歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪囲碁の格言について≫

2021-07-01 18:02:48 | 囲碁の話
≪囲碁の格言について≫
(2021年7月1日投稿)

【はじめに】


 数年前より、囲碁に興味を持つようになった。
 囲碁は、ルールが単純だが、難しい知的な陣取りゲームである。
 囲碁は自由度が高く、何をどう考えて、どこに石を打てばいいのか、わからないところに、難しい理由がある。その際に、囲碁の格言が役立つ。格言こそは、先人たちの経験の集大成である。これを活用しない手はない。
 今回から、数回にわたり、囲碁の格言にまつわる本を紹介してみたい。



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・石田芳夫『目で解く上達囲碁格言』の「はじめに」
・格言の表と裏
・石田芳夫氏によるケイマの格言
・清成哲也『清成哲也の実戦に役立つ格言上達法』の構成
・清成哲也九段が提唱した「模様の接点を探せ」という格言
・戦いのテクニックとしての「攻める石にツケるな」
・天王山を逃すな
・いまもすたらぬ一、三、五~秀策のコスミ
・『囲碁・将棋100の金言』の「 運の芸と知るべし」
・サバキ許さぬブラ下がり
・藤沢秀行氏の言葉
・九仞の功を一簣に欠く ――地中に手あり――







石田芳夫『目で解く上達囲碁格言』の「はじめに」


「はじめに」において、石田芳夫氏は次のようなことを記している。
格言は、碁のテクニックを支える一つの指針である。碁を打つ人が最初に覚える格言の一つに、たとえば「シチョウ知らずに碁を打つな」という格言がある。
仲間同士で打ち、シチョウを間違えたりすると持ち出されるのがこの格言である。じつはこの格言、奥行きの深さがある。シチョウは、石取りの基本で、石をジグザグに追い、対角線上でつかまえるものである。この形から枝葉が伸び、ゲタ、オイオトシ、グルグル回しなどの手筋が生じてくる。つまり、石取りの基本であるとともに原点でもある。このように、格言を実戦に生かすことが大切で、上達には欠かせない要素である。

また「左右同形中央に手あり」という格言もある。碁というゲームがもつ幾何学的な形の一つの特色であるが、左右同形が現れると奇妙に中央に急所が生じることをいったものである(もっとも、すべてがそうではないが、実戦においては、この格言がヒントになるケースが少なくないものである)。

本書では、格言の中でも、とくに重要、そして実戦に役立つと思われるものを集め、これまでの格言の本と構成を変え、問題形式にして提起してある。格言の羅列では意味がないので、問題を見ながら、“この局面では、どの格言を、どのように生かすか”ということを考えながら、解いてもらうという方針にしてある。
(石田芳夫『目で解く上達囲碁格言』誠文堂新光社、1986年[1993年版]、3頁~5頁)

【石田芳夫『目で解く上達囲碁格言』誠文堂新光社はこちらから】


目で解く上達囲碁格言

格言の表と裏


碁には、いろいろな格言があるが、格言には裏と表があり、例外があるのも常識である。
例えば、「キッたほう取れ」は一つの真理だが、この格言には裏と表があり、それをめぐるかけひきにおもしろい味がある。
だが、ただひとつ、例外のないのが、「厚味に近るな」である。金言といってもいいでしょうと石田芳夫氏はいう。
意外とこの格言に深い関心をもっていないのが、初級者共通の傾向である。この格言の周囲には、生きた死んだの血なまぐさいイメージが少ないから、いつのまにか碁が悪くなっていることがある。それは、この格言を無視したときに生じるトラブルであるというのである。
(石田芳夫『目で解く上達囲碁格言』誠文堂新光社、1986年[1993年版]、28頁~30頁)

