「拉致被害者、寺越武志さん」
拉致被害者の方々には、失礼な言い方をさせていただきます。お許し下さい。
(*)を読んで,日本の政治家や官僚は、なんて無能なんだ、という印象をもたれた方もいるかもしれませんが、私は(日本人全体がそうなんだ)、と思いました。
「拉致は犯罪だ!」と、北朝鮮に対しては激しく怒るけど--アメリカが殺した日本人の数は、北朝鮮による被害者の数よりもずっと多いのにーーアメリカに対しては、怒らない。
別に人が殺されなくても、狂牛病の検査の仕方とか、私が腹が立ってたまらないのは、「えひめ丸」ーー米潜水艦によって沈没させられたのに、「えひめ丸」を引き上げる費用は日本が持たされたーーの事件です。
一線を越えたことを、アメリカは多くしていると思うのに、日本人は怒らない、否、「怒れない」のです。
なぜか分からないけど、アメリカがするのは、○なのです。
米は格差社会。ということは、「奴隷国家」ということでしょう。(所得の低い人は奴隷扱いされている)
南アフリカのアパルトヘイトは、非難轟々だけれど、米の「奴隷国家」というのは○なのだ。なぜか知らないけど、米は、○。
そういう中で、日本人は「悪いこと」に対しても、だんだん何も言わなくなっていくように思う。
北朝鮮に対して政府が強く出られない理由の一つにはこういうこともあるんじゃないか、と思いました。
(*)
(『新証言・拉致ーー横田めぐみを救出せよ!』 安明進著、廣済堂出版より)
北朝鮮が寺越武志さんを拉致したのは、紛れもない事実である。だが日本政府は彼を「拉致被害者」と断定していない。武志さん自身が拉致を認めていないというのが、その理由だ。しかし、一体日本政府はどうやって、武志さんに自ら拉致を認めろというのだろうか? そんことをすれば北朝鮮にいる家族に危険が及んでしまうのは明らかではないか。
(寺越)友枝さんは、外務省に対し、武志さんが一時帰国する際、日本政府がその受け皿になるよう要望したことがある。しかし対応した外務省の斎木アジア大洋州局審議官(当時)の反応は冷たいものだった。
「拉致と認定されていないから、出来ません。」
こうしたことが重なって友枝さんは、日本政府への不信感を募らせていく。何の罪もない息子を北朝鮮に連れ去られ、日本国民を守ってくれる筈の国の援助もなく、どうにもならない現実をたった一人で背負っている友枝さんの苦労は察するに余りあるものだ。
武志さんが拉致後に初めて日本の土を踏んだのは2002年10月、曽我ひとみさんら5人の拉致被害者が帰国する直前である。しかし政府の反応はこの時も冷淡だった。
拉致被害者たちが政府のチャーター機で羽田空港に降り立ったのに対し、武志さんは飛行機代も自腹、帰りの小松空港までの自動車すら知り合いに頼んでやっと工面して乗せて貰った。
これにはさすがに友枝さんも我慢ならず、地元出身の自民党の大物政治家事務所に電話で訴えた。
「息子の件も拉致と認めて下さい。それが出来ないなら責任を取って(帰国させて)ほしい。」
その時の政治家事務所の反応は驚くべきものだった。
「今まで40年も黙っとって、何でもうちょっと黙っておれんか。ほんなに騒いだら(武志さんは)殺されて交通事故に遭ったんだと、言われますよ」
無力な老女を相手に、よくそんなことが言えたものである。
さらに後日、その政治家からも直接電話があって、こう釘を刺されたそうだ。
「お母さんは黙っていなさい。息子さんは北朝鮮で偉くなっている立場なんだから」
要するに「騒ぐな」ということだ。この話を友枝さんから聞かされた時、私も怒りで身が震えたのを覚えている。その政治家に関しては、武志さんもこう漏らしたという。
「僕が亀城という田舎から平譲に出てこられたのは、あの人のお陰と日本の人は思っているが、実は何の関係もない」
武志さんが平譲に移住したのは北朝鮮が朝鮮総連を通じて友枝さんら親族を調べた結果、犯罪などの問題がなかったので許した、というのが真相なのだ。
さらに友枝さんの話は続く。
