(2020年6月6日)
【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】
小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』
【はじめに】
今回のブログでは、小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』(まどか出版、2003年)の第Ⅱ章「花咲くイタリア・ルネサンス」を紹介してみたい。
今回、紹介する第Ⅱ章では、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ジョット、フラ・アンジェリコ、マンティーニャ、ボッティチェリ、ラファエロ、ヴェロネーゼ、ティツィアーノ、カラヴァジオといった、イタリア・ルネサンスの画家を小暮氏は解説している。
「第Ⅴ章 ルーヴルのフランス絵画」で扱うフランス絵画とともに、ルーヴル美術館を訪れる際に是非とも鑑賞しておきたいイタリア絵画の巨匠たちである。小暮氏ならではの独特の切り口で解説しているので味読したい。
中でも、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロとラファエロの違いを解説する際に、「真似してはいけない天才」と「真似したい天才」に分けるとすると、レオナルドとミケランジェロは前者の天才で、ラファエロは後者の天才だとする。
そして、音楽の例を持ち出して、往年の大ピアニスト、ウラジミール・ホロヴィッツのピアノ演奏法を例えに解説している点は、とりわけ興味深い。こうした尖った才能の人は「真似してはいけない天才」で、画家でいえば、レオナルドやミケランジェロがそうであるようだ。
それに対して、ラファエロは「真似したい天才」で、ヨーロッパにおいて、長いこと最も完成された美の規準とされてきた。このことに関連したピカソの言葉を紹介している。
そして、ラファエロの優美な聖母子像≪聖母子と幼児聖ヨハネ≫、通称≪美しき女庭師≫は、レオナルドの≪岩窟の聖母≫に比べると、深みこそ足りないものの、平明な作品であるとみる。音楽といえば、モーツァルトのような人を幸福にする美しさをたたえた作品であると解説している。
(小暮、2003年、69頁~76頁、「天才ラファエロ」の項を参照のこと)
また、ヴェネチアのヴェロネーゼの「カナの婚礼」(ルーヴル美術館最大の絵)を解説する際に、ヴェネチアではどうしてこんなに大きな油絵が描かれたのかという問いを発している。
ミケランジェロのシスティナ礼拝堂に代表される壁画はフレスコ画であった。ところが、ヴェネチアは海洋都市で、塩に弱い漆喰を使うフレスコ画ではすぐに傷む。そこで艦船に使われる帆布を用い、現在のキャンバスの原型が誕生した。当時、絵の支持体として主流だった木材は需要が追い付かなくなり、高騰したことも、キャンバス画を発展させた一因であったと解説する。このことは、レオナルドの≪モナ・リザ≫がポプラの板絵に描かれたことを想起すると、西洋絵画史の発展を考える上で、興味深い。
(小暮、2003年、77頁~84頁を参照のこと)
さて、今回のブログでは、次の絵画作品を取り上げる。
〇レオナルド・ダ・ヴィンチ ≪モナ・リザ≫≪岩窟の聖母≫≪聖アンナと聖母子≫
〇ジョット ≪聖痕を受けるアッシジのサン・フランチェスコ≫
〇フラ・アンジェリコ ≪聖母戴冠≫
〇マンティーニャ ≪キリストの磔刑≫≪聖セヴァスティアヌス≫
〇ボッティチェリ ≪三美神を伴うヴィーナスから贈り物を授かる若い婦人≫≪学芸の集いに導かれる青年≫
〇ラファエロ ≪聖母子と幼児聖ヨハネ≫(通称≪美しき女庭師≫)≪ラファエロと友人≫≪バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像≫
〇ヴェロネーゼ ≪カナの婚礼≫
〇ティツィアーノ ≪田園の奏楽≫
〇カラヴァジオ ≪女占い師≫≪聖母の死≫
次に、第Ⅱ章の目次を掲載して、執筆項目を示しておく。
小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』まどか出版、2003年
本書の目次の第Ⅱ章の内容は次のようになっている。
【目次】
Ⅱ 花咲くイタリア・ルネサンス
モナ・リザとレオナルド
ジョット――西洋絵画のあけぼの
筆をもつ僧侶(天使僧フラ・アンジェリコ)
マントヴァのマンティーニャ
女神たちとボッティチェリ
天才ラファエロ
ヴェネチア絵画はアドリア海の女王!
カラヴァジオ登場!
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
第Ⅱ章 花咲くイタリア・ルネサンス
モナ・リザとレオナルド
・はじめは≪モナ・リザ≫から
・私生児レオナルド
・聖母の細胞まで描いた万能の天才
・≪モナ・リザ≫はなぜ名画なのか?
ジョット――西洋絵画のあけぼの
・ジョットの≪聖痕を受けるアッシジのサン・フランチェスコ≫
・幻の青ラピス・ラズリ
筆をもつ僧侶フラ・アンジェリコ
・フラ・アンジェリコの≪聖母戴冠≫
マントヴァのマンティーニャ
・ルーヴルのイタリア絵画
・マンティーニャの≪キリストの磔刑≫
・パトロンに尊敬された画家
女神たちとボッティチェリ
・ボッティチェリについて
・プラトン・アカデミー
・レオナルドVSボッティチェリ
・破戒僧画家フィリッポ・リッピ
天才ラファエロ
・ヨーロッパの美の規準はラファエロにあり
・「真似したい天才」としてのラファエロ
・ラファエロの諸作品
ヴェネチア絵画はアドリア海の女王!
・≪カナの婚礼≫――ルーヴル最大の絵画
・ヴェロネーゼと≪カナの婚礼≫
・ヴェネチアの巨大作品
・ティツィアーノとティントレット
カラヴァジオ登場!