石田芳夫氏によるケイマの格言


石田芳夫氏は、ケイマの格言について、いろいろなものがあると説く。
たとえば、
〇ケイマのツキアタリ
〇ケイマのツキダシ
⇒この二つは、初歩的な悪手のサンプルである。
(レドモンド先生は、「ケイマのツキアタリ」については言及していないが、「ケイマのツキダシ」には、「No.44 ケイマのツキダシ俗手の見本」で言及している)

また、
〇ケイマにツケコシ
〇ツケコシ切るべからず
⇒これらは絶対とはいえないが、ケイマにまつわる手筋とその心得である。
(レドモンド先生も「No.43 ケイマにツケコシ」「No.45 ツケコシ切るべからず」で言及している)

そして、実戦へのアドバイスになる格言としては、次のケイマの格言を挙げている。
〇攻めはケイマ、逃げるは一間
(レドモンド先生も「No.20 攻めはケイマ」「No.24 逃げるは一間」で、それぞれ解説している)

☆石田芳夫氏は、「ケイマのツキアタリ」というケイマの格言に関連して、次のような問題を出している。
【第90題 [黒先] 基本型】
≪棋譜≫
・白にハネられたところ。ある基本型ですがどう打ちますか。
棋譜再生

【失敗図(ツキアタリ)】
≪棋譜≫
棋譜再生
・黒1が、ケイマのツキアタリという初級ミス。
・黒3、白4までは断点が多く形もわるい。これは厚味とはいえない。

【正解図(ツギ)】
≪棋譜≫
棋譜再生
・だまって黒1とツグのが厚い本手。こうして白の応手をきくものである。
・黒1に白2なら、黒3とツケて、根拠を確保するのが、常用手段。
⇒このあと、黒は、上辺あるいは右辺からのハサミを見合いにする
(石田芳夫『目で解く上達囲碁格言』誠文堂新光社、1986年[1993年版]、159頁~160頁)

清成哲也『清成哲也の実戦に役立つ格言上達法』の構成


清成哲也『清成哲也の実戦に役立つ格言上達法』(日本放送出版協会、1993年)も、囲碁の格言について論じている。
この本の構成は、基礎編、序盤編、中盤編、終盤とコウ編の4章から成り、各章、ⅡからⅣ節に分かれ、各節4つの格言を記す。

清成氏は「まえがき」において、アマチュアの2つの質問について言及している。
①「どうしたら碁は強くなりますか」
②「何手位まで読むことができますか」
この2つの質問に対する、清成氏の回答はこうである。
まず②の質問に対して、どこまで先を読むことができるかが、碁の強さの目安だと思っているアマチュアが多い。確かにそれも少しはあるが、実戦で必要なのは「読む力」ではなく、「読まない力」だという。序盤、中盤はとくに読むことよりも見た目で判断することを求められる場合が多い。逆に、いろいろ考え過ぎて、素直な伸び伸びした手が打てなくなることは、プロでもあるという。
 そして①の質問に対しては
1 実戦を積むこと
2 プロの実戦を並べてみること
3 詰碁をすること
などと答えていたが、清成はアマチュアの人の碁を見たり、対局したりして、碁の基本になる考え方を身につければ、飛躍的な上達も夢ではないと感じてきたそうだ。
そこで思いついたのが、「格言上達法」である。格言には、碁の考え方や急所を端的に表わした優秀なものが多い。それにオリジナル格言を加え、棋理や碁の筋をできるかぎり、わかりやすく理解してもらうために、本書を執筆したという
(清成哲也『清成哲也の実戦に役立つ格言上達法』日本放送出版協会、1993年[1995年版]、2~3頁)

清成哲也九段が提唱した「模様の接点を探せ」という格言


「第3章 中盤編」の「Ⅰ平面より立体」「2模様の接点を探せ」において、清成哲也九段は、模様について、次のように述べている。

“接点打法”という明解な碁の考え方を、苑田勇一九段(清成九段と同じ関西棋院に所属する先輩)が提唱したそうだ。
「序盤から最終盤に至るまで、碁には白黒互いにシノギを削り合っている接点というものがある。そこを探して打つべし」という説である。
その接点ということばを借りて、清成九段は「模様の接点を探せ」という格言をつくったという。
模様の接点を探して、そこを先占すれば、本節のテーマ「平面的でなく立体化を図れ」にかなうことができるとする。

