歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪小浜逸郎の小林秀雄論≫

2021-06-01 18:33:52 | 文章について
≪小浜逸郎の小林秀雄論≫
(2021年6月1日投稿)

【はじめに】


 これまで、作家の文章読本を取り上げて解説してきた。
 今回からは、小林秀雄論について述べてみたい。
 小林秀雄は、日本を代表する文芸批評家として知られている。
 これから、小林秀雄論を著した3人の論者の著作を紹介しつつ、小林秀雄の文章観、歴史観などを解説してみたい。
 その3人の論者と著作は次のものである。
〇小浜逸郎『日本の七大思想家』(幻冬舎新書、2012年)
〇饗庭孝男『小林秀雄とその時代』(小沢書店、1997年)
〇粟津則雄『小林秀雄論』(中央公論社、1981年)

今回のブログでは、小浜逸郎『日本の七大思想家』(幻冬舎新書、2012年)をもとに、小林秀雄論を考えてみる。
 小浜逸郎(こはまいつお)は、1947年生まれで、執筆当時、国士舘大学客員教授であった。



【小浜逸郎『日本の七大思想家』幻冬舎新書はこちらから】


小浜逸郎『日本の七大思想家丸山眞男/吉本隆明/時枝誠記/大森荘蔵/小林秀雄/和辻哲郎/福澤諭吉』 (幻冬舎新書)

【饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店はこちらから】

小林秀雄とその時代

【粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社はこちらから】

小林秀雄論 (1981年)








小浜逸郎『日本の七大思想家』(幻冬舎新書、2012年)
本書の目次は次のようになっている。
【目次】
序説 敗戦経験という基軸
第一章 丸山眞男 1914~1996
第二章 吉本隆明 1924~2012
第三章 時枝誠記 1900~1967
第四章 大森荘蔵 1921~1997
第五章 小林秀雄 1902~1983
第六章 和辻哲郎 1889~1960
第七章 福澤諭吉 1835~1901
あとがき
主要参考文献




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・小林秀雄(1902~1983)について
・小林秀雄の文章 小浜逸郎による解説
・小林の思想と文体
・小林秀雄の実存思想的な歴史観・生活観
・小林秀雄の「歴史」の捉え方~樫原修による解説
・小林秀雄とベルクソン
・小林秀雄の「実朝(實朝)」
・樫原修による「実朝」理解
・大森荘蔵の哲学の特徴
・時枝誠記の「詞辞」論について






小林秀雄(1902~1983)について


小浜逸郎は、思想家、批評家の小林秀雄を次のように規定している。

小林秀雄は、文学や芸術や私生活の価値に立てこもることによって、表街道の政治的・社会的喧騒のうちに現われる近代合理主義的・客観主義的「正論」から人間性(生活者の実存からにじみ出る声)を守ることに徹してきた思想家である。また、日本の近代文学における自然主義や私小説が西洋のそれの表層のみを学んで、その背後に長年にわたる近代社会との戦いを経てきた西洋の近代文学者たちの苦悩を理解しなかったことを、口を酸っぱくして説いてきた批評家である。
(小浜逸郎『日本の七大思想家』幻冬舎新書、2012年、329頁)

思想家と批評家としての小林秀雄を、小浜逸郎は次のように規定している。
〇小林秀雄は、近代合理主義的・客観主義的「正論」から人間性(生活者の実存からにじみ出る声)を守ることに徹してきた思想家である。
〇日本の近代文学における自然主義や私小説が、西洋の近代文学者たちの苦悩を理解しなかったことを、説いてきた批評家である。

また、江藤淳は力作『小林秀雄』の冒頭で、小林の仕事の特徴を次のように言い切っている。
≪小林秀雄以前に批評家がいなかったわけではない。しかし、彼以前に自覚的な批評家はいなかった。ここで「自覚的」というのは、批評という行為が彼自身の存在の問題として意識されている、というほどの意味である。≫

つまり、江藤は、小林秀雄を、批評行為を自分自身の存在の問題として意識した「自覚的批評家」として捉えた。
小浜逸郎は、この形容を言い換えている。
「人はどのように生きるべきか」という問題を、客観的な理論の体裁から遠くはなれて、実存という足場を一歩も踏み外さずに追究した「思想家」が、小林秀雄であるとする。
(小浜逸郎『日本の七大思想家』幻冬舎新書、2012年、279頁~280頁)



