2012年4月19日(木)
ソメイヨシノに続いて咲く八重桜もそろそろ盛を過ぎた昨今、靖国通りのトウカエデの葉は日に日に大きくなっています。今朝はハナミズキの花に出会いました。そして、ライラック、・・・と、コンクリートとアスファルトの都心ですが、通勤路で出会う春のお花達に癒されます。
ライラック(リラ)

ハナミズキ

ベニバナトキワマンサク

ヒメリンゴ

さて、ボブママが料理の本買ったけど作れそうもないので、「作って」と。隔週土曜も出勤のフルタイムの仕事なのでチン専門のボブママです。
私も新しい料理の本は楽しみなのでワクワクと・・
その本のレシピとこちらの冷凍・冷蔵庫の材料の中から先ずチョイスしたのが牛肉の佃煮風です。

昨日はこれらの料理を持ってボブちゃんのところへ行きました。
さて、奈良旅行の3日目を続けます。
2012奈良2泊3日 4月5日 雨時々曇
今回の旅行の計画でタヌキが比叡山から坂本におりよう。と、言い出しました。普通、比叡山は中学の修学旅行で行ったきりの人が多いと思います。比叡山は織田信長の焼き打ちのため堂宇はどんなに古くても江戸時代です。しかも、日本天台宗として開かれた延暦寺は仏像を拝むというより、経典を勉強する宗派なのでは魅力的な仏像があろうはずがありません。そのため大学時代のサークルでも比叡山を訪れるということはありませんでした。しかし、タヌキは日本仏教史という観点からは比叡山は重要と考えています。
タヌキの考えを私の言葉でざーとまとめます。
その1、 桓武天皇の希望の星・最澄は遣唐使の一行とともに804年に唐に渡たりました。最澄は法華経を最高の経典とする天台山(天台宗)に直行して学びました。翌年805年に遣唐使一行と帰国し、天皇から比叡山を賜って、持ち帰った天台宗の経典をもとに日本天台宗を開きました。最澄は比叡山にすべての経典(円(天台)・密・禅・戒)を備えたいと思ったのですが、唐での滞在が1年だったので、当時流行していた密教の経典まで手に入れることはできませんでした。最澄と同じ年の遣唐使の一行には私費留学生・空海もおりました。空海は都の唐で密教を学び806年に帰国しました。最澄は空海から密教経典を拝借しようとしましたが、断られてしまいました。結局、生前には密教経典入手はできずを弟子に託すことになりました。それをかなえたのが弟子の円仁・円珍でした。最澄のもう一つの願いである比叡山に大乗戒壇を設けることも、生前中は朝廷から許可が下りず、死後になりました。
※天台宗 中国・隋の時代に智ぎ(<ぎ>の漢字が出ない)が成立させた。釈迦の教え(経典)の重要度の順に並べ、最高の経典を法華経とした。
その2、最澄の死後の9世紀に、円仁、円珍により天台宗に密教が導入されました。そこで、比叡山を台密・空海の真言密教を東密とよぶようになりました。そこで、円仁から始まるのですが、天台と密教はどちらが上であるかという問題を抱えることになり円珍を経て、9世紀の終わりには比叡山で密教の方が上であると結論ずけることになってしまいました。また、天台宗での悟りの方法は摩訶止観というものがあります。それにはいくつかの修業方法があります。その1つが常行三昧です。9世紀の中ごろに比叡山に堂を作って常行三昧をおこなうようになりました。(当時は南無阿弥陀仏と唱えながら堂内を回っていたわけではないようです)
その3、比叡山は優秀な僧侶でなければ入門が許されませんでしたが、誰一人摩訶止観で悟りを得るものはいませんでした。また、密教も並行して行われましたが、密教は呪文を唱えたり儀式を行ったりと修業というものはありませんでした。しかし、比叡山の僧侶は修行をしたかったので、10世紀に比叡山では浄土教の経典をよみ、常行三昧堂で念仏を盛んにおこなうようになります。
その4、10世紀の後半に横川の源信が『往生要集』で極楽浄土と地獄のことを著しました。
このように日本天台宗は密教化と浄土教への傾斜が強くなってしまい、本来の釈迦の教えとはかけ離れていったようです。その経過を比叡山の堂宇を見ながらたどってみようと4月5日冷たい雨のなか厳しいルートをたどることになってしまいました。
(2012年4月21日更新)
ソメイヨシノに続いて咲く八重桜もそろそろ盛を過ぎた昨今、靖国通りのトウカエデの葉は日に日に大きくなっています。今朝はハナミズキの花に出会いました。そして、ライラック、・・・と、コンクリートとアスファルトの都心ですが、通勤路で出会う春のお花達に癒されます。
ライラック(リラ)