【模様の接点の例】
≪棋譜≫
棋譜再生

・後手番の白が、天元を中心点として対称のところを占めていけば、上図のような碁形が生じる。
⇒ある一面で、上図のマネ碁は、碁の本質を鋭くついているらしい。
というのも、碁は本来見合いの芸であり、相手と等しい(似たような)価値の手を打っておけば、そう形勢は離れないからであるという。このマネ碁の場合、大模様対大模様の碁となる。

★さて、どこが模様の接点だろうか?
〇正解は、黒1と天元へ打つ見当である。
黒1は、白模様を制限し、黒模様をより広げるバランスのとれた一点である。

・黒1に対して、白2と模様に入ってきた。囲い合いでは不利と見たのにちがいない。
・黒は主導権を握って、黒1、3、7と中央を制圧した。
(こうなれば、白模様への踏み込みはフリーパスである)

≪整理≫
・黒の模様はいくらか小さくなるものの、強化され、地に近づく。他方、白模様は知らないうちに消されていく。
・模様は地ではない。むしろ相手にどこかに入ってきてもらって、それを攻めることによって、地に変えていくものである。
・「模様の接点」は、全局的な必争点、急場といってもよいとする。
(清成哲也『清成哲也の実戦に役立つ格言上達法』日本放送出版協会、1993年[1995年版]、112~114頁)

戦いのテクニックとしての「攻める石にツケるな」


【ツケノビ定石~お互い丈夫に】
≪棋譜≫
棋譜再生

・「ツケにはハネよ」というわけで、黒1のツケに白2と応じれば白6まで。
⇒ご存じのツケノビ定石になる。お互いに丈夫な形になっている。

【お互いに固まっていない互角の応接】
≪棋譜≫
棋譜再生

・前図のツケノビ定石とくらべてみると、お互いあまり固まっていないことが見てとれる。

※ツケとは、お互いに強くなることを求めた手段であるといえる。
⇒「ツケは相手も強くするけれど、自分が強くなりたいときに打つ手である」

【ツケにはハネよの場合】
≪棋譜≫
棋譜再生

・白がハネても心配がないことを確かめておく。
・白10までちゃんと切ってきた石を取れる。

【ハネられない場合】
≪棋譜≫
棋譜再生

・たとえば、ツケた黒1のケイマの位置に、もう一子黒がすでにあるとき、一転して黒1のツケは威力のある手に変わる。
・その理由は、「ツケにはハネよ」と行けないから。

(清成哲也『清成哲也の実戦に役立つ格言上達法』日本放送出版協会、1993年[1995年版]、160頁~161頁)

【清成哲也『清成哲也の実戦に役立つ格言上達法』はこちらから】

清成哲也の実戦に役立つ格言上達法 (NHK囲碁シリーズ)

天王山を逃すな


「天王山を逃すな」について、『新・早わかり格言小事典 役に立つ囲碁の法則』(日本棋院、1994年[2007年版])で言及されている。

お互いの勢力の消長に関するところ、双方の模様の接点を「天王山」と呼ぶ。つまり、「ゆずってならない模様の争点」をいう。

☆例を示そう。
1図、2図とも、黒1がともに逃せぬ天王山。
⇒白石に置き換えてみれば、その価値がわかる。

【1図】
≪棋譜≫
棋譜再生
【2図】
≪棋譜≫
棋譜再生

(工藤紀夫『新・早わかり格言小事典 役に立つ囲碁の法則』日本棋院、1994年[2007年版]、171頁、222頁)

