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K RAUM  お料理を主に日々のことを書いています。

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晩ご飯に作った料理・道端に咲いているお花の写真などのブログです。

伊豆へ遠足その5 江川邸

2008-11-09 23:01:35 | 歴史
撮影日2008年11月5日


伊豆の国市 韮山の江川邸

玄関

ご門とお玄関ですが、どこかで見たような、と、お気付きの方はいらっしゃいますか。

NHK大河歴史ドラマ『篤姫』の今泉の島津家のロケ地だそうです。

上の写真の左に篤姫の写真がありました。
拡大しますね。


江川家は韮山を拠点に江戸時代に伊豆・相模・甲斐・武蔵の幕府直轄領(天領)の代官を務めました。通常、代官は世襲ではなく数年で任地を移りますが、江川家は江戸幕府開始から幕末まで世襲の代官でした。
江川家の先祖をたどれば、清和源氏とのことですが、保元の乱(1156年・後白河天皇と崇徳上皇の争い)の敗者・崇徳上皇側だったので、伊豆に落ちのびました。その後、頼朝の挙兵に参加して鎌倉幕府に仕えました。16代英親(ひでちか)は日蓮に出会って改宗し、それ以後今日に至るまで熱心な日蓮宗の家になりました。さらに、室町幕府に仕え、北条早雲が韮山城主になると家来になりました。そして、江戸幕府を開いた家康に仕え、代官職を得ました。
ま~~~よく生き延びたお家ですこと

江戸時代、江川家の代々の当主は代官として農民の生活向上に力を入れました。その中でもとりわけ36代英龍(1801~1855)は当時(化政文化)の最高の教育を受け、農業改革や嘉永年間に種痘の技術が伝わると、領民への接種を積極的に推進しました。こうした領民を思った英龍は領民から「世直し江川大明神」と呼ばれ敬愛されました。さらに蘭学を修め西洋の砲術技術を学び幕府の海岸防衛でも働きました。1853年アメリカのペリー艦隊が来航して江戸幕府に開国を要求すると、老中阿部正弘は江川英龍にお台場建設を命じました。そのため、韮山に銃砲鋳造のための反射炉を建設しお台場に砲台を設置しました。さらに、ペリーの再来日に際して交渉に幕府側として農民からなる鉄砲隊を率いて参加しました。
江川英龍は日本のレオナルド・ダ・ヴィンチといわれるように豊富な知識で多くの活動した人物です。


敷地内の役所跡


井戸

この井戸水で江川家はお酒を作っていたそうです。早雲も家康も美酒と褒めたそうです。
江川家って江戸時代の武士の規格外のおうちだったのですね


土間のかまど


生きたケヤキをそのまま柱にしたそうです。


パン焼き釜 1842年に初めて焼いたとのこと。
長崎で試されていたオーブン型のパン窯で、軽くて、日もちのするパンを焼き 農兵の携帯食としました。
パン祖と言われています。


