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K RAUM  お料理を主に日々のことを書いています。

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晩ご飯に作った料理・道端に咲いているお花の写真などのブログです。

奈良へ2泊3日 平城宮

2010-04-12 20:30:27 | 歴史
(2010年4月7日撮影)



4月3日・10日にNHKドラマ『大仏開眼』をみながら「橘諸兄や藤原仲麻呂のイメージと合わないな」とか「大仏を偉大なものという前提から脱しないとドラマは書けないないな」とか文句を言いながらも年表片手に2回とも見てしまいました。今回の奈良へ2泊3日のコースはこのドラマを意識したのではありませんが重なる部分も多々ありました。数年前からネット上やTVの画面での平城宮の朱雀門を「あれ、ホントにあるの?」と、夢でも見ている印象だった世界を確認してきました。
2010年4月24日にオープンする『平城遷都1300年祭』の会場の準備真っ只中を見学しました。

以下の文は耳学問で書きましたので出典等書けません。
日本で初めて都造りをしたのは持統天皇の藤原京です。では、それ以前の天皇のお住まい=宮はどうだったのでしょうか。おそらく掘ったて柱(縄文時代に始まる日本の建築方法で穴を掘って柱を立てる)の小屋程度のものだったと思います。しかも天皇が代るごとに転々と住まいを移動していたようです。例えば大化の改新がおこった645年(皇極天皇)の時は飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)、その645年大化の改新中に皇極天皇は退位し、孝徳天皇が即位することになると都も移り難波宮となりました。、、、、天智天皇は近江大津宮、次の天武天皇は飛鳥浄御原宮というぐあいです。天武天皇の皇后で、天皇の後を継いだ持統天皇は日本で初めての藤原京=都を造営し、694年に遷都しました。その後、待望の大宝律令(律は刑法・令は行政法規)が701年に制定されると大宝律令にふさわしい都がほしくなって、平城京が造営されることになり、710年に平城遷都となりました。これより794年平安遷都までの期間を奈良時代といいます。藤原京も唐の都長安を手本にした都でしたが、藤原宮が都の中央に位置していたことが問題となったようです。中国では古来より『君主南面』といわれ、君主のお住まい=宮殿は都の最北に置かれました。そこで平城京ではその最北に平城宮を置きました。

※都は天皇の住まい=宮の周辺に天皇に仕える諸氏の住む地域など都市計画されて造営されたものです。その最初が藤原京694~710年(奈良県の畝傍山などの大和三山に囲まれた地域が中心)です、その次が平城京710~784年(桓武天皇が長岡京に遷都しますが天災や都造営長官が殺害されるなどの悪いことがおこったので長岡京造営を断念して平安京へ794年(~1868年)に遷都します。これら3つの京=都は唐の都長安を手本としたもので碁盤の目状に区画された条坊制を持つ都市です。
藤原京以前は天皇の住まい=宮の周辺に豪族たちが住まいを移すというように計画されたものではなく発展したようです。


平安遷都のあと平城京は歴史の中心から外れてしまい廃墟となり農地となりました。その平城宮の発掘は1967年から伸展し、ここ10年余りの間に朱雀門が復元され、現在は2010年4月24日『平城遷都1300年祭』に向かって大極殿復元工事完成が急がれ、祭典のイベント準備の真っ只中です。

復元地域は下図の平城京の最北中央(上中央)の平城宮部分です。



下図は平城宮の復元した部分を赤で示しました。但し、朝堂院は復元されていません。
緑の部分は礎石などです。

赤で示した大極殿・朱雀門・東院庭園が復元されています。
赤で示した大極殿と朝堂院(儀式や宴会会場)を第1次大極殿・第1次朝堂院と称しています。
緑の大極殿と朝堂院(儀式や宴会会場)を第2次大極殿・第2次朝堂院と称しています。

第1次は740年まで使用したもの。第2次は745年から使用したものだそうです。
740年から745年までの間に聖武天皇は平城京から恭仁京→難波京→紫香楽京へと都を転々と移し、再び745年に平城京遷都しました。