「武志さんを帰してほしいなら、5億円出すように自民党の大物に言いなさい」彼女は以前北朝鮮を訪れた際に、通訳の男性からこう告げられたそうだ。そのことを友枝さんは、講演で石川県を訪れた当時の最高実力者といわれた人物に話した。
「先生、北朝鮮の方に、武志を帰国させてやるから5億円出してくれって言われたけど、そんなことできるんですか?」
すると彼はポツリと述べたという。
「(私も北朝鮮から)横田めぐみさんを会わせるから金をくれと言われている。」
彼女は私の目の前で涙を流してこう訴えた。
「人の子だと思ってみんな勝手なことを言うけれど、あれからもう40年も経ちました。それを、黙っていろ、黙っていろなんて、あまりにも酷すぎるでしょう。」
私のは友枝さんが不憫でならない。ずっと友枝さんは武志さんを政府に「拉致被害者」と認めてもらえるように活動してきた。その母を、武志さんでさえ、非難するのだ。
「お母さん、お金に目がくらんだのか。お金がほしくてやるのか。」 友枝さんが途方にくれるのも無理はない。
一時帰国していた武志さん夫妻に対して友枝さんが「日本に帰る気はないか」と尋ねたところ、その時、武志さんは一言言ったという。「遅かった」と。
一方で武志さんはこんな言葉も漏らしている。
蓮池さんや地村さんたちは20歳を過ぎてから北朝鮮へ連れて行かれたから、親離れも出来る。でも僕は13歳で来たから、親が恋しくて寂しかった。その気持ちは分かるから自分の子供は捨てられない。」
それを聞いた友枝さんは永住帰国の件にも一切触れない決心をしたそうである。
武志さんが日本を訪れた最後の夜、友枝さんは、東京のホテルで親子水入らずで過ごした。二人は遅くまで語り合い、やっと寝ようとした朝5時過ぎ、52歳になる息子は母親の身体を触りながらつぶやいたという。
「お母さんのぬくもりが一番いいです。」
友枝さんの話を聞きながら、私は北朝鮮に残る自分の母親のことを重ね合わせていた。私自身12歳の時に親元を離れた経験がある。だから母の手料理をたくさん食べてみたり、一晩でいいから一緒に寝たい思いが今でも強くあるのだ。
拉致被害者の方々には、失礼な言い方をさせていただきます。お許し下さい。
(*)を読んで,日本の政治家や官僚は、なんて無能なんだ、という印象をもたれた方もいるかもしれませんが、私は(日本人全体がそうなんだ)、と思いました。
「拉致は犯罪だ!」と、北朝鮮に対しては激しく怒るけど--アメリカが殺した日本人の数は、北朝鮮による被害者の数よりもずっと多いのにーーアメリカに対しては、怒らない。
別に人が殺されなくても、狂牛病の検査の仕方とか、私が腹が立ってたまらないのは、「えひめ丸」ーー米潜水艦によって沈没させられたのに、「えひめ丸」を引き上げる費用は日本が持たされたーーの事件です。
一線を越えたことを、アメリカは多くしていると思うのに、日本人は怒らない、否、「怒れない」のです。
なぜか分からないけど、アメリカがするのは、○なのです。
米は格差社会。ということは、「奴隷国家」ということでしょう。(所得の低い人は奴隷扱いされている)
南アフリカのアパルトヘイトは、非難轟々だけれど、米の「奴隷国家」というのは○なのだ。なぜか知らないけど、米は、○。
そういう中で、日本人は「悪いこと」に対しても、だんだん何も言わなくなっていくように思う。
北朝鮮に対して政府が強く出られない理由の一つにはこういうこともあるんじゃないか、と思いました。
(*)
(『新証言・拉致ーー横田めぐみを救出せよ!』 安明進著、廣済堂出版より)
北朝鮮が寺越武志さんを拉致したのは、紛れもない事実である。だが日本政府は彼を「拉致被害者」と断定していない。武志さん自身が拉致を認めていないというのが、その理由だ。しかし、一体日本政府はどうやって、武志さんに自ら拉致を認めろというのだろうか? そんことをすれば北朝鮮にいる家族に危険が及んでしまうのは明らかではないか。
(寺越)友枝さんは、外務省に対し、武志さんが一時帰国する際、日本政府がその受け皿になるよう要望したことがある。しかし対応した外務省の斎木アジア大洋州局審議官(当時)の反応は冷たいものだった。