【『新・早わかり格言小事典 役に立つ囲碁の法則』日本棋院はこちらから】

新 早わかり格言小事典―役に立つ囲碁の法則

「両ケイ逃がすべからず」=「天王山を逃すな」とも考えられている。
天王山は、羽柴秀吉が明智光秀を打ち破った山崎の戦いが行なわれた場所である。京都府にある標高270メートルの小高い山で、軽装で山頂までハイキングがてらに登る人も多いそうだ。近くには千利休の茶室で知られる妙喜庵がある。当時は守るにやすく攻めるに難い山だった。これを占拠した秀吉の軍が、地理的に不利な光秀の軍を打ち破った。
両ケイとは、黒から打っても白から打っても、ちょうど将棋の「桂」が飛んだ位置であり、模様を広げる好点である。両ケイの天王山に先に打って羽柴軍になりたいものだ。
≪棋譜≫
棋譜再生
・上図で、A(14十三)が両ケイの天王山にあたる。

(蝶谷初男・湯川恵子『囲碁・将棋100の金言』祥伝社新書、2006年、174頁~175頁)

【蝶谷初男・湯川恵子『囲碁・将棋100の金言』祥伝社新書はこちらから】


囲碁・将棋100の金言 (祥伝社新書 (033))

いまもすたらぬ一、三、五~秀策のコスミ


『新・早わかり格言小事典 役に立つ囲碁の法則』(日本棋院、1994年[2007年版])にも「秀策のコスミ 」について言及されている。
「いまもすたらぬ一、三、五」(40頁)「序盤のコスミは良着」(107頁)がそれである。

【秀策のコスミ】
≪棋譜≫
棋譜再生
・黒1小目、3小目、5小目といった具合に、風車のように黒は小目を占めた。
 本因坊秀策(1829~1862)がこの手法で連戦連勝を重ねたところから、この黒1、3、5を「秀策流」と呼ぶ。
向きは、この小目でなければならない。
布石の一、三、五と呼べば、通常この「秀策流」を指すようだ。
⇒つづいて白6のカカリに黒7のコスミが秀策自慢の手で、「秀策のコスミ 」と呼ばれる。
※なお、ご覧のように、秀策流一、三、五は、白が4で左下に向かえば実現しない。
白が4とカカってくれることが前提となるようだ。

・また、「序盤のコスミは良着」という格言もある。
(あるいは「秀策のコスミ 」を言ったものかとする)
ただ、序盤のコスミでも、良着もあれば愚着もある。強いていえば、序盤の、位を保つコスミには良着が多いといえる。
(工藤紀夫『新・早わかり格言小事典 役に立つ囲碁の法則』日本棋院、1994年[2007年版]、40頁、107頁)

秀策といえば、人気マンガ『ヒカルの碁』にも登場していた。

それは、マンガ雑誌『週刊少年ジャンプ』に連載された。原作ほったゆみ、漫画小畑健、監修梅沢由香里の諸氏で、集英社から出版された。単行本は平成14年[2002]12月現在で19巻まで出て、合わせて1900万部の売り上げ。テレビアニメにもなって人気を博した。

ヒカル少年がひょんなきっかけから、平安時代の天才棋士の霊に取り憑かれて、半ば強制的に碁を始めさせられるが、霊の特訓によってどんどん進歩し、そのうちたいへんな才能の持ち主と分かり、すばらしいライバルにも恵まれて、将来を嘱望されるプロ棋士へと成長していく物語である。

このマンガは筋立てがたいへんうまくできていて、碁好きな人なら、思わず引き込まれてしまう。つまり原作者のほったゆみ氏のアイディアがよかったようだ。
平安時代の囲碁の名手、藤原佐為(ふじわらのさい)の亡霊が少年ヒカルに乗り移り、佐為の影響でヒカルが次第に碁に目覚めていく。
佐為はかつて江戸時代の棋聖とうたわれた秀策に乗り移っていて、じつは秀策は凡人で、その碁は完全に佐為が打ったものだったという設定になっている。
(この辺は、秀策のファンが怒りはしないかと林氏は心配している)
(林道義『囲碁心理の謎を解く』文春新書、2003年、12頁~15頁)

