリーナがこんなに速く走れたのかとビックリ!
ペトラ村の広場にあるペルピテロ(キオスク)で買い物をして50ユーロ札を出したら、「そんな大きな金額に渡すおつりなんか持ってないよ」と言われ、村中のお店を訪ねまわって、やっと両替してもらう事ができました。村の人たちは珍し気に50ユーロ札を覗き込んだものです。なつかしいなぁ。今は50ユーロなんかあっと言う間になくなってしまいます。
初めて訪れたギリシャの旅ノートによれば、1974年11ー翌年1月のギリシャで食べたり買ったりした物の値段が書いてあります。
ごまの付いたワッかのパン・クルーリはひとつ3ドラクマ、ピタパンに肉、タマネギ、トマト、フライドポテト、ヨーグルトソースなどを巻いたギロ・メ・ピタ6ドラクマ。15ー20ドラクマも出せばプラカのレストランでメイン一皿にサラダにワインかビールをつけて食事がとれたのでした。ドラクマの補助通貨レプタもまだ使われていましたが、ほどなく姿を消すことになりました。
最初のyoutubeの映像にもどりますが、これは1975年の大ヒット曲。歌手はΕΛΕΝΗ ΒΙΤΑΛΗエレーニ・ビターリ。曲のタイトルはΧΩΡΙΣ ΔΕΚΑΡΑ ホリース・デカーラ「10ドラクマなしで」 10はギリシャ語でΔΕΚΑデカですが、10のお札はΔΕΚΑΡΑ デカーラ、、50のお札はペニンダーラなどと呼びます。単位がユーロに変わった今もお札の呼び名は同じです。
さて歌の意味はこうです
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10ドラクマも持ってないって 私のマノリさん
どうやって 結婚するの?
結婚式の花冠すら買えないじゃないの
私たち婚約して2年も経ったのよ 2年も..可哀想な私
3年目は無理よ 無理
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この曲は私が初めて行ったギリシャで流行っていて、カフェニオンやラジオで繰り返し聞きました。記念に買って帰ろうと思って、レコード店へ行ったもののタイトルも歌手の名前も知りませんでした。店員さんに「じゃあ、ちょっと唄ってご覧よ」と言われ、店先で「ほりす でか~ら」とサビのところだけ唄ったら...「デカーラがないんじゃあ、ダメだね、買えないよぉ~」と大爆笑。だからシングル・ドーナツ盤(知ってますか?)は10ドラクマ以上したのでしょう。
こうして、この曲が記念すべき初めて買ったギリシャ音楽のレコードだったのですが、残念ながらノートにはその値段が記録してありません。レコードもいつの間にかなくしてしまいました。Youtubeのおかげで聴く事ができます。歌手ΕΛΕΝΗ ΒΙΤΑΛΗエレーニ・ビタ−リは40年たった現在もあまり変わらず美しく、活躍もしていて、今も大好きな歌手のひとりです。私にとってギリシャ音楽開眼の思い出です。
初めてアテネに来た人が驚くのはノラ犬の多さと、その自由奔放な生活態度です。
写真はtripadvisor からお借りしましたが、場所はアテネのシンタグマ広場に面する最高級ホテル、グラン・ブルターニュの正面玄関です。
この犬は確かグリキスと呼ばれていて、5☆ホテル、グラン・ブルターニュのドアマットこそが自分専用の寝床と決心しているようです。
制服を着たドアマンも、宿泊客も彼を踏まないようにそおっと跨いで出入りしています。話しかけると微かに目を開いて、実にめんどくさそうに、わずかにしっぽを振ってくれる時もありますが、それ以外は世の中の動きにはわれ関せず眠っています。
このホテルのすぐ前はとても交通量の多い場所ですが、その交差点のぎりぎり、寝返りすると車にはねられるのではと心配になるような場所にもよく犬が寝ています。公園や遺跡は夕に及ばず、アテネの銀座ともいうべきエルムウ通りにも、おしゃれなブティックの扉の前にも、犬がゴロゴロと丸太のように転がって熟睡しています。
そして、なぜでしょう、大型の犬が多いのです。からだが大きくなって捨てられたのでしょうか?彼らはみんな非常におとなしい犬たちですが、私がギリシャヘ旅行を始めた頃は全然状況が違っていました。
1970-80年頃、やはりアテネにはノラ犬がとてもたくさんいたのですが、彼らは今のように去勢されていなければ、狂犬病の予防注射もされてない野犬の群れだったので、観光客も地元の人も怖れていました。
夜になると街なかで数頭が徒党を組んで歯を剥き出して喧嘩したり、バイクに乗っている人を群れになって追いかけたり...