小林秀雄の文章 小浜逸郎による解説


小浜逸郎は、小林秀雄の文章の特徴について、次のように述べている。
「ところで、よく言われるように、彼の文章は一見、逆説に満ちていて通説を否定するような形式をとっていることが多く、その文体に不用意に接した読者にとっては、趣旨を正確に読み解くのに頭を悩ます種となっている。たしかに気楽に書かれた感想のたぐいを除いては、すらすらと流し読みできる平明な文体とは言いがたく、ことに若い頃の文章には、ひとつひとつの語彙や文脈の選択に相当な精力と時間を費やし、彫琢に彫琢を重ねていることがあらわなものが多い。いきおい読むほうも、肩に力を入れて行間を読み取ろうとする構えを強いられる。ある意味で難解な文体と呼んで誤りではないだろう」
(小浜逸郎『日本の七大思想家』幻冬舎新書、2012年、281頁)

箇条書きにまとめてみると、
〇小林の文章は一見、逆説に満ちていて通説を否定するような形式をとっていることが多い。
〇そのため読者には、趣旨を正確に読み解くのに頭を悩ます種となる。
〇すらすらと流し読みできる平明な文体とは言いがたく、ことに若い頃の文章は、そうである。
〇その頃の文章は、語彙や文脈の選択に神経を使い、彫琢を重ねているものが多い。
〇そのため、読者も、行間を読み取ろうとする構えを強いられる。
〇ある意味で難解な文体といえる。

このように、小林の文章は、逆説に満ちて通説を否定するような形式を取っており、趣旨を正確に読み解きにくく、ある意味では、難解な文体であるとされる。

小林はみずから書いている。
あるとき、小林の娘さんが試験問題を見せて、なんだかちっともわからない文章だと言うので、読んでみると、なるほど悪文なので、こんなもの、ただわかりませんと書いておけばいいのだと答えると、娘さんが笑い出し、この問題はお父さんの本からとったと教師が言ったというのである。
(「国語という大河」全集第9巻『私の人生観』所収)

※小林秀雄の言葉を拾い集めた簡便な本として、新潮社編『人生の鍛錬』(新潮社、2007年、179頁)にもあった。
【『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』はこちらから】

人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)

このエピソードは、いろいろな含みを持っていると小浜逸郎はみる。
①物書きという商売を長くやっていると、若い頃何をどんなふうに書いたかをけっこう忘れてしまうものだということ。
小林は遠い過去の自分の文章に執着するようなタイプの文筆家ではなかったようだ。
(「何を書いたか忘れてしまった」というような述懐にときおり出くわすことがある)
これは過去の自分に無頓着であり、ナルシシズムから自由であることを表している。
ただ、けっして言論人として無責任なのではない。むしろ逆に、いつ何を書いても本質的には変わらない自分という、一種の自己同一性に自信を持っている証拠なのであると小浜はみている。
小林は、この自己同一性に対する自信を背景にしながら、関心を持ったテーマにそのつど素手で取り組むことによって、全体として「ひとりの思想家」というある完結した像を期せずして表示している。
②もうひとつは、同じエッセイで小林自身が自己分析しているように、長い間物書きをやっているといろいろな文章ができあがってしまう理由のひとつは、分析し論難し主張することを旨とする「批評」という表現形式が、自分の文章を自在にあやつっているような錯覚を与えやすく、そのため自分の文章に関する自分の支配力を過信させることになるからだという。
じつは、自分で作る文章ほど、自分の自由にならないものはないことを、経験がいやおうなく教えた。書くことはいつまでたっても容易にはならないと、小林は内省している。
(こういう内省の仕方そのものにも、思想家としての小林の特質がよく出ていると小浜はみる。それは、文章表現に対する異様なほどの倫理感覚と美意識の現われである。また、一般に人々が生きる経験を積み重ねた果てに思い知る、「一番自由にならないものは自分自身だ」という感慨を、自分の職業に託して語っている。
(小浜逸郎『日本の七大思想家』幻冬舎新書、2012年、281頁~283頁)

小林の思想と文体



「思想と文体とは離すことはできない」(「私の人生観」)とは小林自身の言葉である。
小林の文章は、要約することの難しい文章である。ただ、だからこそ逆に、小林はその批評人生を通して何をやったかは、ほとんど数行で言い尽くすことができると小浜はみる。

すなわち、小林は、美しいものごとや感動的なものごと(ミューズやエロス)を味わおうとする人間の欲求が、私たち一人ひとりの現実的な生活にとって、どういう価値を占めているかを考え抜いた。そしてそのことを通して、近代の客観主義的な意識や言語の様式が、個別的・主体的な生の意味を見逃してしまう事態に徹底的に抗った。
このように、小林の態度を小浜は理解している。