大極殿
朝廷の正殿 即位の礼などを行いました。


『平城遷都1300年祭』の準備のボランティアさんがお花の手入れをしていました。


第2次大極殿跡








朱雀門 
中国の古代思想に四神思想があります。南を守るのは朱雀で、平城宮の南の門の名前。
ここから南へ朱雀大路が羅城門まで伸びます。









東院庭園

エッうそーこれが奈良時代
寝殿造りみたい
解説では寝殿造りのルーツは奈良地代にアリとのことです。








枯山水のルーツも奈良時代とか



曲水

曲水の宴(きょくすい<ごくすい>のうたげ<えん>)は、水の流れのある庭園などでその流れのふちに出席者が座り、流れてくる杯が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み、出来なければ罰として盃の酒を飲むという行事である。流觴(りゅうしょう)などとも称される。略して曲水、曲宴ともいう。(『広辞苑』第二版)



南東隅のから八角の柱が地中から発掘されたので、復元したとのことですが、、、屋根の鳳凰は平等院を模したそうです。

八角柱



発掘でわかった当時の樹木を植えていました。





ヤマモモ



柳 花が咲いていました。




ミツバツツジ



平城宮を訪問した4月7日は朝方雨はやみましたが、曇天の寒い日でした。だだっ広い平城宮を歩くには厳しい寒さでした。朱雀門から大極殿を眺めながら、、、唐の都長安の冬の早朝、高官たちが登庁する姿を思い浮かべ、、、李白も鼻水をすすったのではと、、

ふと、『平安遷都1300年祭』が終わったら、この会場はどのようになるのかと、、、復興の意味を思うのでした。


続く


ノーベル平和賞授賞式

2009-12-11 23:52:39 | 歴史
2009年12月11日(金)雨

冷たい雨の一日でした。

12月10日(オスロ)、オバマ米大統領がノーベル平和賞受賞式で演説をしました。アフガンへの3万の兵士の追加増派を発表した直後のノーベル平和賞の受賞式というのもなにかしっくりきません。演説がお上手な大統領ということですが、イマイチ内容がスッキリしない感じでした。「武力行使が道徳的に正当化されることもある・・・・・・」アフガン・イラクへ軍隊を送っているのでそのような発言になるのでしょうね。

先人にはこのような話があります。最近、法然さんを調べていましたら・・・・法然さんは1133年、美作国(現在の岡山県)に生まれました。9歳の時に押領使を務めていた父が夜討ちをかけられ殺されます。臨終間際に少年の法然さんを呼び寄せ「決して仇を討ってはいけない。仇は仇を生み、憎しみは絶えることがなくなってしまう。それならばどうか、全ての人が救われる道を探し、悩んでいる多くの人々を救って欲しい」と遺言を残したとのことでした。2001年のブッシュに聞かせたい話ですね。法然さんのお父さんは立派な方だったのですね。法然さんはその後仏門に入り、とても優秀だったので13歳で比叡山へのぼりました。30年間、一切経(すべてのお経)を5回読んだということです。一生かけても一切経は1回も読めないほどのものだそうです。それを5回も読んだというのは、すごいですが、それでも覚ることはできませんでした。ですが、1175年、あるお経を読んでいて「南無阿弥陀仏を唱えれば救済される」と覚り、すべてのお経と行を捨てて比叡山をおりました。これが浄土教の始まりです。

また、激しい戦争に勝利した王が、戦争の悲惨さを反省し武器を捨てた話もあります。今から2200年余り前のインドの王のアショーカです。アショーカ王はインド初の統一国家マウリヤ朝の三代目の王です。現在のインドの領域をほとんど統一しましたが、残る南部地方、カリンガを攻めた時のことです。勇猛果敢なカリンガの民は強かったので、激戦だったとのことです。戦いに勝ったアショーカ王は悲惨な戦いの後を周ったのち、僧侶を呼び仏教の勉強を始めました。その後、30年ほどの治世は武器を捨て、人間も動物も大切にする政治をしました。アショーカはカリンガ征服ののち覚ったのでしょう。