・無頼の画家カラヴァジオ
・絵筆とナイフの物語
・≪女占い師≫と≪聖母の死≫
・カラヴァジオの最後
小暮満寿雄『堪能ルーヴル』の要約 第Ⅱ章 花咲くイタリア・ルネサンス
はじめは≪モナ・リザ≫から
≪モナ・リザ≫(ジョコンダ)を見ずしてルーヴル美術館は語れない。≪モナ・リザ≫を所有する栄誉が、ルーヴルを世界一の美術館といわしめる由縁だといっても過言ではないと、まず小暮氏は、この世界一有名な芸術作品の話から始めている。
(本物を近くで見ると意外に大きくて[77×53㎝]、バックの風景は画集より青みがだいぶ強いという)
≪モナ・リザ≫はどうしてそんなに有名であり、この絵のどんなところが、素晴らしいのかといった素朴な疑問に答えようとしている。
まず、≪モナ・リザ≫ほど謎に包まれていて、エピソードの多い絵はない点を指摘している。
モデルはマントヴァ侯妃イザベラ・デステだとか、フィレンツェの名士フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザだとか、諸説紛々であるが、その実際は誰もわからないと記す。
≪補注≫
※小暮氏の本の出版年が2003年であることに注意する必要がある。2008年、ハイデルベルク大学図書館蔵書に見つかった16世紀の書き込みについては言及していない。中野氏は、この文書発見によってモデル問題は、フィレンツェ商人の妻リザで正しかったとしている。
(中野、2016年[2017年版]、233頁~235頁参照のこと)
【以前のブログで言及したことがある。次の記事を参照にして頂きたい。】
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その6 私のブック・レポート≫
また、≪モナ・リザ≫について調べていくと、資料によって、そのエピソードに相当な食い違いがある。
たとえば、もともとこの絵は、左右約7センチずつ大きかったそうだ(ラファエロの模写したスケッチから推測されている)。
それが、ある資料では、作者のレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci, 1452~1519)が切り取ったと記してあり、別の記述ではナポレオンが自分の寝室に掛けるために削ってしまったと書いてある。
≪モナ・リザ≫がなぜフランスのルーヴル美術館にあるのかも謎に包まれている。たしかにレオナルドは、フランス・ルネサンスの父といわれるフランソワ1世(François 1、1494~1547、在位1515~47、2メートルを超える巨漢だったそうだ)の招きで、フランスのアンボワーズに赴き、その地で没している。
レオナルドは終生≪モナ・リザ≫を手放さなかったというから、死の床の傍らにも、この絵があったのであろう。しかし、レオナルドの死後、≪モナ・リザ≫の足取りを知るものは誰もいないと述べている。
(小暮、2003年、30頁~32頁)
【私生児レオナルド】
≪モナ・リザ≫と同様、レオナルド・ダ・ヴィンチ自身も謎の人である。
そして、その生涯は、「万能の天才」とは裏腹な屈折な一面があった。そのことは≪モナ・リザ≫の「謎の微笑み」を解く鍵があると小暮氏は考えて、レオナルドの生涯をひもといている。
1452年4月15日、レオナルドはヴィンチ村の地主セル・ピエロと、その土地の農婦カテリーナの間に私生児として生まれた。そのことが、この天才に終生コンプレックスを残していたと小暮氏はみている。
16歳まで祖父のアントニオに育てられたレオナルドは、祖父の死をきっかけに、ヴィンチ村から花の都フィレンツェにあった、父セル・ピエロの家に移り住む。しかし、義母や腹違いの兄弟たちと一緒に生活するとうのは、居心地のよいものではなかったようだ。
(その上、セル・ピエロは商人として成功した人の例にもれず、愛人を囲い、内向的だったレオナルドは、この父にあまり心を開かなかった)
一方、農婦だった母親のカテリーナについては、後年、家政婦としてレオナルドと一緒に生活していた。彼は自分の母をファーストネームで「カテリーナ」と呼んでいたそうだ。
(≪モナ・リザ≫のモデルに母カテリーナ説があるというのも、そのような理由があると推測している)
さて、父セル・ピエロも人の子で、複雑なレオナルドの立場に責任を感じていたのか、それなりの支援はしていたようだ。レオナルドは、移り気で金使いが荒かったらしく、何をやっても長続きしない息子を心配していた。セル・ピエロには、たまたま近所に住んでいた売れっ子画家ヴェロッキオ(1435?~1488)のもとに連れてゆく。
少年レオナルドの描いた怪物をみたセル・ピエロが、それを本物と間違えて叫び声を上げたエピソードがある。
絵のうまさは、師をすぐに超えたといわれる。ただ、芸術の才能と経済力は別の話で、ヴェロッキオはおおらかな人だったのか、レオナルドが独立する20歳代半ばまで、経済的に面倒を見ていたそうだ。
(小暮、2003年、32頁~35頁)
【聖母の細胞まで描いた万能の天才】
移り気の天才は、完成させた作品がきわめて少ない。ここルーヴル美術館は≪モナ・リザ≫も含めて5点もの完成作品を収蔵している。
特に、次の2点は異様なほどの密度であるという。
〇≪岩窟の聖母≫(1485~86年、199×122㎝、油彩)
〇≪聖アンナと聖母子≫(1508~10年、168×130㎝、油彩)
特に≪岩窟の聖母≫では、葉っぱ1枚1枚、髪の毛1本1本の間が、細かく変化している。それは、さながら彼女たちや草木を構成している細胞ひとつひとつを描こうとしているようだと小暮氏はみている。
絵の中には必ずといってよいほど、画家のメッセージが込められている。小説では「行間を読む」という行為があるように、絵を見る時でも、そこに描かれていないものを感じることは大切なことであるという。
≪岩窟の聖母≫には、優美な聖母子作品の中にダークサイドがあり、“怪物”が潜んでいるのが小暮氏には感じられるそうだ。
レオナルドも心に“怪物”を飼っていて、それがときどき目をむくという。自らを「経験の弟子」と語り、生涯30体以上もの死体を解剖し、精緻きわまりない人体解剖のデッサンを生み出した。
解剖図や設計図の文章を鏡に映さないと読めない文字で書いていたというのはよく知られている。奇妙な自己顕示をしたのは、レオナルドの生い立ちによるコンプレックスがあったのかもしれないと小暮氏はみている。
「私には学歴がない」とレオナルドは言った。もちろん万能の天才に学歴など意味はないが、当時必須だったラテン語をきちんと学ばなかったことを後悔し、それを必死に隠していたともいわれる。