この態度は言うまでもなく、最後の大作『本居宣長』にまで貫かれている。
小林は、その中で、彼自身の思いを宣長に託して述べている。
≪伝説の肉体は、極めて傷つき易く、少しでも分析的説明が加えられれば、堪えられず、これに化せられて歪むものだ。宣長が尊重したのは、そういう伝説の姿の敏感性であり、これを慎重に迎え、彼の所謂「上ツ代の正実(マコト)」が、内から光が差して来るように、現われてくるのを、忍耐強く待ったのであった。≫

要するに、小林は次のような確信を貫いたようである。
歴史や社会を客観的構造として把握する見方、人間をそのようなものによって規定されていると見る見方を根底から退けなければ、その日その日を取り返しがつかずに生きている実存者の内的感覚をけっして保存できないというものである。

小林にとっては、客観主義と「文学」、客観主義とそれぞれの「生活」は、両立できない絶対的な対立命題であった。
小林は、保守思想家でもなければ、芸術派なのでもない。またもちろん西欧的教養主義から日本的伝統主義に回帰したのでもない。小林は、「社会」とか「政治」とか大文字の「歴史」を中心と考える時代の支配的なイデオロギー(例えば、マルクス主義)に対して、身近な実存の意味を固守しようとした「抵抗者」なのである。
(もとよりそれは、個人主義などという「主義」ではない)

小林の表現には、一見人の意表をつくような逆説的レトリックが随所に見られるが、それはすべてこの身近な実存者たちの生の意味と価値を固守するというモチーフをいかに伝えるかにかかる渾身の苦労から出ていると小浜はみている。
小林の思想の根拠は、戦前や戦後を含んだ長い射程をもっており、どの時代に生きても同じ発想として出てくるような人間的な深みに根差している。それは、時代の変化に耐える、とても堅固な、強い思想であると小浜は捉えている。

小林の「抵抗」の方法は、政治的なものでもなければ、社会的なものでもなかった。文化という幅広く息の長い領域に最後まで立てこもることによって、それを果たした。その徹底性は比類がない。

小林は、文字どおりみずからの文体という「身」を言語空間に投げ出すことによって、その抵抗の正当性を確保しようとした。
小林の思想的抵抗は、世界についてのどんな客観的見取り図も与えなかったし、また社会の進歩についてのどんな指針も与えはしなかった。しかし小林の傑出した抗いの姿勢は、いわばひとつの「勇気」の型とも言うべきものを示したと小浜は捉えている。
それは、いかなる社会状況や時代状況の中にあっても、動揺せずに守り抜くべき人間的領域があるということを、いまも私たちに告知しつづけているとする。
(小浜逸郎『日本の七大思想家』幻冬舎新書、2012年、344頁~347頁)

小林秀雄の実存思想的な歴史観・生活観


小林の態度表明は、そのまま彼の実存思想的な歴史観・生活観につながる。
その時代の人たちが、未来の予見など叶わぬままに、いかに懸命に生きていたかという事実に思いを馳せずに、後知恵のさかしらから過去を裁断するような擬合理主義的な歴史観の持ち主こそ、小林がたえず批判して止まない「敵」であった。

小林は、日中戦争勃発からアメリカとの戦争に大敗するまで(1937~1945年)、主としてドストエフスキー論に打ち込むかたわら、「戦争について」(1937年)、「火野葦平『麦と兵隊』」(1938年)、「満州の印象」「歴史について」「事変と文学」「疑惑Ⅱ」(1939年)、「文学と自分」(1940年)、「歴史と文学」(1941年)、「戦争と平和」(1942年)などの重要論文を発表する。

その直後、1942年から1943年の、戦局が急を告げる期間、「当麻」に始まり、「実朝」に終わる古典論を集中的に執筆している。
この成り行きは、あたかも社会情勢の進行をにらみながら、計画的に筆を進めたかのように、暗示的である。
まだ余裕のある間に、力作ドストエフスキー論(生活論と、作品論の主なもの)を仕上げ、文学内部における批評の仕事に一定の決着をつける。
その後は、文学や生活と、歴史や戦争との関係にかかわる自前の論理をたたみかけるような調子で説いていく。
そして国民の厭戦気分と敗北と死の気配が濃厚になるに及んで、「もののあはれ」の伝統の復活に賭けるとでも言いたげに、一連の日本古典の呼び返しに心を費やす(ただし、「平家物語」だけは、その叙事詩性を強調してやや異質だとされる)。
最終の2年間の断筆の理由は、素材や動機の枯渇というよりは、逼迫した日常生活の切り開きに専心したからであろう。

