私的海潮音 英米詩訳選

数年ぶりにブログを再開いたします。主に英詩翻訳、ときどき雑感など。

雑記:楽園の復活 ⑥

2009-12-11 21:10:32 | 自作雑文 楽園の復活
  楽園の復活―マイ・コールド・プレイスー ⑥




 世にあまたある物語に私が求めた「楽園」とは、過去にあり、未来にあり、そして現在にはないものであったらしい。異世界を舞台としたファンタジー作品に限らず、私が愛する文芸作品はみなその「楽園」の香気をそなえているように思う。具体的にまず浮かぶものは、わが長年の愛読書たる井上靖の自伝的小説『しろばんば』である。十歳前後のころにはじめて出会って以来、なぜそうも惹かれるのかまったく分からず――むろん分かろうとも望まないまま、私はこの作品を長く愛しつづけてきた。それはつぎのようにはじまる。

 
 そのころ、と言っても大正四五年のことで、いまから四十数年前のことだが、夕方になると、決まって村の子供たちは口々にしろばんば、しろばんばと叫びながら、家の前の街道をあっちに走ったり、こっちに走ったりしながら、夕闇のたてこめ始めた空間を綿屑でも待っているように浮遊している白い小さい生きものを追いかけて遊んだ。……〈中略〉……そして明るいうちは、ただ白く見えたが、夕闇が深くなるにつれて、それは青味を帯んでくるように思えた。

 
 三人称のかたちをとっているものの、ここには確固としたひとりの語り手がいる。「いまから四十年数前」の少年時代を思いおこす少年ならざる語り手である。「そのころ」が大正四五年であることは明記されているものの、この冒頭で語りだされる思い出を過去のある一点に定めることはできない。繰りかえされる「―だ」や「―た」という語尾がしめすものは、明確な過去の一点ではなく、一定のはばをもつ過去のひとときである。回想の枠の内で閉じたままつづく日暮れどきのなかで、夕闇が深まるにつれて、子供たちは「それぞれの家の者」の声に呼ばれて「ひとり減りふたり減り」してゆく。そして、少年時代の語り手自身なのであろう主人公だけが、「夕食を知らせにおぬい婆さんがやって来るようなことはめったになかった」ために、他の子供がいなくなるまで「遊んでいるのが常だった」と語られる。
 夕闇が近づく街道につねに最後まで残る少年。寂しい語り出しである。だがとても美しい。「そのころ」の少年自身が自覚していたようには書かれないものの、この「寂しさ」と「美しさ」の二つの要素が、少年ならざる語り手が未来から思いおこす少年時代の全体を淡く覆い尽くしている。私はそこに、前に挙げたいくつかのファンタジー作品の内に見出したのと同じほど濃い「楽園」の香気をかぎとる。緻密だが少なくとも私にとってはさして身近ではない生活描写や、あざやかな色彩の描写や、無自覚の母恋いを滲ませる若い叔母への思慕など……私の心を惹きつけてやまないそうした「楽園」的な要素は、ありふれた言葉で言いかえれば「詩情」のひと言で表せるのかもしれない。
 「詩情」とは便利な言葉である。わけもなくひどく心惹かれるものに対して「この作品には詩情がある」と評価しておくと、ひとまずそこで思考を停止できる。しかしいったいそれはどういうことなのだろうか? 私が「詩情」を、すなわち「楽園」の香気を感じる作品とは、ここまでに見る限りでは、みな作中に日常生活とは時間軸が異なる「閉ざされた異世界」をもち、なおかつ、その世界が視覚的にたやすく思い浮かべられるだけの技巧をもって描かれているものであるように感じる。

 続