学生時代に所属していた研究会の旅行で當麻寺宿坊に泊まり、翌日、山頂に葬られた大津皇子を訪ねて二上山を目指した年があった。
12月も半ばを過ぎた頃。時に上から伸ばしてくれた手にすがって引き上げてもらい、辿り着いた雄岳山頂の明るさは今でも眼裏によみがえる気がする。
大和盆地の西にある二上山。春分の日には、その雄岳と雌岳の間に陽が沈むという。
真西に沈んでいく太陽のかなたに極楽浄土があるとされ、古くから二上山は西方浄土の境界としてあがめられている。
犬養孝氏がNHKから全国放送されたものの書き起こしとなる『万葉の人びと』から、大津皇子の回を開いてみた。

「大津皇子という人は、人柄がお父さん(天武天皇)に生き写しみたいな人なんじゃないんでしょうか」
当時の漢詩集『懐風藻』など見てもとてもほめて書いてある。
「男性的で、頭がよくて、言葉がハキハキしていて、文が上手で、武が上手、よく剣を打ち、漢詩が盛んになったのは大津皇子から起こるといい、物にこだわらず、豪放磊落で、人望が高い」
こんな青年に生きていられたら草壁皇子のためにならない。「悲劇の原因はここにあったのではないでしょうか」
「大津皇子の悲劇はまことに複雑怪奇」と。

この回の最後の言葉が好きです。
「24歳の大津皇子の霊魂は、あの吹きさらしの山頂では、いつまでも休まることができないと思う。その証拠には、今日もこの話を知っているすべての人の胸の中に、大津皇子の亡き御霊は今も生きているのではないでしょうか。大和へ来た青年諸君がまず何というでしょう、『二上山はどれですか』と先ず聞かれますね、ということは、24歳で非業の死を遂げた、しかもすばらしい歌を残している、その大津皇子の霊魂が、人々の胸にそれぞれ生きているからではないでしょうか」
彼岸を迎えるたびに、(来年ぐらいはお暇をいただいて…)などと、いったい何度思ってきたことやら。
ある方は言われた。琵琶湖の西に沈む夕日も素晴らしいですよ、と。
思いだして『死者の書』(折口信夫)を取り出した。
古墳の闇から復活した大津皇子の魂・・・
「彼(カ)の人の眠りは、徐(シズ)かに覚めて行った。まつ黒い夜の中に、更に冷え圧するものゝ澱んでゐるなかに、目のあいてくるのを、覚えたのである」と書き出される。
日を改めて読んでみよう。
12月も半ばを過ぎた頃。時に上から伸ばしてくれた手にすがって引き上げてもらい、辿り着いた雄岳山頂の明るさは今でも眼裏によみがえる気がする。
大和盆地の西にある二上山。春分の日には、その雄岳と雌岳の間に陽が沈むという。
真西に沈んでいく太陽のかなたに極楽浄土があるとされ、古くから二上山は西方浄土の境界としてあがめられている。
犬養孝氏がNHKから全国放送されたものの書き起こしとなる『万葉の人びと』から、大津皇子の回を開いてみた。

「大津皇子という人は、人柄がお父さん(天武天皇)に生き写しみたいな人なんじゃないんでしょうか」
当時の漢詩集『懐風藻』など見てもとてもほめて書いてある。
「男性的で、頭がよくて、言葉がハキハキしていて、文が上手で、武が上手、よく剣を打ち、漢詩が盛んになったのは大津皇子から起こるといい、物にこだわらず、豪放磊落で、人望が高い」
こんな青年に生きていられたら草壁皇子のためにならない。「悲劇の原因はここにあったのではないでしょうか」
「大津皇子の悲劇はまことに複雑怪奇」と。