ここで、小林の歴史観・生活観に最も端的に現われた実存思想の特質を炙り出してみよう。
これは、主として二つの題材をめぐって展開されると小浜はみている。

①ひとつは、1938年、小林も選考委員の一人だった芥川賞が、「糞尿譚」で名を馳せた庶民作家・火野葦平の「麦と兵隊」に与えられたときに書かれた「火野葦平『麦と兵隊』」、および1年後に書かれた「事変と文学」にまずよく現れている。
②実存思想家として小林の特質を表わす第二の題材は、一連の歴史観を表白した論考群の中に歴然と現れている。
(小浜逸郎『日本の七大思想家』幻冬舎新書、2012年、302頁~309頁)

小林秀雄の「歴史」の捉え方~樫原修による解説


樫原修は、『小林秀雄 批評という方法』(洋々社、2002年)において、小林秀雄の「歴史」の捉え方のあらましについて、考えている。

小林秀雄は、歴史を自然(物質)と人間(精神)の対比から説明していく。
<自然は人間には関係なく在るものだが、人間が作り出さなければ歴史はない。>というのが、その基本的な捉え方である。

自然は人間(精神)とは無関係に、独自の機制において在るものだとされている。少なくとも自然は、<これを一対象として僕等の精神から切離さなければ考へられないある物
>である。
そして、そういう自然に対応するのが、<自然科学的精神といふ人間の一能力>である。それは<人間臭を脱した「自然常数」の確立を目指さざるを得ない>ものだという。

一方、歴史はどうか。
<僕等は史料のない処に歴史を認め得ない>が、その<史料とは、その在るが儘の姿では、悉く物質である>。
確かに自然から見れば、史料と史料ならざるものを区別する理由は少しもないのだから、<其処に自然ではなく歴史を読むのは、無論僕等の能力如何にだけ関係する>ということになる。歴史はいわば人間の側にあることになる。

そのように<自然を人間化する能力は、言はば生き物が生き物を求める欲望に根ざす、本質的に曖昧な力>である。歴史とは<神話に他ならず、言い換へれば僕等の言葉によって支へられた世界>である。それは<史料の物質性によつて多かれ少なかれ限定を受けざるを得ない神話>だということになる。
したがって、そのような世界では、自然科学に対応するような、<歴史常数>の発見を目指す歴史科学といったものは、ありえないことになる。

小林は、<僕等の日常の生命が、いつも外物の抵抗を感じて生きてゐる>という、生のあり様とのアナロジーで史料と歴史の関係を考えている。
そこから、例の<さゝやかな遺品と深い悲しみとさへあれば、死児の顔を描くに事を欠かぬあの母親の技術>に<歴史に関する僕等の根本の智慧>があるという、有名になり批判の的になった言葉も生まれている。

史料から歴史を読むのは人間自身の能力によるという、問題の発端は理解しやすいはずだが、歴史が<神話>にほかならず、それに関する根本の智恵は<母親の技術>にあるといわれた時、とたんに違和感を覚えてしまう。なぜだろうか。
それは、物質と精神という二元論で小林が話を始めた時、われわれが実在とは物質として在ることだと無意識に前提しているからであると、樫原は述べている。

<愛児のさゝやかな遺品>を前にして母親の心に起こるものを、小林が<歴史事実>と呼ぶとき、小林がそれを<客観的なものでもなければ、主観的なものでもない>と断っているにもかかわらず、われわれはそれを主観的な心理的事実としか考えられないのであり、客観的な<歴史事実>は別に実在しているとしか思えない。

実際、それは<歴史事実>とはいっても、母親によって思い浮かべられたイメージにすぎないものである。実体としての過去そのものではないはずである。それはせいぜい実物の<写し>でしかない、と考える。(注3)

(注3)において、樫原は、大森荘蔵の論文を参照した旨を記している。
大森荘蔵「過去は消えず、過ぎゆくのみ」
(『流れとよどみ――哲学断章――』産業図書、昭和56年、参照)。以下の記述もこれに拠るという。
大森は、デカルト的二元論の構図自体を崩していく。それに対して小林は、その構図を踏襲して自説を展開していく。大森の考え方は、小林の歴史観を考える場合、示唆に富むと樫原はみている。
大森は、<過去は想起されることとそれを外挿することの中にのみ在る>ことを証明しているという。この証明は、小林の区別した歴史と自然をも一貫するものである。
小林の<直観>は、大森の提出する構図によってこそ、うまく説明し得ると、樫原は考えている。
(樫原修『小林秀雄 批評という方法』洋々社、2002年、161頁~163頁、180頁~181頁)