ダークサイドな面といえば、レオナルドの家では、虫や蛇が飼われていたとか、弟子の前で部屋いっぱいに羊の腸を膨らませるパフォーマンスを見せたとか、24歳の時にはホモセクシャルの容疑で告訴されたとか、町で醜男をみかけるとしばしば後を付け回したとか、いろいろ言われている。
(小暮、2003年、35頁~38頁)
【≪モナ・リザ≫はなぜ名画なのか?】
美と醜は意外に紙一重のもので、一人の人間の中に神と悪魔、鬼と仏が同居することがあるように、芸術も矛盾に満ちていると小暮氏はいう。
そして誰もその美を疑わない、≪モナ・リザ≫の謎の微笑は決して天真爛漫なものではない。そこには、人間より神に近くなってしまったもののみが持つ、ある種の恐ろしさを見出すことができるとする。
この絵の持つダークサイドから誰かが想像した話として、次のような話を紹介している。つまりレオナルドが≪モナ・リザ≫を描いたプロセスではじめにガイコツを描き、その上に筋肉をつけ、最後に皮膚を描いて完成させたという真しやかなエピソードである。
それはさておき、レオナルドの脳細胞はきっと深い森のようだったと小暮氏は想像している。≪モナ・リザ≫の微笑を前にして、その世界に迷い込むという。森の入口でうろうろして引き返す人もいれば、入ったまま出てこなくなる人もいる。そこでは、レオナルドの心に棲んでいる怪物に出くわすかもしれないし、あるいは天使の姿を見かけるかもしれないそうだ。
それは、500年以上経った今でも、何が潜んでいるか知ることのできない未知の森である。だからこそ、≪モナ・リザ≫は、いまだ人々の心を惹きつけてやまないと小暮氏は考えている。
(小暮、2003年、38頁~40頁)
ジョット――西洋絵画のあけぼの
ジョットの≪聖痕を受けるアッシジのサン・フランチェスコ≫
ルネサンス初期13~14世紀の絵画を取り上げている。
ジョット(1267~1337、イタリア初期ゴシック)の次の作品に言及している。
〇ジョット≪聖痕を受けるアッシジのサン・フランチェスコ≫(1295~1300年頃、313×163cm、テンペラ、ルーヴル美術館)
〇ジョット≪東方三博士の礼拝≫(1304~05年、200×185㎝、パドヴァ、スクロヴェーニ礼拝堂)~空には当時のハレー彗星が描かれている
ジョットこそは、ルネサンスの幕を開けた画家であるといわれる。
(音楽でいえば、ヨハン・セバスチャン・バッハのような存在という)
ルネサンスは、「職人」を「アーチスト」に脱皮させた時代でもある。ルネサンスは人間が持つ顔かたちや性格、能力は人によって異なることが発見された時代、いわば「個の発見」の時代である。
今でこそ、芸術家は個性的な存在であるが、中世以前は画家も職人と同じ扱いで仕事を受けていた。ジョット以前にも優れた画家はいたであろうが、名前がほとんど残っていない。それがルネサンス以降になって、一目みて誰の作品かわかるような個性的な芸術家がもてはやされるようになった。比類のない技量や個性が認められるようになり、その待遇も改善されるようになる。
小暮氏は、西洋絵画はジョットにはじまると考えている。
ジョットというと、アッシジのサン・フランチェスコ教会が有名である。≪聖痕を受けるアッシジのサン・フランチェスコ≫という絵は、アッシジ聖堂のものを、画家自身が同じ構図で描いたものである。
(サン・フランチェスコ教会は1997年の地震で崩壊したが、再建された)
このサン・フランチェスコ(1182?~1226)はキリスト教の中で、最も人気と尊敬を集めている聖人である。鳥と話すことができたと伝えられ、その場面を描いた西洋絵画も数多く残されている。彼はアッシジの富裕な織物商の家に生まれ、若い頃、放蕩の限りをつくした。
20歳くらいの時に、隣町ペルージアとの戦いで捕虜となり、また大病にかかったことがきっかけで悔い改め、キリストの教えに従って生きるようになった(悔恨して聖人になったというパターンである)。
彼は晩年近くになって、アルウェルニア山上において、キリストの受難のしるしである聖痕を身に受けたといわれる(文書に記録されている最初の聖痕であるとされる)。
この絵はその決定的シーンをビジュアルにして描いたものである。
小暮氏は、ジョットの作品ほど「本物」を見る意味を感じさせるものはないという。ジョットの場合、その絵が建築に組み込まれているため、その地に行って、その地の空気と光で見ないと真価がわからないと説く。イタリアまで足を伸ばしてジョットの壁画を見ることを勧めている。
(小暮、2003年、41頁~45頁)
幻の青ラピス・ラズリ
アッシジのサン・フランチェスコ教会も素晴らしいが、一押しは、ヴェネチア近郊の町パドヴァにあるスクロヴェーニ礼拝堂であるという。
それはパドヴァの大商人エンリコ・スクロヴェーニが自宅の横に建てた礼拝堂である。エンリコの父レジナルドは、ダンテの『神曲・地獄篇』にも登場する悪名高い高利貸しだったそうだ。父の贖罪のために、当時から名声の高かったジョットに、礼拝堂の内装をすべてまかせたというわけである。
スクロヴェーニ礼拝堂の中で目を惹くのは、天井をはじめふんだんに用いられたラピス・ラズリの青であるそうだ。これは、アフガニスタン原産の宝石ラピス・ラズリを砕いて顔料に用いたという、贅沢な絵具である。現在では、ほとんど手に入らなくなってしまった材料である。
(日本でも瑠璃と称して七宝の一つに数えられ、日本画では群青の岩絵具として昔から用いられてきたが、現在は入手できないという)
ルーベンスやフェルメールの青もラピス・ラズリを効果的に用いたことで知られているが、このスクロヴェーニ礼拝堂ほど、ふんだんにしかも美しく使われた例はないと小暮氏は驚嘆している。
パトロンだったエンリコは、父の贖罪だけではなく、自らのステータスもあって、金以上に高価なラピス・ラズリを惜し気もなく、ジョットに提供したそうだ。そのおかげで、素晴らしいウルトラマリン・ブルーを見ることができる。
(小暮、2003年、45頁~48頁)
筆をもつ僧侶フラ・アンジェリコ
フラ・アンジェリコの≪聖母戴冠≫
〇フラ・アンジェリコ≪聖母戴冠≫
(1434~1435年頃、213×211㎝、テンペラ、ルーヴル美術館)
フラ・アンジェリコ(1390/95頃~1455、イタリア、フィレンツェ派)の≪聖母戴冠≫
は、約210センチ四方あまりの大画面である。そこには、聖人や天使たちの姿がひしめき、中心にはキリストから冠を授けられる聖母マリアの姿がある。
