らびおがゆく Vol.3

山形県を中心とした演奏活動等

司馬遼太郎「王城の護衛者」

2011年03月23日 23時46分38秒 | 読書
 本日、近所のコンビニエンスストアに徒歩で行ったら、あんぱんが売っていたので購入して、買ってきた肉まんと一緒に食べました。とても美味しかったなぁ~。少しずつですが品物が入ってきています。ただ購入数量は制限されていますが・・・・。ガソリン以外はどんどん復興に向かっているのでしょう。あとは、鉄道や道路ですかね。

 さて、講談社文庫の新装版「王城の護衛者」を読み出しました。短編集で、「王城の護衛者」「加茂の水」「鬼謀の人」「英雄児」「人斬り以蔵」と5つの話が、入っています。昨晩、「王城の護衛者」を読みました。文庫本で125頁位の短い話。

 主人公は、幕末の会津藩主~松平容保。陸奥国会津藩9代目藩主で、最後の藩主です。

 松平容保(1836・天保6年~1893・明治26年)は、運命で会津藩の第8代藩主容敬の養子になってしまい、徳川宗家をお守りする事を使命とする会津藩の家訓を守ったが為に、壮絶な会津戦争に巻き込まれました。

 政事総裁職・松平春嶽に会津藩の家訓を引き出されて、押し切られる形で京都守護職に就任させられて、長州藩系の過激志士達を取り締まり、第14代将軍の上洛における治安維持のために新撰組を組織しました。

 結局、策を弄す事に長けた薩摩藩に上手く利用されて、長州藩を京都から追い出す事に成功しただけで、後に、将軍家から上手く利用されて幕末に向かって、会津藩の立場をより悪くする方へ向けてしまいました。

 西軍の一番の標的にされてしまった会津藩は、会津戦争に巻き込まれて壊滅せざるをえなかったのです。

 容保は明治以降も生きたのですが、会津戦争のことは周囲に話そうとしなかったそうです。容保は禁門の変での働きを孝明天皇から認められその際、宸翰と御製を賜いました。彼はそれらを小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放すことはなかったそうです。自分は、尊王思想だったのにもかかわらず、抗えない運命に翻弄されたのでした。

     
             松平容保

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