なお、小浜逸郎は、その著作の第四章において、この大森荘蔵という思想家を取り上げているので、後に紹介してみたい。

【樫原修『小林秀雄 批評という方法』はこちらから】

小林秀雄 批評という方法

小林秀雄とベルクソン


1939年に発表された『ドストエフスキイの生活』に「序」として組み込まれた「歴史について」という論考は、小林が戦中期に発表した一連の歴史観の表明の中で、白眉をなす。
死んだ息子に対する母親の愛こそが息子の死という事実を現前化し確実なものとするという「想起歴史観」とでも言うべき考え方をそのまま引き継いで、時間も歴史も人間の「思い」が作るのだという決定的な認識が語られる。
(ただし今度は「母親の愛」という言葉が、「母親の悲しみ」という言葉に変奏されて登場する)

≪子供が死んだという歴史上の一事件の掛替えの無さを、母親に保証するものは、彼女の悲しみの他はあるまい。どの様な場合でも、人間の理知は、物事の掛替えの無さというものに就いては、為す処を知らないからである。≫
また、戦後ほどなく発表された「私の人生観」という講演録には、次のような一節がある。
≪私達が、少年の日の楽しい思い出に耽る時、少年の日の希望は蘇り、私達は未来を目指して生きる。老人は思い出に生きるという。だが、彼が過去に賭けているものは、彼の余命という未来である。かくの如きが、時間というものの不思議であります。≫

ここには、人生に対する深い洞察と分ちがたく結びついた、時間、過去、現在、未来、生の感情、歴史などに関する独特な哲学が打ち立てられたことがわかる。
その哲学の独特さについて、小林の実存思想の嫡出子と、小浜は表現している。つまり、一人ひとりの人間の実存と離れたところに客観的・合理的な法則や尺度を立てて、それによって生存の不安から免れようとする態度に対する、明確なアンチテーゼを、小林は提示したという。

この小林の認識の基本要素として強調されているのは、日常を生きている私たち自身の中から必然的に発酵してゆく感情、思い出、希望、幸いを求める知恵、生きる悲しみといったものである。これらが、理知、合理、脳髄、実証といった西洋由来の概念にはっきりと対置されている。

小林は、自分でもしばしば言及しているように、若い頃、ベルクソンの哲学に大きな影響を受けた。
その影響の最たるものは、時間論と記憶論であると、小浜はみている。
ベルクソンによれば、カレンダーや年表のように直線状の点の連続としてイメージされた時間は、本来の時間ではなく、時間を空間的な比喩に転化して考えられたものにすぎない。
私たちは自分の精神の内部に「純粋持続」と呼ばれる、けっして空間に転移されない時間性をはらませており、それこそが私たち一人ひとりの生の実質を形作るようだ。
したがって、そこでは、記憶は蓄積された固形物などではなく、常に未来を目指す存在としての私たちにとって必要な限りで、呼び返される一種のダイナミックな作用そのものなのであるとされる。小林の歴史観、人生観の根本には、この考え方があるといわれる。ただし、それは、日本人にふさわしい仕方で、思い出、希望、感情、哀しみといったキーワードに変奏されたうえで結実している。

ところで、ベルクソンは、西洋では哲学史上、非合理主義的哲学者として分類され、傍流ということにされている。
西洋哲学の「主流」なるものは、たとえば、デカルト→ロック→ヒューム→カント→ヘーゲルである。ただ、その「主流」も、分岐と乱立を繰り返して、現代では、何が主流なのか混沌としている。
そうである以上、生の非合理性をそのまま哲学として掬い上げたベルクソンのような人が依然として一定の地歩を固めて、その力をいまに伝えて、小林のような日本人に独創的な思想を編ませる原動力のひとつとなっていると、小浜は理解している。

小林は、「過去」についてどのように考えていたのであろうか。
この点、哲学者・大森荘蔵(おおもりしょうぞう、1921―1997)の「過去」観と、小林とのそれを比較して、小浜は次のように述べている。

大森によれば、過去は、「制作」されたものであることによって、知覚に取り巻かれた現在とは本質的にその様相を異にする。しかしそれは、まさに「もはやない」という形で、「いまここ」に現存する。
この点では、小林の「歴史事実はかつてそれが在ったというだけでは足りず、いまもなおその出来事が在る事が感じられなければ歴史事実としての意味はない」(「歴史について」)という考え方と深く共通するものを持っている。

しかし、大森は、「制作」されたものとしての過去をもっぱら言語命題による想起にもとづく「過去形の経験」とすることによって、「像」としての過去の現前を排除しようとしていたそうだ。

