K RAUM  お料理を主に日々のことを書いています。

伊豆へ遠足その2 伊豆の国市「蛭ガ島公園」

頼朝の流刑地の一帯を伊豆の国市は蛭ガ島公園として整備しています。
※伊豆の国市(田方郡伊豆長岡町・韮山町・大仁町が2005年4月1日合併)
その1に掲載しました源頼朝と北条政子の像と蛭ガ小島の石碑はこの公園内にあります。


兎にも角にも食事をしなければと、茶屋に入りましたが、ほとんどのメニューは土日用でウィークデイはそばとうどんくらいでした。それでもありがたいと、、、



おそばが出てきたのですが、、、めんつゆがない
調理場から「つゆを忘れちゃったこの3人のメンバーだからよかったわ」と、聞こえてきました。

聞いてみるとこの茶屋は市で建てたもので、市民が輪番で運営しているとのことでした。めんつゆを運んできてくれた女性が、「今日の当番の男性は先生だったので、歴史に詳しいのでお尋ねくださいね」と教えてくれました。

店内に並んでいるみやげ物に竹細工があったので「ココの生産ですか」と聞くと「そうですよ」その言葉に国産の竹細工とは貴重だな、と思って、いくつか実用品を買いました。

全部で700円です。

男性の方は土日にボランティアガイドとして、周辺を案内しています。「今日は茶屋に詰めていますので公園内だけご案内しましょう」

「蛭島碑記」
源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に残そうと、江戸時代に「豆州志稿」(1790年秋山富南著)が書かれました。この著に基づき徳川家の家臣飯田忠晶がこの石碑を建立しました。(説明の立て札を参考にしました)

この石碑があるということで、この地を頼朝の流刑地となったそうです。さらに、ここは蛭ガ島という地名で、蛭ガ小島という地名はないとのことでした。大島では流刑者にふさわしくないということで蛭ガ小島となったようだと、ボランティアガイドさんは説明しました。さらに、頼朝は狩野川の中州を点々と移動していたのではないかと思われるとも説明していました。
当時、狩野川は何処を流れていたのか、と、聞くと「度重なる洪水で流れを大きく変化させ、さらに、河川工事で蛭ガ島公園より離れた西側を南北に流れています」と、いうことでした。


秋山富南の頌徳碑「豆州志稿」増訂にあたった荻原正夫が明治26年に建立



「このあと江川邸と反射炉を是非訪問してください」とのことでした。コッコーは「山木の目代の屋敷跡は分かりますか」「一般の住宅内なので、私がご案内すれば分かりますが、まず、お分かりにならないでしょうね。土日だったらご案内するのですが」




さらに、公園の一角に江戸時代の農家の遺構が移築されていました。


伊豆の国市 歴史民俗資料館  (旧上野家住宅 旧韮山町)

江戸時代初期から続く上野家の住宅で、記録がないが、18世紀以前の構築と思われるとの説明書きがありました。
この住宅の特長は土間が広く、中央の2本の柱は軒までとどく棟持柱となっていることです。

 

広い土間には農具等が展示

たかす(ニワトリ)
あら、夜は頭上だったのかしら。

風呂鍬

これは平鍬でフォークのようになっている備中鍬以前のものです。備中鍬は江戸時代に普及します。




これから、江川邸と反射炉に行きま~~す。 
写真はすべて2008年11月5日撮影


つづく
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