住民にとってやっかいものの犬たちに、今のように親切の餌をやるような人はいませんでした。見かけると石を投げたり棒でおっぱらったり
していました。思えば犬も人間も受難の時代でしたね。
絶対に野犬にかまれないように注意しなさいと言われていたので、遺跡などでそういう犬に出くわしたときの為に、私もポケットに石を入れて歩いていたものでした。幸い一度も実際に石を投げて身を守らなければならないような目には遭いませんでしたが..。
アテネ・オリンピックの開催決定がきっかけで、犬たちの状況が一変しました。
ノラ犬によるトラブルを怖れたアテネ市はオリンピックを前に、飼い主のいない路上生活の犬を捕獲して、収容所に集めました。犬たちには虚勢手術と伝染病の予防注射をして、市民に養子縁組をよびかけました。オリンピックが終わり、引き取り手のいない犬をどうするかで、動物愛護団体と市民と協議しボランティアと市が協力して、それぞれを路上で暮らす犬として、元いたところに戻す事になりました。
アテネの路上犬の首輪を見ると住んでいる場所、注射歴などがわかるように管理されていて、決められた場所に水と餌が置かれ、ボランティアが交代で世話をしています。夏は特に飲み水が不足するので、勝手に来て飲めるように用意してあげているお店もアテネにはたくさんあります。
というのは、アテネの話で、田舎に行くと事情はちょっと違うのですが、地域犬として皆が気にかけている、世話をしているところは同じです。
レスボス島ミティリーニにはトリポドという名のノラがいて皆に愛されています。
トリポドはその名の通り3本足ですが、とても美しい雄のダルメシアンです。まだ小さい時、交通事故で左の後ろ足を無くして心ない飼い主に捨てられてしまったのですが、ボランティアに助けられ成犬になった彼は3本の足で自由に歩いたり走ったりできるようになりました。
普段はミティリーニの港に数件あるスブラキ屋で餌をもらって自由気ままに生きています。
それにしても、あんなに楽しそうに駈ける犬を私はみたことがありません。まるで走りながら笑っているようにみえます。通りがかりの人たちも彼を見ると「よう、げんきかい!」と話しかけます。
きれいで性格もいい犬なので、何人もの人が飼おうとしたのですが、自由に暮らすのに慣れたのかどこへ引き取られても逃げて港のあたりに戻って来て暮らしています。
トリポドが嬉しそうに走るのをみていると、自分も元気になれると思っているのは、私だけではないようです。
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日本人の方がアテネの犬たちを紹介する愛情溢れるブログを書いていらっしゃるので興味のあるかたはこちらへ
最近ワールドカップで早起きしているので、日中とても眠いです。
ギリシャVs日本の試合でギリシャ国歌を初めて聞いた方も多いのでは?演奏を聴くと、短くてごくあっさりしているように思えますが、いやいや実は世界で一番長い国歌なんです。
4行のスタンザ(連)が158もあるので、行数で言うと632行。これを全部唄っていると、サッカーのゲームだと前半がつぶれてしまう?かもしれません。そこまでならなくても、起立して唄っている人たちが次々に昏倒する!、とか起こりそう。あまりに長いので、最初は3連まで唄っていたのが、現在では2連までとなっているようです。全部唄える人は誰もいないことでしょう。
長い独立戦争の後、ギリシャがロンドン議定書で独立を宣言した2年後の1832年にΔΙΟΝΥΣΙΟΣ ΣΟΛΩΜΟΣ/ディオニシオス・ソロモスによって詩が書かれました。当時、首都はアテネではなくナフプリオンにありました。
そしてコルフ島のオペラ作曲家ΝΙΚΟΛΑΟΣ ΜΑΝΤΖΑΡΟΣ/ニコラオス・マンザロスが曲をつけ1865年に国歌に制定されました。ちなみに、キプロス共和国も同じ2連を国歌としています。
内容は1792年に革命戦士たちの唄った詩からフランス国歌になったラ・マルセイエーズに近いです。ギリシャでも自由と独立は命をかけて戦って、多くの犠牲者の屍の上に勝ち取ったものなのです。
ギリシャ国歌「自由の讃歌」
私はあなた(自由)を知る
畏れ多いその鋭利な刃から
私はあなた(自由)を知る
地を統める大いなる力から
そして 尊い先人の骨から
原初のようによみがえる
讃えよ自由を!讃えよ自由を!