小浜は、この大森の見解に異議を唱える。
小林のように、「思い出」による現前化、事実化としてそれを捉えれば、「知覚対言語」という乾いた二項対立論理による不備は取り除かれ、新しく過去や歴史という概念が、私たち一人ひとりの生にとって、新しいものとして総合化されることになるとする。
そして、歴史に対してそういう態度を私たちが忘れないことによって、生き生きとした現存性を備えた過去や歴史を手元に還帰させることが可能となると、小浜は考えている。
(小浜逸郎『日本の七大思想家』幻冬舎新書、2012年、320頁~324頁)

小林秀雄の「実朝(實朝)」


「實朝」は、六篇の最後に当たる。
それは、あの実力をもって権威をやすやすと否定する関東武士たちの陰惨な世界への想像力が、限りなくよく届いた力作・傑作である。

小林秀雄と吉本隆明の実朝論を比較した場合、次のような相違があるとされる。
小林の場合、実朝に対する深い哀しみの共感によって彩られている。それに対して、吉本の実朝論は、それともやや違って、ある種の非情な突き放しを媒介としながら、かえってそのような批評方法によって、もはや事実を事実どおりに歌うほかないところにまで追い詰められた実朝の心の特異な様相を鮮やかに炙り出しているという。

また、そこには、文学を論ずることに徹する小林と、文学と社会との両方を重ね合わせるように論じずにはいられない吉本との二つの個性の違いが際立っているとも考えられている。

もちろん小林も、吉本が追いかけたような実朝の運命的な場所について、主として『吾妻鏡』を援用しながら、かなり緻密に記述してはいる。
しかしその関心は吉本に比べると、やはり実朝自身のより身近な周囲の不気味な動きをたどるところに限定されている。
吉本の実朝論のような社会的・客観的分析の要素は省かれている。つまり、吉本の場合、実朝の名歌の生まれる所以を、現実の歴史と、万葉以来の歌の歴史という二つの側面から捉えようとしている。それに対して、小林はいわばもっと直接に、悲運の実朝という個人の「側近」になることによって解き明かそうとしていると、小浜は解説している。

そこで、小林が、どのように叙述しているのか、具体的にみておく。
まず『吾妻鏡』の中に実朝の辞世として掲げられている歌、
「出ていなば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春をわするな」について、
『吾妻鏡』の作者の稚拙な創作という説を認めながらも、そこには、作者が、実朝暗殺という不気味で象徴的な事件に対しておぼえた罪悪感めいたものが漂っているとする。
そして北条義時のためにしたはずの曲筆が、かえって実朝のためにした潤色となり終わっていると、小林は指摘している。
この指摘は、兄・頼家の横死や、唯一残された「貴種」の死による血統の断絶という前後の事情を考えると、いかにも説得力がある。

実朝は頼家の死に12歳のときに出会い、しかも自分を中心とする周囲の武士たちの血なまぐさい権力争いを目の当たりにしている。聡明で敏感な彼が早くから自分の運命を予感していたと考えるのは当然で、小林もそのことを前提として鑑賞している。吉本と同じように、「万葉調の雄々しさ、おおらかさ」という真淵、子規以来の俗説を否定し、実朝が残した数少ない秀歌に、「真率で切実な、独特な悲調」を読み込んでいる。

例えば、
「大海の磯もとゞろによする波われてくだけてさけて散るかも」
これは、分析的な歌であり、少しも壮快な万葉調の歌ではないと、評している。「青年の殆ど生理的とも言いたい様な憂悶を感じないであろうか」という鑑賞の仕方をしている。
小林の独特な鑑賞眼のあり方がうかがいしれる。

こうした一見逆説的な評言が当たっているか外れているかよりも、重要なことがあると、小浜はいう。それは、このような批評によって、小林が、実朝という年少のままに折れてしまった歌人(『金槐和歌集』に収められた歌の大部分は22歳以前の作であり、実朝の死は27歳であるから、22歳以降の歌は散逸してしまったと考えられている)に、何を見、それによってみずからの批評の方向をどこにもっていこうとしているのかを考えてみることであるとする。

『金槐和歌集』およそ700首は、当時の慣例にならって、春夏秋冬の題詠の部分、恋部、および雑部とに分類されている。小浜によれば、雑部に名歌が多く、特に秀歌と呼ぶべきものは、雑部の終わりに近づくほど集中して現われているそうだ。これに対して、春夏秋冬の部分では平凡な駄作あるいは習作ともいうべき歌が多い。

小林も無意識のうちに、そういう印象を抱いたと推測している。
悲運を確実に予知した者が、少年期から青年前期に至るプロセスの中で、限られたみずからの生のリズムとテンポに次第に衝迫を加えてゆく。