もっともっと先人の考えを学び、兵器のない世界を祈念します。



ベルリンの壁崩壊から20年

2009-11-09 21:09:10 | 歴史
2009年11月9日(月) 晴



だいぶ古ぼけたTシャツですが、、、
東西分裂時代の検問所チェックポイントチャーリー辺りで2001年に買ったものです。


第二次世界大戦で敗戦したドイツは連合国側の占領下となりました。ドイツ全土の東側をソ連軍が、西側の北部をイギリス、その南をアメリカ(東)・フランス(西)の軍隊が駐留しました。そして、ベルリンはTシャツのように4カ国が分割して占領しました。その後、ドイツは1949年に独立しますが、大戦後まもなく米ソの対立による冷戦になってしまったので、占領国の境界線が国境なってしまい、東ドイツ・西ドイツとなりました。当時ベルリンには壁はありませんでしたが、西ドイツの順調な経済発展、しかし、東ドイツは貧しかったので、東ベルリンから西ベルリンへ人々が流れ込むので、東側は1961年に壁をつくり往来を厳禁しました。そして、この壁が東西冷戦の象徴となったのです。
東ドイツでは自由な旅行を禁じられていましたが、1989年11月9日に旅行許可の法律がでるのではという情報から、東の人たちは続々壁に集まってきました、、、詳しいことは分かりませんが、、、その日、壁は開かれ、東ベルリンの人々は西へ流れ込みました。この壁の東側には東ドイツの見張りが銃を構えて、西への逃亡を者を射殺する命令を受けていました、が、この時、見張りは誰一人銃を撃った者はいなかったとのことです。
壁が開かれるに当たっては政治家の命令でもなく民衆の大きなエネルギーのうねりだったのです。その日、日本人の多くはテレビにかじりついてライブを見ていました。コッコーもタネキも胸をワクワクさせて、我がことのように夢中になっていました。
1年後にドイツ統一が達成されました。コッコーはドイツ統一はありえないと思っていましたので、人間の力は奇跡をもたらすということを実感しました。
1999年にドイツを訪れた時にはオッシー(旧東のドイツ人)ベッシー(旧西のドイツ人)というお互いを悪い感じでいう言葉が使われていました。現在のドイツは東西の格差がますます進み、旧西側では東を助けるための税負担の不満、旧東側は失業率が10パーセントをこえ、旧西側の倍以上の失業者の現状に、統一前は失業者はいなかったと不満が増大して、オスタルギー(オスト(東)とノスタルギー(郷愁)の合成語)が広まっているようです。
メルケル政権はどのように国民に応えるのでしょうか。



横浜開港150

2009-05-14 21:08:56 | 歴史
2009年5月14日(木)


5月さわやかに・・・
日中の気温は22~3度、湿度も低くさわやかな晴れです。



民主党の小沢一郎代表は5月11日に辞任、鳩山氏と岡田氏が代表に立候補しました。鴻池官房副長官の女性スキャンダル問題での辞任(本人は体調を理由にしています)と民主党代表選が重なり民主党支持率が上がりそうですね。民主党の代表選は面白そうです。昨晩の報道ステーションに出演した岡田氏の政治の展望は堅実な具体性があるように感じました。


2009年5月13日
毎月第二水曜日の午後6時から東神奈川の地区センターでの勉強会に通い初めてほぼ1年半くらいになります。近くには生麦など、幕末の歴史に関係する見所がいくつかあるので時間に余裕があるときに見学したいと思うのですが、まだ実現していません。
通過するだけですが、歴史を感じるところを撮りました。

ここが神奈川地区センターです。
きれいな建物で管理もいいです。
閉館時刻まで何人も職員がいますので、私の住む中野区とは大違いです。。中野区の施設は土日の終日、平日の夜間は自主管理で職員はいません。

この地区センターの通りは江戸時代の東海道の松並木が復元されています。ただし、当時の東海道の道路ではありません。

この地区センターの入り口に江戸時代の高札が再現されています。

高札の位置も江戸時代の位置と同じではありませんが・・・・・

というわけで、このあたりが東海道の3つめの宿場、神奈川宿ですね。ちなみにお江戸日本橋→品川宿→川崎宿→神奈川宿です。

この地区センターの最寄の駅はJRの東神奈川と京急の仲木戸です。駅名は違いますが10Mくらいしか離れてません。


仲木戸も歴史のニオイを感ずる名称ですね・・・。


今年の横浜は開港150年と元気にイベントが行われています。

横浜開港150年??

