楽園の復活―マイ・コールド・プレイス― ⑭
「今ここ」。「今ここ」。「今ここ」。今ここばかりのエンターテイメントに私は疲れ果てている。そして切実に「楽園」の香気をもつ娯楽作品を捜している。できれば現代の日本語で書かれたものを。捜索範囲は主に「ファンタジー」と「歴史小説」のジャンルである。しかし、これがなかなか見つかってくれない。遠慮を捨てて断言すると、たいていの場合、まず文体がさして美しくない(トールキン翁だってさしたる名文家とは思わないが、とりあえず、たいへん丁寧ではある)。
さらに、さして丁寧ならざる散文で綴られる内容もたいていはあまり美しくない。美しくないというより隅々まであまりに現実的すぎるのかもしれない。キャラクタからしてそうなのだ。「楽園」の住人は必ずしも善良でなくてもいい。だが卑近であってはいけない。美しからざるこの私が感情移入するに足るリアルで等身大の人間味にあふれる生きものが主役や狂言回しを務めるのはいい。だがすべてのキャラクタが人間味に溢れている必要はない。他者は理解できないからこそ他者である。「楽園」の深くに住まう私ならざる何かとまで相互理解を深める必要はないのだ。――とはいえ、すべてのキャラクタが完全に「人ならざるもの」となると、これはダンセイニ卿の神話の世界になってしまうだろうが。要は対比の問題である。登場人物がすべてホビットであってはいけない。しかしすべてエルフであってもいけない。両者はあくまで交わらず併存していてくれなければ。
舞台設定についても同じである。非日常は日常によってのみ際だつ。その意味で、現実と同じほど現実的な虚構世界はもちろんすばらしいが、そこに現実ならざる何かを垣間見るのでなければ、なにも虚構の世界に遊ぶ必要はないのだ。
続
「今ここ」。「今ここ」。「今ここ」。今ここばかりのエンターテイメントに私は疲れ果てている。そして切実に「楽園」の香気をもつ娯楽作品を捜している。できれば現代の日本語で書かれたものを。捜索範囲は主に「ファンタジー」と「歴史小説」のジャンルである。しかし、これがなかなか見つかってくれない。遠慮を捨てて断言すると、たいていの場合、まず文体がさして美しくない(トールキン翁だってさしたる名文家とは思わないが、とりあえず、たいへん丁寧ではある)。
さらに、さして丁寧ならざる散文で綴られる内容もたいていはあまり美しくない。美しくないというより隅々まであまりに現実的すぎるのかもしれない。キャラクタからしてそうなのだ。「楽園」の住人は必ずしも善良でなくてもいい。だが卑近であってはいけない。美しからざるこの私が感情移入するに足るリアルで等身大の人間味にあふれる生きものが主役や狂言回しを務めるのはいい。だがすべてのキャラクタが人間味に溢れている必要はない。他者は理解できないからこそ他者である。「楽園」の深くに住まう私ならざる何かとまで相互理解を深める必要はないのだ。――とはいえ、すべてのキャラクタが完全に「人ならざるもの」となると、これはダンセイニ卿の神話の世界になってしまうだろうが。要は対比の問題である。登場人物がすべてホビットであってはいけない。しかしすべてエルフであってもいけない。両者はあくまで交わらず併存していてくれなければ。
舞台設定についても同じである。非日常は日常によってのみ際だつ。その意味で、現実と同じほど現実的な虚構世界はもちろんすばらしいが、そこに現実ならざる何かを垣間見るのでなければ、なにも虚構の世界に遊ぶ必要はないのだ。
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