(拙訳)
この「先人の骨」という下りは、私にジュールス・ダッシン監督、メリナ・メルクーリ主演の映画「宿命」の印象深い一場面を想いださせます。
「宿命」は日本で公開された時の日本語のタイトルで、原作はΝΙΚΟΣ ΚΑΖΑΝΤΖΑΚΙΣ/ニコス・カザンツァキスのΟ ΧΡΙΣΤΟΣ ΞΑΝΑΣΤΑΥΡΩΝΕΤΑΙ「キリストは再び十字架に」です。
そのシーンはトルコ兵に終われ山へ逃げたクレタの村人たち、貧しい彼らは着の身着のままで、家から持ち出した財産はわずかに鍋釜、イスなどです。ひとりの老人はカラカラと音を立てる大きな袋を背負って長い山道を歩いて行きます。お腹をすかせた少年が聞きます、「おじいちゃん、その袋に何が入っているの?」老人は静かに答えるのです。「ご先祖さまの骨じゃよ、この骨の上にな、わしらは新しい村をたてるんじゃ。」と
私たちの国歌も実は同じ頃に歴史に姿を現します
開国し外交の式典などで必要になったものの、国の歌という概念などなかったに違いありません。英国のGod Save the King(現在は女王なのでQueen)に倣って 君主の栄光よ永遠なれという趣旨の歌が明治政府によって選ばれました。
1860年には福沢諭吉がFreedom, Libertyを「自由」と翻訳し、それまで日本になかった自由という言葉と概念は既に生まれていたというのに。あの時日本がフランス国歌に倣っていたら、国づくりも国民の意識も、その後の日本の歴史も違っていたのかも...しれません。
最後まで読んでくださった方、ありがとうございました
頭にシャワーキャップでスイミング ΧΕΡΡΟΝΙΣΟΣ ΣΙΦΝΟΣ
40、ギリシャ語でΣΑΡΑΝΤΑはサランタではなくサランダと読みます。
ギリシャの歌を翻訳していると「君は僕の心を42のかけらにしてしまうよ」とか、「40の波を超えて来たよ」とか、「40の真っ赤なリンゴ、どれを選んでもそれほど変わらないよ・・だから僕を選んで」、というような歌詞に良くでてきます。えーっどうして40?なんで42なの?と疑問は深まり、色々調べているうちにその意味がわかってきました。
実はギリシャの日常生活において、40は特に重要な数なのです。
赤ん坊は生まれてから40日間家の中で過ごす、つまり外出させないという古いしきたりがあります。この教えはアテネでは実践的ではなくなりましたが、島の村に行くと現在も守られています。
ギリシャの夏の風物詩は早朝と日暮れ前に浜に集合するおばさまたち、多くは立派なご体格。
よくそんなでっかいサイズの水着があったものだなぁと、驚かされます。帽子とサングラスをつけた堂々たるおばさま方は泳ぐというよりは、水に浮かびつつ数人でおしゃべりに熱中しています。井戸端会議ならぬ波間会議ですね。
話題は世界共通、ご近所のゴシップです。そんなビーチ・ガール(?)な彼女らがよく言うのが、サランダ・バニャ「水浴40回」。夏に40回海水浴しておくと、冬風邪をひかないという言い伝えです
ひと夏のうちに40回も海で泳ぐ事は日本ではむづかしいかもしれませんが。5月始めからから9月末まで夏のギリシャだからこそ言えるのかもしれません。それにギリシャのビーチおばちゃんたちは一日に朝と夕の2回泳いで(浮かんで)いる人もたくさんいます。
つまりサランダは「たくさん」という意味で使われているのです。
さらに、「40」を「たくさん」とする考えはギリシャだけでなく、多くの古い文明に共通するもののようで、旧約聖書のノアの洪水の下りには40日休む事なく雨が降り続けて洪水になったと書かれているし、日本では四十九日があるように、人が亡くなったら、イスラム世界では40日喪に服します。
さて、前置きが長くなりましたが、今年12月6日で、私が初めてギリシャの地を踏んでからちょうど40年になります。そして、今ギリシャはこの40年で一番の危機を迎えているように、思えてなりません。
以前ギリシャに関する書き下ろしの本を出版してから早くも10年が経ち、ギリシャの状況は大きく変わりました。最近はブログを書こうとPCに向かいながら、なかなか更新が進まなかったのには、できれば見たくない書きたくない現実がそこにあったからかもしれません。
長文、字数の多いブログは読まれないというのがネットの通説ですが、ひとつの区切りとして、これから40回に分けて少しずつ書いてみたいと思います。私の愛する美しい小国ギリシャのことを。ギリシャと私の40年を振り返りながら・・・