2世紀以上にもわたったルネサンス時代も、すべてがよい時代というわけではなかった。ジョットの死後、14世紀半ばからフィレンツェでは、ペストの流行や内乱によって、経済や文化も一時的に衰退した。それが15世紀を迎える頃になって、ようやく経済は立ち直る。そのような暗い時代が終わりを告げ、ルネサンス最盛期の花咲く時代にフラ・アンジェリコは生まれた。
このフラ・アンジェリコ(天使僧)の名は死後、後世の人がつけた呼び名である。本名は、グイド・ディ・ピエトロである。
この人は画家である以前に神に仕える敬虔な修道士であった。絵を描く前は必ず祈りの言葉を唱え、キリストの処刑を描く時は涙を流したという(神様を本当に信じていないと、こういう絵は描けないと、小暮氏は評している)。
アンジェリコの本質といえる作品は、フィレンツェにあるサン・マルコ美術館のフレスコであるという。
サン・マルコ美術館は、かつてフラ・アンジェリコが修道僧として暮らしていたドミニコ修道院だった場所にあるそうだ。彼とその弟子が描いた優美で清らかなフレスコ画が壁画に描かれている(ちなみに、サヴォナローラもここの修道僧だった)。
さて、サン・マルコ美術館の絵は、フラ・アンジェリコの信仰の集大成である。絵というより、神に捧げる気持ちが絵になって現われたような奇跡のような作品群であるそうだ。中でもサン・マルコ美術館の≪受胎告知≫(1437~1446年頃)は、質素で静謐な画面が感動的ですらある。
ルーヴル美術館の≪聖母戴冠≫も信仰心に満ちた絵だが、質素なサン・マルコ美術館のフレスコとは対照的に、派手な作品であると小暮氏はみている。
なお、当時、絵の注文というのは使用する材料の価格などによって、納期や価格が決められ契約書が交わされていたようだ。フレスコ壁画なら面積あたりでいくらとか、金やラピス・ラズリを何グラム使うからいくらと、契約交渉がなされ、下絵で採用した構図は厳守しなければならないなど、意外にビジネスライクだったといわれる。ただ、ドミニコ修道僧だったアンジェリコだけは、クライアントも祭壇画などの制作費は、天使僧アンジェリコの言い値に従っていたそうだ。
(小暮、2003年、49頁~53頁)
マントヴァのマンティーニャ
ルーヴルのイタリア絵画
ルーヴルに収蔵されているイタリア絵画は名品揃いである。
それは、ナポレオンの戦利品ばかりではない。イタリア絵画のコレクションの多くは、マントヴァのゴンザーガ家の収蔵作品が、ロンドンのチャールズ1世にわたったものである。
ところが、大量の美術品の持ち主となったチャールズ1世も、専制君主政治が民衆の反発を買い、1649年にピューリタン革命で処刑される。その後、競売にかけられた作品は、フランスのルイ14世が落札、現在に至るわけである。
(小暮、2003年、54頁~55頁)
マンティーニャの≪キリストの磔刑≫
マントヴァは、ミラノと同じく、イタリア北部のロンバルディア州にある都市である。ここの領主ゴンザーガ家はその名声を高めるために、芸術家を庇護し、町を美しくしたことで知られている。≪モナ・リザ≫のモデル説のあるイザベラ・デステも、フランチェスコ・ゴンザーガの花嫁として、マントヴァで権勢をふるった女性である。
このゴンザーガ家をパトロンとして召しかかえられていた画家がアンドレア・マンティーニャ(1431~1506、初期ルネサンス、パドヴァ派)であった。
〇≪キリストの磔刑≫(1457~60年、76×96㎝、ルーヴル美術館)
この絵は、マンティーニャが25歳頃から描いたもので、ゴンザーガ家に呼ばれる前の作品である。この画家の早熟ぶりを発揮した作品である。
磔(はりつけ)にされたキリストの右には、彼の布を賭けの対象にしているローマ人兵士たちが描かれ、その後ろには早々に立ち去るイエルサレムのやじ馬の姿がある。これらローマ兵の衣装や背景に描かれている空想都市は、当時再発見された古代ギリシア・ローマ文明をもとに、マンティーニャが独自にデザインしたものだそうだ。
彼は博識な知識人で、それと同時に神経質で細かい人だった。まわりとのトラブルが絶えず、一部の人からは煙たがられていた。そのせいか、この≪キリストの磔刑≫にしても、「岩も人の顔も一緒。人とモノの描きわけもできない画家」と評論家から悪態をつかれたそうだ。
また、当時の手紙には、隣人がマルメロ(西洋カリン)の実を盗んだとか、仕立て屋に服の出来が悪いとか、トラブルを起こしているという。貴族たちからも、無礼で不愉快と非難されていた。トラブルメーカーのくせに、ロドヴィコ・ゴンザーガ侯は、彼をかばい、領主の庇護を受け、好条件で厚遇されていた。
(小暮、2003年、55頁~57頁)
パトロンに尊敬された画家
15世紀のアーチストにとって、有名な名家に仕えることは生活の保証を得るばかりでなく、社会的な地位を確立したことを意味した。
マンティーニャは1460年から、亡くなる1506年までの46年間をゴンザーガ家に仕えた。マントヴァ侯ロドヴィコ・ゴンザーガは、高給に加え、快適な住居や引っ越しの費用までも加えて、迎えた。
マンティーニャは少年期を大学の町パドヴァで育ち、古典的な知識を身につけた教養人であった。パドヴァ大学は、ボローニャ大学に次ぐ歴史を有する大学で、コペルニクスもここに学び、ガリレオ・ガリレイをはじめとする著名人が教授を務めた。学問好きのロドヴィコ侯は、この博学な画家に尊敬を寄せ、古典文学や考古学の情熱を分かち合うことに喜びを感じていたようだ。
マンティーニャ≪聖セヴァスティアヌス≫(1480年頃、255×140㎝、ルーヴル美術館)
聖セヴァスティアヌスを縛り付けている柱や、背景の町は当時のイタリアの風景ではなく、マンティーニャ・ブランドによるデザインである。
当時の画家の仕事は絵を描くだけではなく、建築やファッション、インテリアとアートプロデューサーの役割を果たしていた。宮殿をロドヴィコ侯の趣味を合わせ神話の場面で装飾したりした。顧問であり、側近であり、宮廷人であった。
宮廷の画家であるからには、雇い主の要望に必ず応える義務があった。ロドヴィコ侯は、タペストリー職人に織らせるために、マントヴァ宮の庭園にいるつがいの七面鳥2羽のデッサンを2点描いて送るように命じた記録を残している。
(小暮、2003年、58頁~59頁)
女神たちとボッティチェリ
ボッティチェリについて
≪サモトラケのニケ≫の前をくぐりぬけると、ドノン翼2階の入口、つまりイタリア美術の入口になる。まさにここは西洋文明の入口である。そこには、ボッティチェリ(1445~1510、本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリピペ)のフレスコがある。