ペリーの来航(1853年)でもないし、
日米和親条約(1854年)でもないし、
日米修好通商条約(1858年)でもないし・・
日米通商条約の発効(1859年)ですね。

アメリカのペリー率いる4隻の艦隊が浦賀沖にやってきたのは1953年でした。
ペリーは日本に開国と通商を求める大統領の親書を日本に届けました。当時、アメリカは南部の諸州での綿花栽培が盛んになり24時間操業で紡績を行っていました。まだ、電灯の無い時代だったのでランプの明かりで仕事をしていました。鯨の脂はランプにすすがつかないので、太平洋上での捕鯨を盛んに行っていました。その捕鯨船の燃料・水・食料の供給地として、日本の開港を切望して、日本の港を徹底的に研究していたようです。(アメリカは鯨の肉を食べないので、脂だけ切とってあとは捨てていました)ペリーは日本に1年の猶予を与え、すぐに日本を離れました。翌年1854年2月に再び江戸湾に来航し、日米和親条約をとりつけ、下田と箱館を開港させました。箱館はジブラルタル(大西洋から地中海への入り口、ここは現在もイギリス領)に似た地形なのでペリーが好んでいたようです。日米和親条約では両国の通商をしましょうという内容が含まれていなかったので、下田に領事としてやってきたハリスは次なる条約を迫り、1858年に神奈川湊沖で日米修好通商条約を締結しました。この条約で神奈川・長崎・箱館・兵庫・新潟を開港することになり、下田は閉鎖しました。
神奈川湊は近くに東海道の神奈川宿があったので、幕府としては神奈川湊を開港するのは都合が悪かったようです。そこで、神奈川湊の向かいの漁村横浜湊を1859年7月1日に開港しました。横浜開港150の由来はここにあるのですね。もし、神奈川湊が開港されていたなら。横浜高島屋もそごうも、JR東神奈川あたりにあったのでしょうね。
アメリカは横浜港を開港したので、条約に従わなかったと苦情を言ったそうですが、明治政府になって、横浜開港で押し通してしまったようです。
長い鎖国時代から開国を迫られた幕府側のあたふたぶりは書けませんでしたが、ペリー来航と日米和親条約の時の筆頭老中は阿部正弘、日米修好通商条約の時の大老は井伊直弼(1860年桜田門外の変で暗殺されています)です。
蛇足ですが、今年は沖縄にとって薩摩藩侵攻(1609年)400年目、沖縄処分(1879)130年目です。沖縄については機会を得たら書きます。
※ ハリスは通訳としてヒュースケンを雇って来日しました。ヒュースケンは下田の駐日総領事館の通訳として働きますが、1861年に攘夷派の薩摩藩士に襲われて死亡しました。
※ 1853年にペリーが来航すると、幕府は防備のために伊豆の代官江川龍英に江戸湾に砲台を設置するお台場を作ることを命じました。江川龍英は鉄の鋳造のために下田に反射炉を建造始めますが、下田が開港されることになり、反射炉を韮山に移してお台場の大砲台を完成させました。



紀友則の世界

2009-04-09 23:45:21 | 歴史
2009年4月9日(木)



時にはハラハラと、時にはサクラ吹雪と・・・
満開のサクラもいいですが、サクラが散るのもいいですね。




久方の 光のどけき 春の日に
      
    しづ心なく 花の散るらむ



現代の都会のサクラでは友則の世界を撮ろうとしても無理のような・・・・


この和歌は誰でも聞いたことがあると思いますが、この和歌の作者である紀友則はあまり馴染みがないのではと思いますので、耳学問ですが、少し説明します。
905年に完成した最初の勅撰和歌集「古今和歌集」の撰者は紀貫之らと書かれるのが一般的デス。その他の撰者の一人が紀友則です。40歳になっても官職を得られなかった友則の和歌を左大臣藤原時平は高く評価して、「古今和歌集」の撰者に推薦しました。残念ながら病のため「古今和歌集」完成前に没しました。
※ 藤原時平は899年に左大臣に就任しました。この時、右大臣には藤原道真がつきました。
時平は藤原北家という貴族の中でも最大の家柄なので、左大臣になるのは当然ですが、道真の位階では右大臣に就任するのは異例のことでした。そこで多くの貴族からねたまれました。それを利用して時平は道真を大宰府に左遷させてしまいます。道真は大宰府に到着しましたが長旅の疲れで病となり失意のうちに死んでしまいます。
時平は醍醐天皇の御世に左大臣として政治手腕を発揮しますが39歳の若さで病死します。人は道真のたたりといいます。
時平は道真を蹴落としたことで悪く言われることもありますが、紀貫之よりも和歌の才能をもつ友則を撰者にした時平の教養はたいしたものだったと思います。