伊勢崎市議会議員 多田稔(ただ みのる)の明日へのブログ

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グローバル資本主義は当然なのか

2017-05-07 18:29:49 | 大きな時代の変革期
現代の地球において優勢なのは西洋が起源の資本主義経済です。
戦後日本はその中で活動していますので、多くの日本人は気づかぬうちに、
その価値観を共有しているのではないでしょうか。

日本を含む先進資本主義国では、国境を越えた経済の自由な競争、
即ち「グローバル資本主義」が当然、あるいは無意識のうちに
社会の前提になっているように思います。
大企業は地球規模の国際競争に打ち勝って利益を上げることを目標とし、
教育はグローバル社会で活躍できる「グローバル人材」の育成を目指します。
はたして、このままその方向に進むことが適切なのか、
グローバル資本主義に問題はないのか、あらためて考えてみたいと思います。

昔の企業活動は、それぞれの国内に限られていましたので
国のコントロール下にありました。その国の中で投資し、雇用を生み、
収益を上げ、利潤はその国の中で配当されました。
なにか社会にとって不都合な企業活動があれば国が規制できたのです。

現代では、大企業の活動はグローバルになっています。
国境を越えて投資し、利益を上げ、国境を越えて利潤を回収します。
複数の国にまたがって活動しますので、個別の国がグローバル企業の
活動全体を統制することはできません。

資本主義経済において株式会社は稼ぐエンジンですから、政策として
企業を優遇して国全体のGDPを増やすという考え方も一理あります。
その場合、国の中で企業が一番もうけているなら、社会的な負担、
すなわち税金を企業が多く払わなければ、税負担の公平性のバランスが取れません。

しかし現状は法人税を引き上げるのとは逆に、
企業の国際競争力を高めるという理由から、法人税率を下げて優遇しています。





1989年(平成元年)に消費税が導入されてからは、
消費税率をアップするたびに、法人税率を引き下げています。
まるで法人税を下げるために消費税を上げているかのような状況です。
これでは、社会のために企業が存在しているのか、
それとも企業のために社会が存在しているのかわかりません。

近年、TPPに関する議論の中で、あたかも「自由貿易」は素晴らしいもので、
「保護主義」は悪いものであるかのような報道がありますが、それは間違いです。
それぞれの国には国内事情がありますので、
農産物の輸入を自由化すれば農業が壊滅してしまう場合には、
主権国家として農産物の輸入制限や関税強化を行うべきなのです。

もし「国は何も規制してはいけない」ということになれば、
国としての主権は失われ、力の強い企業がなすままに、自国の産業や経済が
壊滅するのを指をくわえてみているだけになってしまいます。
私としては「無制限の自由貿易の協定」は、国家主権と国民に対する責任の
放棄だと思います。



(ムヒカ大統領のスピーチ)

2012年の「国連持続可能な開発会議」で
ウルグアイのムヒカ大統領は次のようにスピーチしました。

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  午後からずっと話されていたことは
  持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。
  私たちの本音は何なのでしょうか?
  現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?
  西洋の富裕社会が持つ傲慢な消費を世界の70〜80億人の人が
  できるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?(注1)

 「私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?
  あるいはグローバリゼーションが
  私たちをコントロールしているのではないでしょうか?」

  ハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、
  できるだけ多く売らなければなりません。
  人がもっと働くため、もっと売るために
  「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。
  悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。

 「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、
  無限の欲があり、いくらあっても満足しない人」

  発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。
  愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、
  そして必要最低限のものを持つこと。
  これらをもたらすべきなのです。
-----------------------------------------

ムヒカ大統領はズバリ指摘しました。

 『私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?
  あるいはグローバリゼーションが 
  私たちをコントロールしているのではないでしょうか?』

グローバル資本主義のもと、グローバル企業の活動を最優先することは、
国家がグローバル企業のしもべになってしまうことを意味します。
国や自治体の目的は住民福祉の実現ですが、企業の活動目的は最大利潤の追求です。