ボートホーウィッスル砲車 
ペリーの再来日(1854年、日米和親条約締結)の時に幕府に贈られたものです。


お玄関の中からご門の方を撮りました。


詳しくは江川邸の公式ホームページを是非ご覧ください。クリック


江川邸の受付で反射炉への道を聞くと、山を越える、とのこと。
えっ コッコーがビックリした顔をしたのか、2~30分で行けますよ、とのことでした。


いよいよ、反射炉です。


つづく


伊豆へ遠足その4 頼朝挙兵

2008-11-09 15:32:34 | 歴史
1159年、平治の乱で源義朝さまが平氏に討たれたため、頼朝さまは謀反人の嫡子ということで、伊豆国蛭ガ小島に配流になりました(1160年)。1177年?ころでしょうか、頼朝さまは平氏側の北条時政の長女政子さまと結婚なさいました。この時以降、頼朝さまは北条氏の館でお暮らしだったようです。
この頼朝さまが歴史の流れに大きく関係しますのは1180年の以仁王の令旨を受け取ってからです。
すこし歴史をさかのぼりますと、1159年の平治の乱で源氏の勢力を一掃することになった平清盛さまは太政大臣にまでご出世なさいました。「平氏にあらずんばひとにあらず(平家物語)」と言われるほど、平氏一門は勢いづいていました。清盛さまは娘徳子を高倉天皇と結婚させ、その皇子(安徳天皇)を1180年5月に天皇に即位させました。
後白河院は清盛さまの勢いを苦々しくお思いになり、密かに平氏打倒をお考えでした。院にとっては武士はガードマン程度でよいとのお考えですから、清盛さまの繁栄は我慢できるはずがありません。しかし、院自身は兵力を動かす力も能力もないので武士頼みです。そこで、全国にひっそり身を隠している源氏を頼らざるをえなくなりました。後白河院の皇子である以仁王を動かし、平氏打倒を呼びかける令旨を全国の源氏に発しました(1180年4月)。この動きを清盛さまに知られてしまったので、以仁王さまは源氏の中でただ一人都でお役を頂いていた70歳になる源頼政さまと挙兵しました、が、両名とも5月に打たれてしまいました。ですが、以仁王の令旨に呼応して8月に伊豆の頼朝さまが、9月に木曾の義仲さまが挙兵しました。
北条氏の館で源行家さまから以仁王の令旨を受け取った頼朝さまは北条氏の家子・郎党と各地から数名集まった武士の力を得て1180年8月17日に山木の目代平兼隆の夜討ちを決行することになりました。これが、頼朝さま挙兵のあらましです。挙兵は成功したものの、直後の石橋山の合戦で破れてしまい、頼朝さまは真鶴から舟で安房に逃亡することになります。
☆平安時代末期は知行国制度が広がっていました。この時期のこの制度は朝廷、といっても実質上は院に働きがあったものへのご褒美として国を知行(治める)する権力を与えました。知行主はその国の国司を任命できました。伊豆国は保元の乱(1156年)以降、源頼政が知行主でしたが、1180年5月に謀反人として討死したので、伊豆国の知行主は平時忠となり、その時、山木郷の目代に平兼隆が就きました。

ご参考までに、この話の史料として義経記・源平盛衰記をあげておきます。


義経記ぎけいき(日本古典文学大系・岩波書店)から一部抜粋

頼朝謀反の事
治承四年八月十七日に頼朝謀反起こし給いて、和泉の判官兼隆を夜討ちにして、同十九日相模国の小早川の合戦に打負けて、土肥の杉山に引籠もり給ふ。大庭三郎、股野五郎、土肥の杉山を攻むる。二十六日の曙に伊豆国真鶴崎より舟に乗りて、三浦を志して押出す。折節風激しくて、岬へ船を寄せかねて、二十八日の夕暮れに安房国洲の崎というところに御舟を馳せあげて、その夜は瀧口の大明神に通夜ありて、夜と共に祈誓をぞ申されけるに、明神の示し給ふぞと覚しくて、御寳殿の御戸を美しき御手にて押開き、一首の歌をぞあそばしける。
源は同じ流れぞ岩清水たれ堰きあげよ雲の上まで
兵衛佐殿夢打覚めて、明神を三度拝し奉りて、
   源は同じ流れぞ岩清水堰きあげて賜べ雲の上まで
と申して、明くれば洲の崎を立ちて坂東、板西にかかり、真野の館を出、小湊を渡して、・・・・・