この回の最後の言葉が好きです。
「24歳の大津皇子の霊魂は、あの吹きさらしの山頂では、いつまでも休まることができないと思う。その証拠には、今日もこの話を知っているすべての人の胸の中に、大津皇子の亡き御霊は今も生きているのではないでしょうか。大和へ来た青年諸君がまず何というでしょう、『二上山はどれですか』と先ず聞かれますね、ということは、24歳で非業の死を遂げた、しかもすばらしい歌を残している、その大津皇子の霊魂が、人々の胸にそれぞれ生きているからではないでしょうか」
彼岸を迎えるたびに、(来年ぐらいはお暇をいただいて…)などと、いったい何度思ってきたことやら。
ある方は言われた。琵琶湖の西に沈む夕日も素晴らしいですよ、と。
思いだして『死者の書』(折口信夫)を取り出した。
古墳の闇から復活した大津皇子の魂・・・
「彼(カ)の人の眠りは、徐(シズ)かに覚めて行った。まつ黒い夜の中に、更に冷え圧するものゝ澱んでゐるなかに、目のあいてくるのを、覚えたのである」と書き出される。
日を改めて読んでみよう。
妹は嵩じて焼き物にしました。
何方も憧れのお山のように話してくれました。
大津皇子のことも今詳しく拝読して知りました。
誰でもどこか引かれるお山なのですね。
24歳の大津皇子の霊魂が皆を惹き付けるのでしょうか?
権力争いの中での悲劇のようによく言われますね。
大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、
姉の大伯皇女が詠んだ歌二首がありますが、その一首に馬酔木が歌われています。
姉との物語も心にしんみりするものです。
この時期になると二上山が思い起こされます。
朝7時を過ぎる頃から雪になりました。
寒かったこと!
二上山は西方浄土の境界だとされているんですね。
一つ利口になりました、、、か???
ありがとうございます!
西方浄土の思想とも相まってあがめられてきたのでしょうね。
ちょうど雄岳と雌岳の間に陽が沈むのだそうですね。
彼岸の夕焼けは極楽浄土の輝きだと考えられていたとか。
『死者の書』も学生時代の学びの延長線上で手に取っているものです。
普段でも西山のかなたに陽が沈むのを見る機会があるときは感動もので眺めていますが…。
今は私が登ったときよりはるかに登りやすいく整備されているようですよ。
Ranchoさんは山に登ったりされるのかしら(私は苦手です)。
いつもありがとうございます。ご縁を嬉しく思っております。
私は文学やその延長で知った歴史への関心が先にあって、歌枕、聖地、社寺などを訪れることが多いです。
嫁いでから奈良は近くなりましたのに、再訪の機会に恵まれません。
先日来の山科を巡られたコースも興味深く拝見しました。
常照皇寺の光厳天皇陵や法金綱院の北の待賢門院陵は静かで心地よい空間ですね。
私は「にじょうさん」と言わず「ふたかみやま」と言っておりますが憧れの山でもあります。
つい先だって奈良のブロ友さんが登っておられ記事にされてました。
二上山への憧れは、もちろん大伯皇女の歌からです。
入江相政さんの『古典逍遥』でも心を揺さぶられ『懐風藻』でも大津皇子の部分を読みました。
もっと深く読み込みたいのですが・・・あとは言い訳(笑)
志賀の都への旅もそんな時代を思い出す旅になりましたし、飛鳥の旅でも色いろ・・・
NHK日曜日夕方「アテルイ」蝦夷のドラマを観てます。次回最終回かな。
今日は昼から彼岸会を勤めさせていただきました。
二上山のコースがハイキングと言えるほどに整備されている様子、時の流れを思い知りました。
倉本先生が歴史を語るのに歴史文学を根拠としてはならないと、史料の読み込みの大切さをお話でした。
大津皇子には『紀』『懐風藻』は拠りどころですね。
万葉の世界は学べば学ぶほど、豊かになる気がします。好きなだけに自己満足かもしれません(笑)
もちろん「ふたかみやま」です(笑)
やわらかな音感、そこにちょっと哀切ともなう「ふたかみやま」ですね。
でも平素は「にじょうざん」と言うことも多いですよ。
浄土思想に至る前、古代信仰はとても興味ある世界です。
阿弖流為の物語を読んで、清水寺ではなく山科にある坂上田村麻呂の墓を訪ねたことがあります。
渡来系氏族出身、坂上氏は軍事に携わる名門とのこと。
阿弖流為との対決場面でも、浮かぶ彼の人となりにはちょっと好感を持ちまして…。
好きな興味関心の世界があること、幸せだと思っております。