市内つづき。
興正寺から500メートルほど南下した場所に鎮座する、
五社宮(ごしゃぐう)に到着しました。
八事の交差点から少し入ったところにありますが、
道路沿いなので騒がしいかな?と思いきや、境内は静かなものです。
八事にはむかし何度か来たことがあるけど、ここに神社があるなんて全然知らなかったなあ。
参道右手に社務所がありましたが、お留守だったので御朱印は断念。
こちらの宮司さんは、さきほどの須佐之男神社の宮司も兼ねているそうです。
手水舎
手水舎近くに損壊した石灯篭などが置かれていたので、寄ってみた。
先の大戦時の空襲により壊れてしまった社号標だそう。
神社をまわっていると、こういった歴史の証人に出会うことがよくあります。
拝殿
子取りさん。
玉取りさん。
足元にどんぐりが並んでた。
子供が置いてったのかなー?かわいい。
おなじ開放型の拝殿でも、こちらは舞台状にはなっていません。
殿上にあがることのない、そのまま直進できるタイプです。
そしてその先に配された本殿などを、拝殿の中から眺める構図となります。
あまり見掛けない造りで新鮮。(・∀・)
この五社宮は、日、月、星、神明、天王 の五社を祀っている神社で、
正面の大きい社が日宮社(御祭神:天照大御神)、
その左が月宮社(御祭神:月夜見尊)、
さらに左が星宮社(御祭神:五百箇磐石尊)となっています。
日神、月神、星神の三柱を祀っているというのも、
これまた珍しい気がします。
日宮社の右側に鎮座する二社は、
左から順に神明社(御祭神:豊受大神)、祇園社(津島天王社)(御祭神:須佐之男命)です。
ちゃんと拝殿上部に詳しく書かれているので、すごーくわかりやすい。
そのわかりやすい配置図とは反対に、鎮座経緯はちょっと複雑になっています。
五社宮はもともと、
丹羽郡寄木村に「天道宮」(現:江南市寄木東郷中の式内社稲木神社)として鎮座していました。
天道宮は、一説によると古代氏族の稲木別が、祖先である大中津日子命を祀り、
創建したとも言われているようです。
1724年、“神仏習合”により「天道宮」は「天道山高照寺」となり、
神と仏を同時に祀るようになります。
そして1741年、尾張藩の命によって当地へと遷座しました。
(当地の地名である「八事天道(やごとてんどう)」の名は、
この天道山という山号から生じています。)
それから130年近くたった1868年。
今度は“神仏分離”により「天道山高照寺」から神社部分が分離・独立したのち、
五柱の御祭神はふたたび元の地に戻ります。
八事にはお寺部分(五社宮のすぐ南にある高照寺)が残るとともに、
五柱を祀る社も五社宮と称して存続し、現在に至っています。
要するに、
江南市から名古屋市へ五柱が遷座(神の座を移す)して、
のちに江南へまた遷座し直した。
しかし名古屋は空っぽになったわけじゃなく、そのまま五柱を祀っている。
つまり、分祀ですね。
(断言するからには曖昧な情報は載せられないので、
念のため社務所にTelして確認しました(・ω・))
神道における分祀とは、
『神の分霊を、勧請(他の神社から移す)して祀っている神社』 という意味ですが、
元いた神社から神を切り離して、よそで祀るわけではありません。
元の神社には、そのまま神が存在し続け、
分祀の数だけその神が増えていく・・というかんじ。
元の神社も分祀も、どちらの神も同等(同一)だから、
どっちが本物でどっちが偽物とか、どっちがメインとか、
そういう事ではありません。
※ちなみに、靖国神社のお話では、
“特定の御霊だけを靖国神社から分離して、よそで祀る。”という意味で
分祀という言葉を使うことが多いようですが、これはそもそも間違いです。
末社
秋葉宮(御祭神:迦具土神)
その近くにあったご神木。
手前が「よりそいの木」で、ちょっとわかりにくいですが奥には「運気隆昌の木」があります。
この次にお邪魔する神社もそうですが、
切妻・妻入りの開放型拝殿であっても、その先の祭文殿や渡殿は無いので、
尾張造りではありません。
名古屋市内でも開放型ならある程度点在してるけど、
尾張造りとなると、やはり市内東部までは波及してないんだねー。
明るく開けた境内は優しい空気が満ちていて、
ここにいるだけで清められるというか、じわじわ元気回復するかんじ。
40分ほどの滞在中、何人かの参拝者がいらっしゃいましたが、
地域の方の崇敬の篤さが、この場所をいっそう清らかにしているような気がします。
想像以上に素敵な神社で、
癒しのひとときを頂戴することができました。
つづく・・。