〇≪三美神を伴うヴィーナスから贈り物を授かる若い婦人≫
フレスコ、1480~83?年、212×284㎝
〇≪学芸の集いに導かれる青年≫
フレスコ、1480~83?年、237×269㎝
※どちらも≪モナ・リザ≫のグランド・ギャラリーへ向かうペルシエ・フォンテーヌの間に置かれている。
これらのタイトルは、ボッティチェリ自身がつけたものではなく、後世の人が描かれているモチーフを見て、そのままタイトルにしたものである。
このフレスコ画は、画家の死後から360年以上の経過した1873年、フィレンツェ郊外にあるレンミ荘の壁の中から発見された。その3点のうち、傷みの少なかった2点をルーヴルが購入したものである。
≪ヴィーナスと三美神≫という言葉で、フィレンツェのウフィッツィ美術館にある、≪プリマヴェーラ(春)≫と≪ヴィーナスの誕生≫にも描かれていた女神たちが想起される。
ヴィーナスは、周知のように、ギリシア神話に出てくる美の女神である。ルーヴルの名品≪ミロのヴィーナス≫から、1500年以上も経過した、このルネサンス期にギリシア時代の神さまが復活したことになる。
(これは日本でいえば、現代と古墳時代・飛鳥時代ほどの時間の隔たりに相当し、いわば聖徳太子が息を吹き返すようなものだと小暮氏は喩えている)
三美神も同様に古代ギリシアのヘレニズム期に生まれた女神で、ヴィーナスの侍女たちにあたる。三人は美・貞節・愛と呼ばれ、ポンペイの壁画にも描かれている。
この時代、新プラトン主義と呼ばれる思想が、フィレンツェに流行した。キリスト教とギリシア哲学が融合したものといわれ、魂を昇華させ、宇宙と一体化することを目指していたといわれる。個人と宇宙が一体化するという目標は、ヒンドゥー教や仏教に見られる、アートマン(我)とブラフマン(梵)の合体(梵我一如)に共通するものが感じられる。
(小暮、2003年、60頁~63頁)
<プラトン・アカデミー>
ルネサンスという時代は、それまでのワク組みにとらわれない自由な表現ができるようになった時代であった。
ヨーロッパというのは完全にキリスト教化されているようで、南に行けばギリシア・ローマ神話、北に行けばゲルマンやケルト神話といった具合に、土着の信仰が根強く息づいている。こうした土着の異教の女神たちを描いたボッティチェリの作品には、そんな新プラトン主義の影響が色濃く表されている。
新プラトン主義の思想は、フィレンツェの盟主コジモ・デ・メディチが、1440年に創設したプラトン・アカデミーと呼ばれる組織によって発展した。孫のマニフィコ(豪華王)、ロレンツォ・メディチの時代になると、さらに影響力が高まる。
ボッティチェリは豪華王のお気に入りであった。
(定説ではないが、≪プリマヴェーラ≫や≪ヴィーナスの誕生≫もメディチ家の依頼だったと考えられている)
ボッティチェリは羽ぶりがよく、陽気で、悪ふざけが大好きだったといわれるが、フィレンツェの盟主はこう詠っている。
「蠅より厚かましい食いしん坊のボッティチェリ、おまえのおしゃべりの何と楽しいことよ!」と。
(小暮、2003年、63頁~64頁)
<レオナルドVSボッティチェリ>
一方、レオナルド・ダ・ヴィンチは、なぜかメディチ家に生涯一度も呼ばれなかった。はっきりした理由は不明だが、自らの経験と自然を師とするレオナルドに、新プラトン主義の思想が合わなかったと小暮氏は推測している。
それにしても、レオナルドはボッティチェリの成功に嫉妬していたようだ。レオナルドが知人にあてた手紙によると、ボッティチェリを「水ぶくれのカボチャ」と罵倒し、そのあとで、「彼に比べて私は成功していない」と嘆いている。
この手紙からは、「万能の天才」らしからぬレオナルドの一面が窺われるが、この二人は若い頃、ヴェロッキオ工房の兄弟弟子の間柄だった。
レオナルドが17歳でヴェロッキオ工房に入門し、絵具の溶き方もよく知らなかった頃、7歳年長だったボッティチェリは、いっぱしの画家であった。
ボッティチェリはもうひとりの師匠フラ・フィリッポ・リッピのもとで修業が済んでおり、ヴェロッキオ工房には忙しくなった時に、お客さんとして手伝いに来るという存在であった。
その上、ボッティチェリは当時の国際語ラテン語などの語学に堪能であった。それに対して、レオナルドは正規の教育を受けておらず、ラテン語が苦手であった。自らを「学歴がない」と称していたレオナルドは、ボッティチェリに対してコンプレックスを感じていたであろう。
しかし、やがてメディチ家の没落とともに、怪僧サヴォナローラ(1452~98)が現れると、ボッティチェリは感化されてしまう。サヴォナローラのスローガンは、「プラトンやアリストテレスに背を向けよ!」「聖母マリアを淫売婦のように描いた絵は抹殺せよ!」というものであった。
サヴォナローラは、禁欲的な苦行を積んだドメニコ会の修道士だったが、豪華王の死やフランス軍のフィレンツェ進攻を予言したことで、時代のカリスマにのし上がる。
サヴォナローラは戒律を人々に課し、「虚飾の焼却」と称し、異教的なテーマを扱う美術品や書物を焼き払うことを命じた。ボッティチェリも自らの作品を火の中に投じたという。
そのようなサヴォナローラのもとで、ボッティチェリの絵はかつての輝きを失ってゆく。60歳になったボッティチェリは、メディチ家の年金をもらいながら、細々と絵を描き、松葉杖をつきながら、フィレンツェの町を歩いていたと伝えられている。
(一方、レオナルドはミラノで名声を得た後、各地を転々として18年後にフィレンツェに戻るが、生彩を失ったかつてのライバルを見て、何を思ったか知るよしもない)
(小暮、2003年、64頁~66頁)
<破戒僧画家フィリッポ・リッピ>
話は前後するが、ボッティチェリの師匠フィリッポ・リッピについて触れておく。
この師匠の≪聖母子と天使≫を見ると、テンペラ独特のハッチング(ペン画のように線を重ねてトーンを描きおこす技法)のあとなど、ボッティチェリが師匠のスタイルを受け継いでいることがわかると小暮氏は指摘している。
フィリッポ・リッピは、フラ・アンジェリコ同様、画家でお坊さんだった。天使僧と呼ばれたアンジェリコと違って、フィリッポ・リッピは敬虔な修行僧ではなく、好色漢の破戒僧だったようだ。
というのは、フィレンツェ近郊のプラートの聖堂の壁画制作を委嘱された際、モデルとなった女性、修道女ルクレツィア・ブーティとの間に子どもができて、スキャンダルとなる。
小さなプラートの町は大騒ぎとなり、収拾がつかなかった際に、コジモ・デ・メディチが仲介に入り、二人を還俗(げんぞく)するという形で夫婦にさせ、一件落着した。