源平盛衰記(国民文庫)から一部抜粋
八牧夜討事
・・・・・・(略)・・・・・・・同八月十五日国々八幡の放生会も過ぬ。十六日に北条を招て、和泉判官兼隆と云は、平家の傍親和泉守信兼が嫡男也。(有朋上P660)八牧の館にあれば、八牧判官と云。院宣を給る上は、先兼隆を夜討にすべし、急ぎ相計と宣けり。北条尤然べく候、但今夜は三島社御神事にて、国中には弓矢をとる事候はず、明日十七日の夜討也、内々人々可被仰含とて出にけり。十七日の午刻に佐々木太郎定綱を召て、額を合て被仰けるは、頼朝謀叛を起すべきよしを、京都既に披露有なれば、定て兼隆景親等に仰て、其沙汰有ぬと覚ゆ。されば先試に兼隆を可誅、我天下を取べくは可討得、運命限あらば、討得事難かるべし、吉凶唯此の事にあらん、今夜則夜討を入べし、・・・・・・・・
・・・(略)・・佐殿景廉を呼返して、火威の鎧に白星の甲取具して、其上に夜討には太刀より柄長物よかるべし、是にて敵の首を取て進よとて、小長刀を給ふ。是は故左馬頭義朝の秘蔵の物也けるを、流罪の時父が形見にも見んとて、池尼御前に申請て下給ひたりける也。銀の小蛭巻に目貫には法螺を透して、義朝身を不放持れたりし宝物なれ共、且は軍を進んが為、且は事の始を祝はんとおぼして給にけり。景廉是を給て、佐殿の雑色一人州前三郎下人二人、已上五騎にて八牧城に推寄す。見れば時政南表に引退て扣へたり。景廉を見て、いかに御辺は、当時御勘当にて御座するにと問へば、俄に召て八牧が首貫進よとて、御長刀を給れり、是を見給へとて指出。抑北条殿宵より寄給たれば、城の案内知給たるらん、有の儘に語給へ、私の軍に非ず、君の御大事也と云。時政城の内の構様をば知ず、門より外に櫓あり、(有朋上P664)兵共櫓より下し矢に射る、櫓の前は大堀也二人あり、関屋が音のしつるは落ぬるか、返合て組や/\とぞ呼びける。関屋是を聞て、敵のたばかるを不知して、矢を放ける本意なさよ、人に詞を懸られて、さて有るべきに非ずとて、甲の緒を強くしめ、三尺五寸の太刀を抜、いづくへか落べき、関屋爰に在とて、にこと笑て出合たり。(有朋上P666)互に打物の上手にて、切たり請たり大庭を二度三度ぞ廻たる。加藤次は、角ては勝負急度あらじと思ひて、態と請け、其隙を伺て吾太刀をば投捨てつと寄り、鎧草摺引寄て、得たりやおうとぞ組だりける。上に成下になりころびける程に、雨打際のくぼかりける所にて、関屋下に成、加藤次上に乗係て、押へて首を掻てけり。首を太刀のさきに貫て、
鬼神の様に云つる関屋が頸、景廉分捕にしたりやと云て、抛出す。下部是を取て持たりけるを、北条乞取つて、鞍のしほでにぞ付たりける。去程に景廉は太刀をば投捨て、下人に持せたる長刀を取、甲をしめしころを傾て、縁の上へつと上り侍を見入たれば、高燈台に火白掻立たり。さしも人有とも見えず。景廉進入処に、狩衣の上に腹巻著たる男の、大の長刀の鞘はづして立向たりけるを、景廉走違様にして、弓手の脇より妻手脇へ差貫て投臥たり。京家の者と覚えたり。軈て内へ攻入りて、寝殿をさしのぞいて見れば額突あり。燈白く掻立て、障子を細目に開て、太刀の帯取五寸計引残せり。見れば兼隆紺の小袖に上腹巻著て、太刀を額に当て、膝付居て、敵つと入らば、はたと切らんと覚しくて待懸たり。加藤次過せじとて、左右なくは不入、甲を脱いで長刀のさきに懸て、内へつと指入たり。待儲たる兼隆なれば、敵の入るぞと心得て、太刀を入て、はたと切る。余に強打程(有朋上P667)に、甲の星二並三並切削、鴨居に鋒打立て、ぬかん/\とする処に、傍の障子を蹈倒し、長刀の柄を取直して、腹巻かけに胸より背へ差貫、軈てとらへて頸を掻く。こゝに八牧を憑て筆執して有ける、古山法師に某の注記と云けるが、萌黄糸威の腹巻に、三尺二寸の太刀を抜て飛で係ければ、景廉走違て長刀をしたゝかに打懸たり。左の肩より右の乳の間へ打さかれて、其儘軈て死にける。即兼隆が頸片手に提、障子に火吹付て、暫、待て躍出。北条に向て仕たりとて、敵の首を捧たり。佐殿は遥に焼亡を見給ひて、景廉はや兼隆をば打てけり、門出能と独言して悦び給ける処に、北条使を立て、八牧の判官は景廉に討れ候ひぬ、高名ゆゝしくこそと申たれば、神妙神妙と感じ給へり。北条兼隆が頸を見て、
  法華経の序品をだにもしらぬみに八牧が末を見るぞ嬉しき K113 
と、景廉は宵よりの仰也ければ、頸をば給たりける長刀に指貫、高らかに指上て参たり。ゆゝしくこそ見えけれ。佐殿大に悦びて、八牧が首を谷川の水にすゝがせて、長櫃のふたに置れて、一時是をぞ見給ける。謀叛の門出に、さこそ嬉しく御座けめ。・・・・



頼朝挙兵の第一弾、山木の目代屋敷跡の石碑を発見

道幅2Mもないような小道に看板がありました。実は、この看板・平兼隆だったので御内人の誰かなのかなと思ってしまい通り過ぎて山木目代屋敷跡を探しました。
見つからないので引き返し、この看板の高台に上ってみようかと・・・・・。帰宅して調べてみると、確かにこれが山木の目代屋敷跡だったのです。
山木郷を見渡せる高台でした。このとき分かっていれば、上から人家を見下ろした写真を撮ったのに

