86歳・老大娘の日記

晩年を生きる

ブログしばらく休みます

2018-05-04 19:52:16 | おしらせ

体調不良でもなく、眼瞼手術ももう少し先なのですが、

家事雑事山積でブログに手がまわりません。

私の作業動作が鈍くなったことに起因しています。

再開の折にはどうかよろしくお願い致します。

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下に~下に~

2018-05-03 17:31:04 | 老い

大名行列ではないが老いれば体のあらゆるところが下に下にとなる。

昨年末予約してあった眼瞼下垂手術が血圧の異常上昇で中止。

再び予約が取れて6月初め手術することになった。

若い人の美容のための手術は有料ですが、

私の場合保険が適用されます。

右目は13年前経験済なので今回は左目だけ。

上瞼が黒目のところまで下ったら手術となるらしい。

瞼をテープで持ち上げると、ぱっと視界が広がり明るくなる。

視力はありますが、気にしだすと上瞼が自分でも視野に入り

うっとうしい。

手術法は二つあって、以前私が経験したのは皮膚だけ縫い縮めるもの。

いま一つは皮膚の奥にある筋肉を切り縮めるらしい?

完璧にするには後者の手術。完璧でなくてもいいので

以前経験した、簡単な手術を選びました。日帰りです。

筋肉が衰え 瞼を持ちあげられないなんて想像もできなかった。

何はともあれ読書に、P・C、TVにと快適になることを期待しています。

 大名行列は江戸時代、参勤交代はじめ、大名が公式に外出の際

   既定の人数を整えた長い行列のこと。

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墓じまい

2018-04-30 23:25:17 | 日々の暮らしから

数年前から親族の中で懸案だった「墓じまい」の日が来ました。

墓地内の6基↓が壊されました 4月26日

4人きょうだい(私、弟、妹2人)墓じまいへの思いについては

温度差があります。妥協も必要ですし、

お互いに配慮もしなければ成り立たないこと。

感傷に浸っている場合でもないでしょうが、一抹の淋しさはあります。

 

以下の6基がなくなり「新居」へ引越しました。

父方の祖父母

   

父の兄 ↓                 父の姉 ↓

 

弟の子(長男)3歳の時交通事故で亡くなりました。

弟曰く、この子が若しこの世にあればこの日の住職さんとは

奇しくも同じ年齢と。↓弟の心中思って言葉もありませんでした。

        

母方の祖母、桐竹まつ

引越し先の永代供養塔 ↓

朝9時住職さんの読経に始まり、業者による墓取り壊し、お骨の移転、

最期に永代供養塔の前で再び和尚さんの読経まで・・・

5時間余かかりました。

すっきりとした顔、沈んだ顔等々、思いはさまざま、

かくして長い1日は終わりました。

このお寺は桶狭間古戦場の真ん中にあり、今は名古屋市緑区ですが、

桶狭間村→有松村→有松町と変遷の道を辿り1964年名古屋市に編入されました。

墓石はなくなりましたが、御先祖がこのお寺に眠っていることに違いはなく、

これからも訪れたいと皆で話合いました。

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講座「知多半島のふしぎ物語」4月17日

2018-04-18 14:40:15 | お出かけ

ライラックが咲きました。

この講座も1年過ぎ新学期が始まりました。すぐ目の前が熱田神宮です、

今日こそお参りと思っているうちに1年が経ってしまいました。今年こそ!

今日の主テーマは侠客「清水次郎長」。意外な生涯を知りました。

半田市光照寺、先年訪れました。

境内の一角に次郎長が決闘を前に祈願した地蔵堂があります。

その決闘はかの有名な「荒神山の決闘」ではなくて「乙川畷の決闘」です。

24歳の時清水でトラブル起こし、三河へ逃げたことから知多半島と

繋がりができました。

三河へ来てからの次郎長は侠客から事業家に変身致しました。

それはかの山岡鉄舟(幕臣)と天田愚庵(武士で歌人)によること大でした。

またミッカン酢、盛田家などとの関わりも面白いでした

興味深いいろいろを知り教えて頂きましたが、

その一つ有名な「咸臨丸事件」幕府軍は新政府軍に敗れ咸臨丸は沈没、

清水港には逆賊として遺体が散乱したまま、

それを次郎長が「死ねばみな仏」と収容し埋葬「壮士墓」を建て弔いました。

博徒から事業家へ、波乱の人生でした。享年73歳

次回もこの続きです、山岡鉄舟など・・・

先生のお話し上手も加わり興味深い講座です。

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父のこと

2018-04-15 15:53:25 | 想い出

最近ある方を通して父の親友石井氏のご子息が

名古屋におられることを知りました

そのうちお会いできるかもしれないと言うことになり、

先日来古い写真を探している。

2人は共に従軍記者として中国大陸を軍に従いて取材した。

前列左端が父、右端立っているのが石井氏。他はカメラマンや他社の人?

父は就職のため名古屋新聞へ入ったと聞かされていた。

母と1歳の私(東京生まれ)3人は名古屋へ来ました。

と言うことは私が生まれても職はなかった?

当時は昭和大恐慌、日本経済は危機的な状況にあり、

「大学は出たけれど」と歌われたり、映画にもなったらしい。

友人で名古屋新聞社長だった与良ヱ氏(よらあいち)の縁で

心ならずも?新聞記者になり生涯を通した。

法曹界を望んでいたと成人してから聞きました。

上海は単身赴任でしが、次の南京は私たち家族同伴でした。

   

新米記者の父は名古屋熱田署勤務(社会部配属)。

住居は新聞社が用意してくれていましたが、

前住者が首つり自殺して空家になっていた曰くつきの家、

母には知らせず、南京支局転任まで何年間か住まいました。

後年それを知った母は怒ることもせず、笑っていました。

↓ 南京の小学校へ数年通いました。

   

大戦勃発の直前帰国、父の先見の明のおかげと思います。

4人家族が5人になっていました。南京で弟が生まれました。

出迎えの祖母と名古屋駅で。

父のことはブログで何回も書きましたが、

戦争もあって数々の逸話が残っています。

折につけ妹と話し合っています。

私に文才あれば残せるのにと残念です。

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