「拉致と認定されていないから、出来ません。」
こうしたことが重なって友枝さんは、日本政府への不信感を募らせていく。何の罪もない息子を北朝鮮に連れ去られ、日本国民を守ってくれる筈の国の援助もなく、どうにもならない現実をたった一人で背負っている友枝さんの苦労は察するに余りあるものだ。
武志さんが拉致後に初めて日本の土を踏んだのは2002年10月、曽我ひとみさんら5人の拉致被害者が帰国する直前である。しかし政府の反応はこの時も冷淡だった。
拉致被害者たちが政府のチャーター機で羽田空港に降り立ったのに対し、武志さんは飛行機代も自腹、帰りの小松空港までの自動車すら知り合いに頼んでやっと工面して乗せて貰った。
これにはさすがに友枝さんも我慢ならず、地元出身の自民党の大物政治家事務所に電話で訴えた。
「息子の件も拉致と認めて下さい。それが出来ないなら責任を取って(帰国させて)ほしい。」
その時の政治家事務所の反応は驚くべきものだった。
「今まで40年も黙っとって、何でもうちょっと黙っておれんか。ほんなに騒いだら(武志さんは)殺されて交通事故に遭ったんだと、言われますよ」
無力な老女を相手に、よくそんなことが言えたものである。
さらに後日、その政治家からも直接電話があって、こう釘を刺されたそうだ。
「お母さんは黙っていなさい。息子さんは北朝鮮で偉くなっている立場なんだから」
要するに「騒ぐな」ということだ。この話を友枝さんから聞かされた時、私も怒りで身が震えたのを覚えている。その政治家に関しては、武志さんもこう漏らしたという。
「僕が亀城という田舎から平譲に出てこられたのは、あの人のお陰と日本の人は思っているが、実は何の関係もない」
武志さんが平譲に移住したのは北朝鮮が朝鮮総連を通じて友枝さんら親族を調べた結果、犯罪などの問題がなかったので許した、というのが真相なのだ。
さらに友枝さんの話は続く。
「武志さんを帰してほしいなら、5億円出すように自民党の大物に言いなさい」彼女は以前北朝鮮を訪れた際に、通訳の男性からこう告げられたそうだ。そのことを友枝さんは、講演で石川県を訪れた当時の最高実力者といわれた人物に話した。
「先生、北朝鮮の方に、武志を帰国させてやるから5億円出してくれって言われたけど、そんなことできるんですか?」
すると彼はポツリと述べたという。
「(私も北朝鮮から)横田めぐみさんを会わせるから金をくれと言われている。」
彼女は私の目の前で涙を流してこう訴えた。
「人の子だと思ってみんな勝手なことを言うけれど、あれからもう40年も経ちました。それを、黙っていろ、黙っていろなんて、あまりにも酷すぎるでしょう。」
私のは友枝さんが不憫でならない。ずっと友枝さんは武志さんを政府に「拉致被害者」と認めてもらえるように活動してきた。その母を、武志さんでさえ、非難するのだ。
「お母さん、お金に目がくらんだのか。お金がほしくてやるのか。」 友枝さんが途方にくれるのも無理はない。
一時帰国していた武志さん夫妻に対して友枝さんが「日本に帰る気はないか」と尋ねたところ、その時、武志さんは一言言ったという。「遅かった」と。
一方で武志さんはこんな言葉も漏らしている。
蓮池さんや地村さんたちは20歳を過ぎてから北朝鮮へ連れて行かれたから、親離れも出来る。でも僕は13歳で来たから、親が恋しくて寂しかった。その気持ちは分かるから自分の子供は捨てられない。」
それを聞いた友枝さんは永住帰国の件にも一切触れない決心をしたそうである。
武志さんが日本を訪れた最後の夜、友枝さんは、東京のホテルで親子水入らずで過ごした。二人は遅くまで語り合い、やっと寝ようとした朝5時過ぎ、52歳になる息子は母親の身体を触りながらつぶやいたという。
「お母さんのぬくもりが一番いいです。」
友枝さんの話を聞きながら、私は北朝鮮に残る自分の母親のことを重ね合わせていた。私自身12歳の時に親元を離れた経験がある。だから母の手料理をたくさん食べてみたり、一晩でいいから一緒に寝たい思いが今でも強くあるのだ。