ちなみに、生まれてきたこの子は、画家のフィリッピーノ・リッピ(1457~1504)である(名前は、フィリッポとフィリッピーノで似ているが、親子である)
※フィリッポ・リッピ≪聖母子と天使≫(1465年、フィレンツェのウフィッツィ美術館)は、修道女ルクレツィア・ブーティと息子フィリッピーノをモデルにしているとされる。
また、息子フィリッピーノ・リッピの作品はルーヴル美術館にもある。≪アハシュエロス王の前で失神するエステル≫
(小暮、2003年、66頁~68頁)
天才ラファエロ
ヨーロッパの美の規準はラファエロにあり
ラファエロ・サンツィオ(1483~1520)の≪美しき女庭師≫のタイトルは通称で、正式には≪聖母子と幼児聖ヨハネ≫である。
バックに描かれたゴシック様式の建物は、当時イタリアで流行したフランドル美術の影響かもしれない。レオナルドの≪岩窟の聖母≫に比べると、深みこそ足りないが、平明である。
(音楽でいえば、モーツァルトのような、人を幸福にする美しさをたたえた作品であると小暮氏は評している)
37歳で夭折した天才ラファエロの代表作といえば、ウフィッツィ美術館やヴァチカンの「署名の間」にある一連の壁画が有名である。しかし、ルーヴルには、数は多くないにせよ、ラファエロの聖母子像や肖像画の傑作が揃っている。
ラファエロという人は、周知のように、同時代のレオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロと並んで、イタリア・ルネサンスを代表する天才である。
(しかし、先輩の2人ほど強烈なキャラクターの持ち主でなかったようだ)
ラファエロは、世に出た当初からいきなり頂点を極め、そこから自分の世界を広げた人であった。25歳でヴァチカン宮殿の壁画や装飾を担当し、サン・ピエトロ寺院の建築家に任命され、また古代ローマ美術の保存管理の仕事まで任される。
このように、生前から伝説の出来上がった人であるが、そのわりにこの画家の生涯を知る手がかりは少なく、評価もまちまちである。
(小暮氏も、天才ラファエロに関する資料を読んでも、ラファエロ自身の顔、キャラクターが見えてくるものが少ないという)
ラファエロの評価については、日本では、美術全集などの中に外されていたりと、その名声ほど人気はイマイチのようだ。
それに対して、ヨーロッパにおいては、長いことラファエロは最も完成された美の規準とされてきた。
この評価と人気の違いについて、小暮氏は思いをめぐらしている。
ラファエロを評価する上で、ピカソの言葉「私は14歳のときにはラファエロと同じように描けた」を小暮氏は想起するという。さすがのピカソも「14歳でレオナルドと同じように、、、」
とは言わなかった。
このことは、「真似してはいけない天才」と「真似したい天才」の違いを象徴するものではないかと小暮氏は解釈している。
ここで、音楽の例を引き合いに出す。
往年の大ピアニスト、ウラジミール・ホロヴィッツの奏法と、普通のピアノ演奏との違いに注目する。つまりホロヴィッツは指を平らに真っすぐ伸ばし、手首を鍵盤より下に降ろして演奏をした。通常の演奏では、手に卵を持ったような形で弾くのが基本とされる。
ホロヴィッツの奏法は一般的には、ピアノ演奏でいちばんやってはいけない型だといわれる。しかし、撥(ばち)でピアノ線を引っ掻いたようなホロヴィッツの音色はこの弾き方によって生み出され、一聴してホロヴィッツのピアノとわかる魅力的なものである。ただ、ホロヴィッツ以外にできる人もおらず、また後継者も現れなかった。つまり、ホロヴィッツは典型的な「真似してはいけない」タイプの芸術家といえる。
「真似したい天才」と「真似してはいけない天才」とに分けた場合、前者の「真似したい天才」には基本的なセオリーが網羅され、バランスのとれた人が多く、それに対して後者は尖った才能の人が多いようだ。
(小暮、2003年、69頁~73頁)
「真似したい天才」としてのラファエロ
真似のできない才能の持ち主として、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロがいる。彼らは、ワン&オンリーの芸術家であるとする。ミケランジェロはシスティナ礼拝堂をほとんど独力で描いたといわれる。ヴァチカンがつけた助手が未熟だったという話もあるが、ミケランジェロ以外にはできる人間がいなかったようだ。
一方、ラファエロはどうだろう。ヴァチカン宮殿の壁画群や装飾を、ジュリオ・ロマーノやジョヴァンニ・F・ペンニといった弟子たちを使って完成させた。ラファエロは「真似したい天才」のカテゴリーに入る芸術家と、小暮氏はみる。
孤独な芸術家であったレオナルドやミケランジェロに対して、ラファエロは社交的で弟子が大勢いた。
(小暮、2003年、73頁~74頁)
ラファエロの諸作品
〇≪聖母子と幼児聖ヨハネ≫、通称≪美しき女庭師≫
1507年 122×80㎝ 油彩
ラファエロの聖母子シリーズの逸品
〇≪ラファエロと友人≫
死の1年前1519年 99×83㎝ 油彩
左がラファエロで、典型的イタリア人ともいうべき濃い顔をした友人は不明である
〇≪バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像≫
1514~15年 82×67㎝ 油彩
これらの2点は、ラファエロの真筆で、イタリア・ルネサンスの肖像画でも傑作であるとされる。カスティリオーネはラファエロの親友であり、当時一流の文学者、政治家であり、『廷臣論』という著書でも有名な人物である。
ゴヤやヴェラスケスの先を行く、人の心を描いた肖像であると小暮氏も評している。
〇≪ジョヴァンナ・タラゴーナの肖像≫
1518年 120×95㎝ 油彩
弟子のジュリオ・ロマーノ筆にラファエロが加筆したものと考えられている。
優美なジョヴァンナ・タラゴーナの表情、臙脂(えんじ)の布の微妙なひだの調子など、ラファエロの真筆で通っても不思議のない傑作ともいわれる。
ただ、この絵に関しては複雑な事情があるそうだ。ラファエロ自身がフェラーラ公に「弟子の作品」と明言しているが、最初の構図と仕上げにおいては、師匠ラファエロの手が入っているようだ。だから、師匠と弟子との連携で、上手くいった作品である。
ラファエロという画家は、強烈な個性でグイグイ人をひきつけるタイプではなかったため、かえってラファエロの流派を普及させることができたと小暮氏は捉えている。
(小暮、2003年、74頁~76頁)
ヴェネチア絵画はアドリア海の女王!