グローバル競争の名のもとに、国と企業の主従が逆転してしまうことは
社会にとって不幸なのです。企業のために、国と国民がいるのではありません。

私は株式会社やグローバル企業を否定しているのではありません。
「グローバル競争」という錦の御旗のもとに特別優遇するのではなく、
利益に相応する税を納めて社会的責任を果たしてもらうべきであると考えています。

  (注1)傲慢な消費を支える原料について
  「エコロジカル・フットプリント」という考え方があります。
  その国の食品や資源需要を満たすためには、食糧生産のための耕作地、
  漁業を行う海域、二酸化炭素を吸収するための森林など
  どれくらいの面積が必要かを足し合わせて算出します。
  世界自然保護基金(WWF)の2008年度試算では、
  各国のエコロジカル・フットプリントを合計すると、
  すでに人類は、地球1.5個分の資源を消費しながら暮らしています。



(グローバル企業による経済の破壊)

国際的な大企業は、資本も技術力もマーケティング力も備えた巨人ですから、
発展途上国の経済になんの制限もなく参入すれば、
その国の伝統的な産業は大打撃を受けます。外国の企業が利益を国外へ持ち去ることは
その国の中で回っていたお金の循環が失われ、雇用も所得も減ります。

グローバル企業に自国経済を開放することは、巨大恐竜のようなグローバル企業と
自国の弱い企業をルール無用で放置すること。
自由競争と自己責任の名のもとに弱肉強食を容認することです。
それは勝つ側のグローバル企業にとっては都合がいいことですが、
それ以外の市場参加者や国民にとっても良いことなのでしょうか?
企業の目的は儲けることですから、グローバル企業にとって都合がいいルールは、
その他の人にとっては必然的に不利なルールとなるでしょう。



(インドでおこったこと)

インドでは数千年以上、綿の布を大勢の人が手織りして働いていました。
しかし、イギリスで産業革命が起き機械で大量生産されるようになると
インドの村は失業者であふれました。

イギリスに占領され、植民地化されたインドの貧困と奴隷状態の原因は、
イギリスの生んだ近代機械文明をよいものだとして受け入れた
インド人自身にあるとガンジーは考えました。


現在世界で広がっている西洋資本主義的な考え方、
価値観、世界観に染まることは、
資本主義経済に組み込まれるということではないでしょうか。
多くの場合は搾取される側として。

資本主義では、「人間」でなく「資本」を優先します。
 1 資源効率(より少ない資源でより多くの儲けを)、
 2 時間効率 (早く)

人間を儲けるための手段と見るので人間性の疎外が起こります。
しかし、人間は機械ではありません。生き物です。
生き物としての自然なリズム、スピードがあり感情があります。
それを無視した効率性やスピードの追求は
生き物としてのヒトに調和しません。
機械化が進み生産性が上がるほど雇用が失われます。

ガンジーの言葉です。
・無職の人を放置したまま機械を導入する余地はない。
・すべての人に仕事がなければならない。空気や水のように。



(「懐かしい未来 ラダックから学ぶ」)

これはヘレナ・ノーバーグさんが書いた本のタイトルです。
ヘレナさんはスウェーデン育ちですが、1975年に
インド最北部のラダック地方に住み、住民と交流しながら
その豊かな文化と幸せな人達に心を打たれました


当時ラダックは、まだ西洋文明に侵食されず、
満ち足りた自給自足の伝統的な生活や文化が残っていました。
住んでいる人たちは、心から幸せでした。

「ここにはなんでもある」と、かつて青年が話していましたが、
今では「ここには何も無い」と言うようになってしまいました。
西洋文化や資本主義経済は、ラダックの人々に
何をもたらしたのでしょうか。

「西洋のアカデミズムは、西洋あるいは産業社会の経験を
人類全てに普遍化しようとする傾向が強い」
これはヘレナさんの指摘です。

産業革命は西洋がはじめに経験しましたが、
世界各地には様々な文明や文化があります。
すべてが同じ道筋をたどるべきだと考えるのはおごりでしょう。

昔ながらの自然に寄り添った生活は、
欠点や限界があるにしても、環境の面からも社会的にも、
近代の西洋文明よりも持続可能なのは明らかです。

伝統的な社会は、人と自然との数千年にわたる
試行錯誤と交流の中から生まれました。
ヘレンさんによれば、ラダックに取り入れられた西洋式の教育は、
架空の資源不足を生み、競争を生み、
共同体の崩壊へとつながっているようです。