最終地点に近づいた頃、歌い上げられている心はどのような性格を帯びるだろうかという問いに、小林は、次のような回答を暗示させていると、小浜はみている。
「才能は玩弄する事も出来るが、どんな意識家も天稟には引摺られて行くだけだ。平凡な処世にも適さぬ様な持って生れた無垢な心が、物心ともに紛糾を極めた乱世の間に、実朝を引き摺って行く様を僕は思い描く。彼には、凡そ武装というものがない。歴史の混濁した陰気な風が、はだけた儘の彼の胸を吹き抜ける。これに対し彼は何らの術策も空想せず、
どのような思想も案出しなかった。(中略)彼の歌は、彼の天稟の開放に他ならず、言葉は、殆ど後からそれに追い縋る様に見える。その叫びは悲しいが、訴えるのでもなく求めるのでもない。感傷もなく、邪念も交えず透き通っている。」

小浜は、小林の「実朝」の、この評言を名文といってよいだろうと評している。
(この文章のトーンに、あの真珠湾攻撃を遂行した爆撃機上の兵士たちの心境について書かれた文章を小浜は連想している)

死の予感は、心の奥深くにすでに幾重にも折り畳まれてある。だから、「感傷もなく、邪念も交えず透き通っている」という点において共通している。

「実朝」最終回は、1943年6月に発表されている。
すでに日本の敗色は濃厚となり、ガダルカナル撤退後、同年4月には山本五十六が戦死し(5月発表)、5月にはアッツ島の玉砕によって守備隊が全滅する。
そんな時期に書かれたこの秀作「実朝」は、いわば次々に死んでいく日本兵たちに対する早すぎる鎮魂歌のような趣さえある。同時代の若い日本兵と700年前の一人の「少年歌人」とが期せずして結びついていると、小浜はみる。
(小浜逸郎『日本の七大思想家』幻冬舎新書、2012年、338頁~344頁)

樫原修による「実朝」理解


「実朝」で小林は、実朝を自然の必然性、あるいは第二の自然と化した歴史の必然性に、徹底して翻弄される人物として描いている。
実朝の精神の領域は、いわゆる認識とは無関係な<魂>に求められ、現実的にはまったく無力なものとされている。
(そこに、自然の必然性を徹底して受けれた小林の現実観との共通性もみられる)

そういう人物だからこそ<観察家にも理論家にも行動家にも>見えない、動かしようのない自然、あるいは第二の自然としての歴史に、彼は直面し得たとする。

その場所に実朝の歌の源泉があり、そこから直に歌は生まれてきたと、小林はいう。
小林は、多くの自己ならざるものに埋没して生きるわれわれの生から実朝を引き離し、最も純化された生の原型として実朝の生を描いている。

実朝の歌に関しては、<自分の深い無邪気さの底から十余りの玉を得たのだが、恐らく彼の垂鉛が其処までとゞいてゐたわけではなかつた>というように、<魂>において経験され、自らも明らかに認識しなかった生の意味のすべてが、わずか十数首の秀歌に凝縮されたと考える。

例えば、小林は次のように述べている。
「  箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ
この所謂万葉調と言はれる彼の有名な歌を、僕は大変悲しい歌と読む。(中略)
大きく開けた伊豆の海があり、その中に遥かに小さな島が見え、又その中に更に小さく白い波が寄せ、又その先きに自分の心の形が見えて来るといふ風に歌は動いてゐる。かういふ心に一物も貯へぬ秀抜な叙景が、自ら示す物の見え方といふものは、この作者の資質の内省と分析との動かし難い傾向を暗示してゐる様に思はれてならぬ。」

<言絶えた>自然に、直に向き合う<心に一物も貯へぬ>精神の存在が示され、一個の精神の最も本質的な姿が、さながらに表現されている。

(樫原修『小林秀雄 批評という方法』洋々社、2002年、177頁~179頁)
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小林秀雄 批評という方法

大森荘蔵の哲学の特徴


小浜逸郎も、目次をみてもわかるように、その著作の第四章において、大森荘蔵(1921~1997)の哲学を解説している(212頁~278頁)。簡単に紹介しておこう。

大森哲学の主題は、西洋においてガリレイ、デカルト以来、主観客観図式による二元的な認識論的「誤謬」が定着し、現代の自然科学(ことに生理学)もまたこの「誤謬」図式の延長上にある事態に対して、徹底的な破壊と代案の提示を目論むところにあるという。
つまり、大森の目論みは、世界を客観(「死物」)と主観(閉ざされた「心」)とに分割したガリレイ、デカルト以来の世界構図を根本から破砕し、代わって「心」を広い外部世界のほうに再び還帰させるという同時に、これまで死物化されて捉えられていた「物」の世界に活き活きとした様相を取り戻させてやるというところにある。