【林道義『囲碁心理の謎を解く』文春新書はこちらから】

囲碁心理の謎を解く (文春新書)

【『ヒカルの碁』はこちらから】

ヒカルの碁 全23巻完結セット (ジャンプ・コミックス)

『囲碁・将棋100の金言』の「 運の芸と知るべし」


碁とは何か。
蝶谷初男・湯川恵子『囲碁・将棋100の金言』(祥伝社新書、2006年)において、「No.1 運の芸と知るべし」において、古今東西の名言を、湯川恵子氏は紹介している。
〇「碁は技術です」(全盛期の呉清源)
〇「碁は六合(りくごう)の調和です」(その後の呉清源)
〇「さながら兵法に似たるぞかし」(本因坊秀栄)
〇「碁の勝負とは、辛抱比べ」(林海峰)
〇「麻雀が偶然性の先どりなら、碁は必然性の先どりだ」(趙治勲)
〇早稲田大学の創始者、大隈重信の語録に次のようなものがある。
「将棋は戦いだが、碁は経済である」
〇国籍謎の推理作家トレヴェニアンは作品『SIBUMI』の主人公にこう言わせた。
「チェス? あれは商人のゲームだが、碁は哲学者のゲームだ」
〇江戸時代の家元、十一世・井上因碩(いんせき、幻庵)が残した言葉は、負けてばかりの初心者にとってもホッとできるものかもしれないとして、次の名言を残している。
「諸君子、碁は運の芸と知りたまえ」

平たく言えば、碁は、白黒の石で争う地取りゲームである。点に打った石がつながって線を描き、線で囲った面が地になる。
(蝶谷初男・湯川恵子『囲碁・将棋100の金言』祥伝社新書、2006年、130頁~131頁)

サバキ許さぬブラ下がり


サバキは、いわば、あなた任せの感覚で、相手の対応を見ながら変化するものだそうだ。
ブラ下がりとは、相手がツケやノゾキを種にして変化したがっているところを事前に封じる、部分的な手段であるという。
(玄関のドアをノックされる前に門前払いするような、あるいは交渉のテーブルにつく前に、「NO!」とはねつけるような手段であると、喩えている)

そこで、ブラ下がりの実戦例をひいている。
それは、嘉永6年(1853)のお城碁、本因坊秀策と安井算知(黒)の一戦である。
≪棋譜≫
棋譜再生
・白1の打ち込みに対し、黒2がサバキを許さぬブラ下がり。
⇒白1は隅のほうへ、スベリやツケやノゾキなどのサバキを狙った手。それを黒2のブラ下がりが断固拒否した。
・以下、黒10までの手順は、右辺の白にモタレつつ、また上辺の白への攻めを狙いつつ、黒は下辺から中央の模様を広げて、絶好調の展開。

江戸城の御前でお城碁が行われていた時代は、有名な本因坊家の他に、安井家、林家、井上家と、碁どころ四家が活躍した。
(名人位にまつわる争いやそれぞれの家の跡目をめぐる子供の交換など、さまざまな歴史がある)
☆上図の黒2のブラ下がり、安井家が本因坊家に断固、NOと言ったところか、と湯川恵子氏は表現している。
(蝶谷初男・湯川恵子『囲碁・将棋100の金言』祥伝社新書、2006年、172頁~173頁)

藤沢秀行氏の言葉


名人・藤沢秀行氏は、「はしがき」を次にように書き始めている。
「囲碁は人生の縮図といわれます。その理由は、囲碁の考え方が人生にそのままあてはまり、人生の格言がそのまま囲碁にもあてはまるからでしょう。
人生もその人の心構えが一生を支配するように、囲碁もまた、その考え方ひとつで2、3級はただちに上達するものです。」(1頁)