山木目代館跡出なければ分からないわ

半信半疑で登り、どなたかのお住まいの敷地に入ってしまいました




跡館隆兼


このあと、少し引き返して、江川邸に行きます。


つづく






伊豆へ遠足 その3 韮山城

2008-11-08 21:09:40 | 歴史
撮影日2008年11月5日


蛭ガ小島から東へ徒歩で数分のところに韮山城址がありました。
韮山城は堀越公方の臣下の創建とのことです。
1493年、駿河の今川氏に仕えていた北条早雲(当時は伊勢新九郎)は堀越公方を滅ぼし韮山城を取り、改修して居城にしました。このことで伊豆の支配者になった早雲は、相模の国に進出して1495年に小田原城を奪取しました。
そうか、この辺りに堀越御所があったのか・・・。
(堀越公方について書き始めましたが長~~~くなるので、いずれの機会にします)

う~~~ん
伊豆って、鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府、すべての武士の政権の成立と幕末にかかわっている土地なのだな~~と、伊豆の歴史に注目するコッコーでした。

立て札の後方の森が韮山城址

城池の葦

このように背の高い葦は合戦の時には身を隠すことが出来るのではと・・・。


池の後方の森が韮山城址


池を背に東に歩きながら山木の目代跡を探す道々の自然

これは、なんじゃ

わ~~みごと



つわぶき



チロリアンランプ





つづく





伊豆へ遠足その2 伊豆の国市「蛭ガ島公園」

2008-11-07 20:35:48 | 歴史
頼朝の流刑地の一帯を伊豆の国市は蛭ガ島公園として整備しています。
※伊豆の国市(田方郡伊豆長岡町・韮山町・大仁町が2005年4月1日合併)
その1に掲載しました源頼朝と北条政子の像と蛭ガ小島の石碑はこの公園内にあります。


兎にも角にも食事をしなければと、茶屋に入りましたが、ほとんどのメニューは土日用でウィークデイはそばとうどんくらいでした。それでもありがたいと、、、



おそばが出てきたのですが、、、めんつゆがない
調理場から「つゆを忘れちゃったこの3人のメンバーだからよかったわ」と、聞こえてきました。

聞いてみるとこの茶屋は市で建てたもので、市民が輪番で運営しているとのことでした。めんつゆを運んできてくれた女性が、「今日の当番の男性は先生だったので、歴史に詳しいのでお尋ねくださいね」と教えてくれました。

店内に並んでいるみやげ物に竹細工があったので「ココの生産ですか」と聞くと「そうですよ」その言葉に国産の竹細工とは貴重だな、と思って、いくつか実用品を買いました。

全部で700円です。

男性の方は土日にボランティアガイドとして、周辺を案内しています。「今日は茶屋に詰めていますので公園内だけご案内しましょう」

「蛭島碑記」
源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に残そうと、江戸時代に「豆州志稿」(1790年秋山富南著)が書かれました。この著に基づき徳川家の家臣飯田忠晶がこの石碑を建立しました。(説明の立て札を参考にしました)

この石碑があるということで、この地を頼朝の流刑地となったそうです。さらに、ここは蛭ガ島という地名で、蛭ガ小島という地名はないとのことでした。大島では流刑者にふさわしくないということで蛭ガ小島となったようだと、ボランティアガイドさんは説明しました。さらに、頼朝は狩野川の中州を点々と移動していたのではないかと思われるとも説明していました。
当時、狩野川は何処を流れていたのか、と、聞くと「度重なる洪水で流れを大きく変化させ、さらに、河川工事で蛭ガ島公園より離れた西側を南北に流れています」と、いうことでした。


秋山富南の頌徳碑「豆州志稿」増訂にあたった荻原正夫が明治26年に建立



「このあと江川邸と反射炉を是非訪問してください」とのことでした。コッコーは「山木の目代の屋敷跡は分かりますか」「一般の住宅内なので、私がご案内すれば分かりますが、まず、お分かりにならないでしょうね。土日だったらご案内するのですが」




さらに、公園の一角に江戸時代の農家の遺構が移築されていました。


伊豆の国市 歴史民俗資料館  (旧上野家住宅 旧韮山町)

江戸時代初期から続く上野家の住宅で、記録がないが、18世紀以前の構築と思われるとの説明書きがありました。
この住宅の特長は土間が広く、中央の2本の柱は軒までとどく棟持柱となっていることです。

 