大森哲学は、この世界がどうなっているかを極めようとする情熱のみによって成り立っていると、小浜は理解している。大森の文章は、一般に日常的なわかりやすい言葉で説かれており、豊富な実例と的確な比喩に満ち、その問題意識の所在も明瞭であるようだ。

大森は、ガリレイやデカルトの提出した主客二元論図式に対して、ジョージ・バークリ(18世紀のアイルランドの哲学者)の論に依拠しているそうだ。バークリには、「存在は知覚なり」という有名なテーゼがある。ヒュームは、バークリのこの考えを受け継ぎ、デカルトの二元論はその内部に懐疑論、不可知論を内包していることを指摘した。

大森は、このバークリやヒュームのデカルト・ロック批判を土台として、デカルトがおこなった「外的対象」(延長実体)と、「心」のうちに取り込まれた「感覚」「印象」との分離こそ、主客二元論の犯した最大の誤りであるとした。そして、その「罪状」は現代の自然科学の発想をも深く規定していると、議論を発展させた。

大森は、次のようなことを説く。
一般には、「心」の現象と考えられている感情や記憶や想像や幻覚において、それらが「心の内」に存在するのでもなく、またそれらを引き起こす実物からの作用としての「影」でも「像」でも「コピー」でもなく、じかにそのもの自体がそのあるべき場所、あったはずの時間において、現在知覚しているものと同資格、同一身分で立ち現われるのであって、ただ知覚と異なるのは、それらの存在の様式が異なっているだけである。

たとえば記憶においては、過去にあったことがらのコピー(記憶像)が「心の中」に出現しているのではなく、知覚の様式とは異なる「想起」という様式において、過去のことがら自体がじかに、そのことがらの起きた時間と場所(つまり世界の中)に立ち現われている。
またたとえばデカルトが感覚が誤りやすい例として挙げた、「遠くから見たら丸い塔だと思ったものが、近づいてみたら四角い塔だった」という話や、蜃気楼がじつは幻であって、実物は地平線下のもっとはるかに遠いところにある例などは、視覚現象それ自体としてはいわゆる「本物」の立ち現われと等価であって、いささかもそのリアルさにおいて劣るものではない、とする。

この(常識に逆らう)主張は「立ち現われ一元論」と通称される。
これもまた「物」と「心」の二元論をいかに克服するかという大森の動機と関心に根ざしている。常識を覆そうとするその筆致は、執拗である。

大森によれば、記憶をよみがえらせてそのことについて語る場合に起きていることは、そこには言葉によるただひとつの立ち現われがあるのみであって、記憶像(過去において経験された事実のコピー)のような仲介物は必要なく、また「想起」とは過去の知覚経験の再現または再生ではなく、徹頭徹尾、言語的命題であるという。
(小浜逸郎『日本の七大思想家』幻冬舎新書、2012年、212頁~261頁)

時枝誠記の「詞辞」論について


時枝誠記は、日本語文法の特性を理論化して、「詞辞」論を唱えた。
日本語の文は、「詞」と「辞」の区別とその連関によって成り立っている。
この事実は、時枝の独創的な発見というわけではない。宣長、春庭、富士谷成章、鈴木朖らの「てにをは」論によって、気づかれ指摘されていた。
たとえば、宣長は、「詞」を玉に、「辞」を玉につなぐ緒にたとえて、両者相まって日本語(やまとことば)の文が成立すると説いた。
たとえとしては最高級の表現であり、詞と辞の区別とそれぞれの特徴に見事に的中している。

時枝誠記は、『国語学原論』において、「詞」と「辞」について、次のように定義している。
①「詞」~概念過程を含む形式
②「辞」~概念過程を含まぬ形式

①は、表現の素材を、一旦客体化し、概念化して、これを音声によって表現する。「山」「川」「犬」「走る」等がこれである。又、主観的な感情のごときものを客体化し、概念化するならば、「嬉し」「悲し」「喜ぶ」「怒る」などと表わすことが出来る。
②は、観念内容の概念化されない、客体化されない直接的な表現である。助詞、助動詞、感動詞の如きがこれに入る。
たとえば、「川が流れています」という文では、「川」「流れ」「い」は「詞」であり、「が」「て」「ます」は「辞」である。
(小浜逸郎『日本の七大思想家』幻冬舎新書、2012年、177頁~179頁)

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小浜逸郎『日本の七大思想家丸山眞男/吉本隆明/時枝誠記/大森荘蔵/小林秀雄/和辻哲郎/福澤諭吉』 (幻冬舎新書)



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