ラダックの人たちが何世紀の間大切にしてきた
社会的、環境的なバランスが破壊されています。
自給自足で幸せに生活できていたラダックには、
今では、他の地域から食料や燃料がトラックで大量に運び込まれてきます。
ラダックは、グローバル資本主義経済に組み込まれてしまいました。

ラダックには「なんでもある」と胸を張っていた自信が
ここには「何も無い」という卑屈へと変わってしまったのです。

生活物資を買うお金をかせぐために、男達は都会へ出稼ぎに出ます。
伝統的な家庭や生活が壊れてしまいました。
GDPは上昇したのかもしれませんが、
ラダックの人たちは昔よりも幸せになれたのか?

地元の農産物より、遠くから持ってきたものの方が安いという
今の資本主義経済は、膨大な石油などの化石燃料を
輸送のために消費することで成り立っています。
化石燃料はできるまで数億年かかるので再生産はできません。
今のやり方は、そう長くは続けられないのです。

一方、伝統的な生活は、世界の各地で
数千年の間継続されてきた、自然と調和した暮らしであり、
決して夢物語ではありません。

ヘレナさんがラダックで学んだ、最も重要な教訓は幸福についてです。
ラダックの人々の喜びや笑いは、純粋に、何者にも妨げられない
生命それ自体への感謝なのでした。
共同体や大地との親密な関係が人間の生活をとても豊かにすると
ヘレナさんは知りました。

世界各地の物資が効率よく運ばれてくることは、
逆に、世界中から地域文化の多様性を奪っていることにもなっているのです。
生態系がその強さを維持するために多様性を必要としているように、
人間の文化も、多様性とその存在を受け入れることが
平和で調和に満ちた関係性の基盤になるとヘレナさんは考えます。

世界にはさまざまな地域があり、歴史があり、文明があり、暮らしがあります。
グローバル化の名の下に、西洋資本主義の価値観だけで、
すべての価値を判断したり、経済活動を評価することは、
それ以外の多様な価値観を排除してしまうことになります。

地球上には多様な生物が活動し、それぞれがつながっています。
同じように、人間の暮らし、文化、歴史、価値観なども多様です。
もし、たった一つの価値観だけが正しいと考えてしまえば、
それ以外の価値観を持つ国や文明は敵となってしまうでしょう。

世界各地に様々な気候や風土があり、さまざまな文化や生活があります。
それを無視して、現在一番隆盛な西洋文明や資本主義経済を、
全ての場所に押し付けるのは、まるでかつての植民地支配のようです。
自分の価値観や論理を世界中に強要するのではなく、
多様性を尊重する姿勢こそが、真のグローバルな姿勢だと思います。



(資本主義に代わる「人間主義」)

ブータンにはGDPの代わりにGNH(国民総幸福)の考え方があります。
多くの人の幸せを目指すならば、「すべての人」が「有意義な時間(人生)」を
過ごせることが第一ではないでしょうか。

資本主義の根源的な間違いは、「人間」よりも、「資本」の増加を、
第一に据えてしまったことです。
ならば、人間性を回復するためには、
「人間」を価値の中心にすえた「人間主義」の社会が実現すれば、
多くの人の幸せに結びつくのではないか。
そう考え、私多田は「人間主義」という言葉を作りました。
人間性重視という意味ではルネッサンスかもしれません。

資本主義と人間主義では、
対象となる人の「範囲」と、最重要の「もの」が異なります。
資本主義は「資本家」の立場に立ち「いかに多くお金を儲けるか」という
「カネ」の多さを良しとする価値観。

対して「人間主義」では、資本家という一部の人間ではなく、
「人間全体」の立場に立ち、すべての人が
「充実した時間」を過ごせているかを評価する価値観。
20世紀は「心の時代」になるとの予言もありました。

人間は利用され・消耗される「資源」でなく「主体(主役)」であるべきなのです。



(参考ブログ)
自治体バスの行く先は


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