広い土間には農具等が展示

たかす(ニワトリ)
あら、夜は頭上だったのかしら。

風呂鍬

これは平鍬でフォークのようになっている備中鍬以前のものです。備中鍬は江戸時代に普及します。




これから、江川邸と反射炉に行きま~~す。 
写真はすべて2008年11月5日撮影


つづく



伊豆へ遠足 その1

2008-11-06 23:59:25 | 歴史
2008年11月6日(木)

アメリカ大統領選挙、オバマ氏勝利

アメリカの独立を勝ちえた時の合衆国憲法制定(1787年)では13州がまとまるために黒人奴隷の問題は棚上げしてしまいました。80年後、リンカン大統領は南北戦争中に合衆国統一の手段として1863年1月1日「奴隷解放最後布告」(合衆国に対し謀叛の状態にある州あるいは州の指定地域のうちに奴隷として所有されているすべての人々は、その日ただちに、またそれより以後永久に、自由を与えられる)を行ないました。しかし、その後も南部の諸州では黒人(以下の文中ではアフリカ系アメリカ人と書きます)を合法的に差別していました。例えば、交通機関やレストラン、学校などの公共機関で白人と黒人を分離していました。このほか識字率の低い黒人の投票権を事実上制限したり、住宅を制限することも合法とされていました。1955年アラバマ州でバスの白人専用シートに着席したアフリカ系アメリカ人が逮捕されとことをきっかけに南部諸州で差別反対運動が盛り上がりました。これらの運動は黒人をはじめとする有色人種がアメリカ合衆国市民(公民)として法律上平等な地位を獲得することを目的としていたので、公民権運動と呼ばれています。1961年に大統領に就任したケネディは南部諸州の人種隔離法を禁止する法案を次々に成立させました。残念ですがケネディ大統領は1963年に凶弾に倒れました。その政策を受け継いだジョンソン大統領は公民権法を成立(1964年)させました。これで、法律上、アフリカ系アメリカ人は市民として平等になりました。それからほぼ半世紀、黒人奴隷の子孫ではないけれどアフリカ系アメリカ人の大統領就任は、歴史の流れの強さを感じます。ブッシュ大統領の失われた8年間でアメリカは内外に問題山積です。次期大統領はどのように乗り越えていくでしょうか。日本のメディアはオバマ氏が大統領になったら日本にどのような影響があるかということを言いますが、日本独自の平和外交を基本方針に進むことを望みます。日本にとって、アメリカは宗主国ではないのですから。




前置きが長くなりましたが、昨日は「アジのたたき」を食べたいなと、タヌキとコッコーは伊豆まで遠足に出かけました。
起点の東京メトロ中野坂上駅でスイカに5000円チャージして出発しましたが、、、、、なんと、小田原から先はスイカが利用できずこんなものなのかしら、、、スイカは全国的なものではないと知ったコッコーです。

新宿発小田急線小田原行き9:04⇒小田原発JR線熱海行き⇒熱海発JR線島田行きの三島下車⇒三島発箱根登山鉄道修善寺行き韮山下車

小田原でJRに乗り換え

小田原から三島への直通がないので、先ずは熱海まで

熱海で三島行きに乗り換え

三島から箱根登山鉄道修善寺行きに乗り換え
単線でした。

韮山に着いたのは正午過ぎでした。駅前で何か食べられるかなと思ったのですが、何もなし



韮山駅を背に、のどかな田んぼが続く道を東に真直ぐすすみました。





いずれのおほんときか、、さぶろう、、さぶろう、あまたある中に頼朝さまがいらっしゃいました。頼朝さまは源氏の棟梁のご子息でしたが14歳まで都でお役をいただき貴族の社会で生活なさっていました、が、1159年にお父様の義朝さまが平清盛さまの熊野詣の隙に後白河院と二条天皇を幽閉してしまいました。この異変を知った清盛さまは都に引き返して後白河院と二条天皇を助け出し、義朝さまを討ちました。これを平治の乱と言います。親の因果が子に報いということでしょうか、頼朝さまは捕らえられました。本来ならば処刑されるわけでしたが、運良く清盛さまの義理のお母さまの池禅尼さまに命だけは助けられ、伊豆に配流になりました。頼朝さまの流刑地の位置の史料はないので、いつの頃からか伊豆の蛭ガ小島に流されたということになりました。島と言うことは狩野川の中州に住まわれたようです。流人が大島ではということで小島となったようです。
頼朝さまの見張り役の北条時政さまのお嬢様と頼朝さまは結ばれましたので、狩野川の河原でデートをなさったのでしょうか。

韮山駅から15~20分くらいです。



政子の横に立ち富士山方面を撮りました。富士山お分かりになりますか。


今日は夜も更けましたので、明日に続きます。