≪カナの婚礼≫――ルーヴル最大の絵画
〇ヴェロネーゼ≪カナの婚礼≫(1562~63年 666×990㎝ 油彩)
ヴェロネーゼ(1528~88)の≪カナの婚礼≫は、高さ7メートル、幅10メートル近くある、巨大な絵画である。
以前は、この絵は≪モナ・リザ≫の隣にあり、口のわるい評論家は「ルーヴル最大の絵であると同時に、モナ・リザの影にかくれて、最もルーヴルで注目されない作品」などと言った。
しかし、これは、16世紀イタリアのヴェネチアン・アートを代表する傑作である。ドラクロアもセザンヌもこの絵を熱心に見て、自分のスタイルに吸収していったという。後世の画家たちに対する影響も大きかったようだ。隣の部屋に飾られている≪キオス島の虐殺≫や≪民衆を率いる自由の女神≫などに見られるドラクロアの劇的構図は、この群像を参考にしてから生み出されたものであろう。
(≪モナ・リザ≫の引き立て役になっていた以前の配置より、現在の方がこの絵が後世の画家たちに与えた影響を間近に見ることのできる本来の位置であるようだ)
(小暮、2003年、77頁~78頁)
ヴェロネーゼと≪カナの婚礼≫
パウロ・ヴェロネーゼの本名はパウロ・カリアリである。『ロミオとジュリエット』で有名なヴェローナ生まれなので、ヴェロネーゼという。
(これはヴィンチ村のレオナルドだから、レオナルド・ダ・ヴィンチといい、カラヴァジオ村出身だからカラヴァジオというのと同様、いわゆるご当地のしこ名である。イタリア・ルネサンスの巨匠たちは本名で通っている人の方が少ないくらいである。)
≪カナの婚礼≫は、カナの町の婚礼に招かれたキリストが、水ガメに注いだ水をワインに変えたという奇跡のエピソードで、16世紀のイタリアで大いに流行したテーマである。それというのも、≪カナの婚礼≫は、ゴージャスな絵を描くと、すぐに宗教裁判にかけたがる教会に対して、これは宗教画ではあると言い訳できるテーマだったからであると説明される。
絵を見ると、豪華きわまりない大宴会の画面の中には、キリストの奇跡なんて、どこにあるという感じである。この絵は宗教画ではなく、貴族たちの祝宴を描いた風俗画であると小暮氏はとらえている。絵の中に描かれている総勢130人のファッションと壮麗なインテリアは、ヴェロネーゼと同時代のものである。聖書のエピソードに王侯貴族たちを登場させ、派手なヴェネチアの婚宴の場面に移しかえたというわけである。
絵の中心にはキリストとその弟子たちが横並びに座っているが、画家が描きたかったものは、ヴェネチアの人々の栄華であった。
(それは教会が求めていたような、お仕着せの聖書物語ではなかった)
また、当時は、このような群像には作者の自画像を描き加える習慣があった。ここでは、キリストの前で、古楽器を弾いている、白い服の禿頭の男性がヴェロネーゼだといわれている。そしてティツィアーノやティントレットといったヴェネチアの画家たちや、当時の有名人や貴族の姿も描かれている。さながらヴェネチア名士たちの顔見せ興行であった。
(小暮、2003年、78頁~81頁)
ヴェネチアの巨大作品
ヴェネチアではどうしてこんなに大きな油絵が描かれたのであろうか。この点について、小暮氏は、フレスコ画とキャンバス画の違いに注目して、次のように解説している。
例えば、ミケランジェロのシスティナ礼拝堂に代表される壁画は、フレスコ画であった。生乾きの漆喰に顔料(絵具の粉末)を一気にしみ込ませる方法で描かれた。
ところが、ヴェネチアは海の中に都市があるため、塩に弱い漆喰を使うフレスコ画では、すぐにボロボロになってしまう。そこで目をつけられたのが、ヴェネチアにいくらでもあった、艦船に使われる帆布だったといわれている。現在のキャンバスの原型である。
また当時、絵の支持体として主流だった木材は、大型の絵が流行するに従って、需要が追い付かなくなり、高騰したこともキャンバス画を発展させた一因であった(油絵というのは、西洋絵画の中では意外に新参者である)。
建物の壁に直接描かれた大きなフレスコ画は、運んでくるのに大きな困難を伴う。一方、布地に描かれた油彩画だと壁画ほどは難しくない。
(≪カナの婚礼)のような大きな絵がヴェネチアから、パリのルーヴルに運ばれてきたというのも、うなずける)
(小暮、2003年、81頁~84頁)
ティツィアーノとティントレット
次に、ヴェネチア派の画家ティツィアーノ(1488/90~1567)とティントレット(1518~1595)について言及している。
〇ティツィアーノ≪田園の奏楽≫(1510~11年頃、110×138㎝、油彩)
弦楽器のリュートを弾く女性が着ている赤に注目してほしい。この臙脂(えんじ)色、濃いワインレッドはヴェネチアン・レッドというシンボルカラーである。828年にエジプトからサン・マルコの遺体を運んだ時に由来するそうだ(これは現在のヴェネチアングラスの色である)。
この絵は長い間、兄弟子だったジョルジョーネ(1477~1510)の作品と思われてきたが、ティツィアーノ作という説が有力である。
ジョルジョーネの技法はスフマートであり、半透明な希釈油を何度もグレーズ重ね塗りする方法である。たとえば、≪モナ・リザ≫はスフマートを使用した典型の例である。人物と風景をやわらかく溶け込ませるような表現にすぐれた技法である。
この時代になると、油彩の使い勝手が向上し、以前よりも絵具をぶ厚く塗り、何度も塗り重ねることができるようになったそうだ。下絵を描いたら一気に仕上げなければならないフレスコと違い、油彩画はアバウトな技法でも描けるようになっていた。
ティツィアーノは下絵を描かなかったといわれる。やり直しがきいて、流動的に絵を完成させることができる油彩ならではの特性といえる。ヴェネチアン・アートの最盛期になって、油彩画は、97×53センチ四方の画面に4年をかけて完成させた≪モナ・リザ≫の時とは、別の素材に変わっていたと小暮氏は理解している。
なお、マネは≪オランピア≫の構図も、ティツィアーノの≪ウルビーノのヴィーナス≫から引っぱってくるくらいの入れ込みようだった。このルーヴル美術館が、いかに後世の画家たちに影響を与えたかが窺える。
次にティントレットはティツィアーノの弟子で、本名はヤコポ・ロブスティである。染織職人(ティントーレ tintore)の息子として生まれたところからティントレットと呼ばれた。
〇ティントレット≪天国≫(1579~80年、143×362㎝、油彩)
この絵はヴェネチアのドゥカーレ宮殿の下絵として描かれたものである。それでも143×362センチという大作である。
ティントレットの油彩画は、サイズが大きいこともあり、近くで見ると筆跡がはっきりと見える。未完成とも思われかねないほど荒々しいタッチで描かれている。それが遠く離れると、ひとつのまとまった画面に見えるようになっている。これはスペインのヴェラスケスなど、バロック絵画に大きく影響を与えることになっていく。
(小暮、2003年、84頁~86頁)
カラヴァジオ登場!