ハナミズキ

ベニバナトキワマンサク

ヒメリンゴ

さて、ボブママが料理の本買ったけど作れそうもないので、「作って」と。隔週土曜も出勤のフルタイムの仕事なのでチン専門のボブママです。
私も新しい料理の本は楽しみなのでワクワクと・・
その本のレシピとこちらの冷凍・冷蔵庫の材料の中から先ずチョイスしたのが牛肉の佃煮風です。

昨日はこれらの料理を持ってボブちゃんのところへ行きました。
さて、奈良旅行の3日目を続けます。
2012奈良2泊3日 4月5日 雨時々曇
今回の旅行の計画でタヌキが比叡山から坂本におりよう。と、言い出しました。普通、比叡山は中学の修学旅行で行ったきりの人が多いと思います。比叡山は織田信長の焼き打ちのため堂宇はどんなに古くても江戸時代です。しかも、日本天台宗として開かれた延暦寺は仏像を拝むというより、経典を勉強する宗派なのでは魅力的な仏像があろうはずがありません。そのため大学時代のサークルでも比叡山を訪れるということはありませんでした。しかし、タヌキは日本仏教史という観点からは比叡山は重要と考えています。
タヌキの考えを私の言葉でざーとまとめます。
その1、 桓武天皇の希望の星・最澄は遣唐使の一行とともに804年に唐に渡たりました。最澄は法華経を最高の経典とする天台山(天台宗)に直行して学びました。翌年805年に遣唐使一行と帰国し、天皇から比叡山を賜って、持ち帰った天台宗の経典をもとに日本天台宗を開きました。最澄は比叡山にすべての経典(円(天台)・密・禅・戒)を備えたいと思ったのですが、唐での滞在が1年だったので、当時流行していた密教の経典まで手に入れることはできませんでした。最澄と同じ年の遣唐使の一行には私費留学生・空海もおりました。空海は都の唐で密教を学び806年に帰国しました。最澄は空海から密教経典を拝借しようとしましたが、断られてしまいました。結局、生前には密教経典入手はできずを弟子に託すことになりました。それをかなえたのが弟子の円仁・円珍でした。最澄のもう一つの願いである比叡山に大乗戒壇を設けることも、生前中は朝廷から許可が下りず、死後になりました。
※天台宗 中国・隋の時代に智ぎ(<ぎ>の漢字が出ない)が成立させた。釈迦の教え(経典)の重要度の順に並べ、最高の経典を法華経とした。
その2、最澄の死後の9世紀に、円仁、円珍により天台宗に密教が導入されました。そこで、比叡山を台密・空海の真言密教を東密とよぶようになりました。そこで、円仁から始まるのですが、天台と密教はどちらが上であるかという問題を抱えることになり円珍を経て、9世紀の終わりには比叡山で密教の方が上であると結論ずけることになってしまいました。また、天台宗での悟りの方法は摩訶止観というものがあります。それにはいくつかの修業方法があります。その1つが常行三昧です。9世紀の中ごろに比叡山に堂を作って常行三昧をおこなうようになりました。(当時は南無阿弥陀仏と唱えながら堂内を回っていたわけではないようです)
その3、比叡山は優秀な僧侶でなければ入門が許されませんでしたが、誰一人摩訶止観で悟りを得るものはいませんでした。また、密教も並行して行われましたが、密教は呪文を唱えたり儀式を行ったりと修業というものはありませんでした。しかし、比叡山の僧侶は修行をしたかったので、10世紀に比叡山では浄土教の経典をよみ、常行三昧堂で念仏を盛んにおこなうようになります。
その4、10世紀の後半に横川の源信が『往生要集』で極楽浄土と地獄のことを著しました。
このように日本天台宗は密教化と浄土教への傾斜が強くなってしまい、本来の釈迦の教えとはかけ離れていったようです。その経過を比叡山の堂宇を見ながらたどってみようと4月5日冷たい雨のなか厳しいルートをたどることになってしまいました。
(2012年4月21日更新)