藤沢氏によれば、囲碁は人生の縮図であるという。
だから、この本に収められた格言も、他の本と比べたら異色である。というのは、「人生の格言がそのまま囲碁にもあてはまる」という信条からか、次のような、普通の格言や処世訓が【もくじ】に登場する。
・腹八分目に医者いらず ――両ガカリとデギリ―
・負けるが勝ち ――捨て石の活用――
・安物買いの銭失い ――軽い石をとるな――
・急がば回れ ――生きるための手順――
・能あるタカはツメをかくす ――コウふくみの手――

・論語よみの論語しらず ――定石の運用――
・柔よく剛を制す ――離れて打つ筋――
・将を射んとすればまず馬を射よ ――死活の考え方――
ただ、中には、「5章 死活」には
・九仞(きゅうじん)の功を一簣(いっき)に欠く ――地中に手あり――
といったものがあり、意味を調べないと分かりにくい格言もある。
そこで、手元の辞書で調べてみた。

「九仞(きゅうじん)の功を一簣(いっき)に欠く」は、「九仞の功を一簣に虧(か)く」と記し、中国の古典「書経」旅獒(りょごう)に「山を為(つく)ること九仞、功一簣に虧(か)く」とあるのに基づくようだ。
高い山を築くのに、最後のもっこ1杯の土が足りないために完成しない。
⇒長い間の努力も最後の少しの過失からだめになってしまうことのたとえ。
◆「九仞」の「仞」は長さの単位。1仞は中国周代の7尺。1尺は約22.5センチ。
「九仞」は高さが非常に高いこと。
◆「簣」は土を運ぶもっこ。
◆「虧」は欠に同じ。

「九仞の功を一簣に欠く」とは、つまり、事が今にも成就するというときになって、ちょっとした油断のために失敗することをいう。
油断大敵という意味からすれば、「蟻の穴から堤も崩れる」「弘法にも筆の誤り」「猿も木から落ちる」「河童の川流れ」と通ずる内容かと思う。

九仞の功を一簣に欠く ――地中に手あり――


藤沢秀行氏の解説によれば、仞は8尺(ママ)のこと、簣は土を運ぶカゴのことで、すなわち巨大な山を築くのに、あと1カゴの土を運ぶことを怠っては山は完成しないという意味である。

十数年まえの甲子園の高校野球で、ホームランを打ちながらホームベースを踏まず、アウトを宣告された選手がいたが、これなどがその適例であろうとする。

さて、実際の囲碁ではどのように場面にあてはまるのだろうか。
碁では、当然、手を入れなければならないところを怠って、せっかくの地がなくなってしまったり、あるいは逆にトン死したりする例は決して少なくない。
<手入れを怠る>、次のような事例を挙げている。

【手入れを怠った例】
≪棋譜≫
棋譜再生
・黒1~3となって12目の黒地確定と考えた黒は、黒5を手ヌキして右辺のヨセに回った。
・しかし、白は、次の手でこの黒地に手をつけた。
白がウチコミを敢行した場所はどこであろうか?

【実戦:「九仞の功を一簣に欠く」大悪手】
≪棋譜≫
棋譜再生
・実戦で白が打ったのは白1である。
・黒はウッテガエシを避けて、やむなく黒2のオサエを打った。
・こうなれば、白は3と切る一手。
・これに対する黒4のノビは、当然のように見えてそうではない。
これが「九仞の功を一簣に欠く」大悪手であったと解説している。
・白5、黒6ののち、白7と切ったのが両にらみの筋。
※前図白4のあと、黒は手入れをすべきだった。もう1カゴの土を運んで山を完成させることが肝要であろうという。
(藤沢秀行『故事・格言による囲碁上達の手ほどき』東京書店、1978年[2002年の復刻版もある]、182頁~184頁)

【藤沢秀行『故事・格言による囲碁上達の手ほどき』東京書店はこちらから】

故事・格言による囲碁上達の手ほどき





最新の画像もっと見る

コメントを投稿