無頼の画家カラヴァジオ
アーチストという人種には、様々なイメージがつきまとう。例えば、気まぐれで気むずかしい、自由奔放、孤独。本能むき出しの人もいれば、謹厳実直を通り越して官僚的アーチストもいる。そんな中で、カラヴァジオほど「破天荒なアーチスト」のイメージの画家は他にない。
その代表的な作品に、次のものがある。
〇≪聖母の死≫(1605~06年 369×245㎝ 油彩)
〇≪女占い師≫(1594~95年 99×131㎝ 油彩)
絵の登場人物に当てられている光は、美しく強烈で神秘的である。この光と影のコントラストは、テネブリズム(暗闇主義、ténébrisme[テネブリスム]、カラヴァジオの影響下で明暗様式を好む傾向)と呼ばれる。ネーデルランドのレンブラントやルーベンス、スペインのヴェラスケスに多大な影響を与えたほど、当時は衝撃的な表現であった。
この絵の作者カラヴァジオは、賭場と酒場に入りびたりで、喧嘩三昧の毎日を送っていた無頼漢だった。
映画『アマデウス』ではないが、英語の「gifted(天才)」という言葉にもあるように、才能とは文字どおり天から与えられるものである。こと芸術やスポーツのように、才能の有無がわかりやすい世界においては、どうしてこんな奴がという人が素晴らしい仕事をすることが往々にしてある。このカラヴァジオもそうである。
(小暮、2003年、87頁~88頁)
絵筆とナイフの物語
カラヴァジオは本名をミケランジェロ・メリージというが、ミラノ近郊のカラヴァジオ村に生まれたため、現在もこの名で呼ばれている。
13歳の時に、シモーネ・ペテルツァーノという画家の工房に、4年の契約で弟子入りしたとされているが、早い時期の詳しい経歴は不明である。
(一説によると、工房の仲間と大喧嘩をして、すぐにヴェネチアに逃げ出したという)
ところで、ミラノを中心とするロンバルディア地方というのは、美術の本流からは外れた地域であったが、静物を丹念に描くという伝統芸能があり、カラヴァジオはそこで腕を磨いたようだ。その後、ローマに渡り、画家としての仕事を探し、ダルピーノという当時の人気画家の下で、果物や花を描く仕事をしていた。しかし、その生活は窮乏を極めていた。
そんな青年の才能をいち早く見出したのが、芸術に造詣の深かったデル・モンテ枢機卿であった。無名のカラヴァジオにまず果物の絵を描かせ、ミラノの聖人とされたボロメオ枢機卿に贈答した。
当時は静物というのは、画家のランクとしては最低のジャンルに入っていたが、絵を送られたボロメオは「ただの果物の絵」を大変に喜んだ。2人の枢機卿はブランドにこだわらない審美眼をもっていたようだ。
ミラノの聖人はこの絵を大切に保存し、現在それはミラノのアンブロジアーナ美術館のコレクションとなっている。
〇カラヴァジオ≪果物籠≫(1598~99年頃、31×47㎝、ミラノのアンブロジアーナ美術館蔵)
この絵は、イタリア絵画で、最初の独立した静物画として位置づけられている。
送り主のデル・モンテはこの時の書簡で、絵の作者カラヴァジオが「すでに大家」であることと、「手におえない人物」であることを伝えているそうだ。
その後、デル・モンテ枢機卿の口添えで、カラヴァジオはローマで華々しくデビューする。
≪聖マタイのお召し≫、≪聖マタイの殉教≫は、たちまち脚光を浴び、カラヴァジオは一躍、人気画家として注文が殺到する。
ところが、人気が上がると同時に、注目の的となったカラヴァジオは、スキャンダルの数も増す。
早描きのカラヴァジオはデッサンもせずに、一気に仕事を2週間ほどで済ませると、あとの1~2ヵ月は取り巻きを従え、ナイフを腰にぶら下げ、喧嘩や決闘、乱闘騒ぎにあけくれた。警察沙汰の記録は、わかっているだけで、6年で十数回以上といわれている。
まわりの画家の嫉妬も激しかったようで、「ゴロツキや売春婦をモデルに絵を描いている」とか、「カラヴァジオは無知蒙昧でフレスコも描けない」といった誹謗中傷を浴びた。激しい性格のカラヴァジオは、まわりと衝突したことは想像にかたくない。
人格的には問題があったが、アートに対しては当時の枠にとらわれず、美を追求したと感じられる、次のようなエピソードも伝えられている。
ある人が「もう少しギリシア彫刻でも勉強したらどうかね」と助言したところ、カラヴァジオは「私には彼らがいるさ」といって、町を歩く人々を指したという。ここにカラヴァジオの絵に対する姿勢が示されている。
(小暮、2003年、89頁~93頁)
≪女占い師≫と≪聖母の死≫
≪女占い師≫(1594~95年頃、99×131㎝、油彩)のモデルも、たまたま町でみかけたジプシー娘を連れてきて、取り巻きの若者と一緒にポーズをとらせたものだそうだ。
そして、≪聖母の死≫(1605~06年、369×245㎝、油彩)は、ローマのサンタ・マリア・デッラ・スカラ教会から注文された作品である。
この作品は、制作プロセスで、ある噂が流れていた。マリアのモデルは、婚約者に捨てられて、テヴェレ川に投身自殺したという女性の水死体を使ったという。
カラヴァジオが本当にその女性をモデルとして描いたのか真偽は不明だが、これは大衆にとっては面白い話であったのだろう。
注文した教会の司祭たちは、慌てふためいた。彼らにとっては、絵が美しいかどうかより、教会の名誉と規範が大切だった。
今見れば、何が問題なのか、わからない絵であるけれど、ここではマリアは聖母としてではなく、何の変哲もない市井の貧しい娘のなきがらとして描かれている。聖母マリアを神聖視しない作品など、教会にとってとんでもないことだった。教会はこの絵の受け取りを拒否した。
(一度だけ教会はこの絵を公開したが、その時はこのスキャンダル見たさに、黒山の人だかりができたそうだ)
その後、イタリアを訪れていたルーベンスは、この絵を大いに気に入り、マントヴァ侯のため買い取る。そして、マントヴァ侯→チャールズ1世→ルイ14世といったルートで、ルーヴル美術館に収まり、現在に至る。
(それにしても、外交官も兼任したエリート画家ルーベンスが、無頼の画家カラヴァジオの作品を買い取るというのは、興味深いと小暮氏は述べている)
(小暮、2003年、93頁~95頁)
カラヴァジオの最後
1608年5月、ゲームのもつれでカラヴァジオは、友人と乱闘になり、そのうちの一人を刺殺してしまう。おたずね者となったが、その才能を惜しむパトロンの庇護を受け、ローマから逃げナポリにわたり、その後マルタ、シチリアを転々とし、放浪生活をおくる。
だから、ナポリやシチリアには、その作品が多く残されている。それらの画面は闇が支配するようになり、心なしか、人を殺したことの悔恨があらわれていると小暮氏はみている。
ナポリでは多くの大作の注文があったのに、カラヴァジオはそれを捨てて、マルタ騎士団に入団する。
マルタ騎士団は、もともとは聖地エルサレムの巡礼救護と十字軍の戦闘を使命として出発した「ヨハネ騎士団」の後身である。1530年、神聖ローマ皇帝カール5世からマルタ島を譲渡させ、「マルタ騎士団」と改称した。
カラヴァジオは、修道士として1年ほど敬虔な生活を送っていたそうだが、この人の業か、すぐに高位の騎士と喧嘩して、投獄されてしまう。
最後は教皇の恩赦をもらうためローマに向かう途中、マラリアにかかり、38歳の短い生涯を終える。
絵に描いたような、破滅型人生の最後といえる。
(小暮、2003年、95頁~96頁)
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小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』