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私的海潮音 英米詩訳選

数年ぶりにブログを再開いたします。主に英詩翻訳、ときどき雑感など。

リチャード・ウィルバー 汝妹よ 三~六連目

2019-12-07 23:20:29 | 雑感
She
Richard Wilbur

But then she changed, and coming down amid
The flocks of Abel and the fields of Cain
Clothed in their wish, her Eden graces hid,
A shape of plenty with a mop of grain,

She broke upon the world, in time took on
The look of every lavour and its fruits.
She cupped her patient hand for attributes,

Was radiant captive of the farthest tower
And shed her honour on the fields of war,
Walked in her garden at the evening hour,
Her shadow like a dark ogival door,

Breasted the seas for all the westward ships
And, come to virgin empires, changed again-
A moonlike being trust in eclipse
And subject goddess of the dream of men.


しかしそのとき彼女は変わって 近づき下ってきた
アベルの群れどもとカインの原野へと
彼らの願いを纏って 彼女の楽土は優美さを隠し
穀物の塊の豊かな形を隠した

彼女はこの世で毀れた あらゆる労苦と
その果実の見せかけを受け入れたときに
襞をとる薄物の衣を纏った円柱の姿で
耐え忍ぶその掌〔テ〕に属性を注がせ

最果ての塔に囚われた輝ける虜となって
その誉れを戦いの野へと流して
黄昏時に苑を歩む
その影は弧を描く昏い扉と似て

西へと向かうすべての船のための海どもを胸に受け止め
処女の帝国へと来たりてまた変わり――
月と似た真正の蝕へと向かい
男らの夢の内で平伏す女神となった


 *読めば読むほど不思議な詩です。どことなくT・S・エリオットの「灰の水曜日/Ash wednesday/Ash」 Ⅱを思い出させます。エリオットは1888生まれでウィルバーは1912年。影響や交友関係を調べてみたいものです。
「灰の水曜日」は当ブログの2014年9月5日に全文と訳をまとめて載せております。私が思い出したのはそのⅡの途中の「骨どものさえずりうたった」歌のくだりでした。

 しじまの貴女よ
 おだやかに 苦しめられ
 引き裂かれ なおまったき
 思い出のばらよ
 忘却のばらよ
 疲れはて 命あたえる
 惑いつつ安らかな
 ただひとつのばらが
 いま庭にあります
 あらゆる愛の終わるところに
 かぎりある愛の
 苦しみは充ちず
 より大きな愛の苦しみに充たされているところに
 果てなき旅路の
 はての果てを
 結びえぬすべての
 結びを
 ことばなき語りと
 語りなきことばを
 母へのあわれみを
 庭のために
 すべての愛の終わるところに


 この時期は和語の訳に拘りぬいていたため全体に平仮名だらけです(;^_^A この「近代世界で抑圧された女性性」といったものへの過剰なほどの憧憬と賛美は、十九世紀後半から二十世紀初頭の理に勝ったタイプの男性詩人に共通してみられる傾向という気がします。私は正直そこに少々オリエンタリズム的な逆差別を感じる。「女」はマリアでもマグダラでもない。単なる人間の一タイプです。

模倣される情動

2019-11-10 03:15:16 | 雑感
夜中に目が覚めてしまったため、先ほどの「国民祭典」に対する私見を追加いたします。

ここ一年半ほどの間で体験した言葉では完全には表現しがたい体感から思うことですが、人間のあらゆる情動の根底にあるものは極めて動物的な死への恐怖と生への充足感なのではないかという気がします。両者はいわゆる「心」で感じるものではなく、体温の変化や筋肉の収縮、そして何より瞬間的な脈拍の増大といった明確な体感を伴っている。
 人間がまだ単なる動物であったとき、己に死をもたらす捕食者や敵対者を認識した瞬間、力に優れた個体は攻撃あるいは逃走のために体温を上昇させ、力に劣る個体は隠れ潜むために体温を低下させたのかもしれません。前者が怒りの根底にあり、後者が恐怖の根底にある。言い換えれば、対象の大小にかかわりなく、すべての怒りは本質的に敵対者に対する殺意であり、すべての恐怖は迫りくる死への予感であるのかもしれない。それは瞬間的ながら明確で御しがたく激しい体感を伴っている。言語を基盤とした人間的理性にとっては厄介なことに、この動物的な憤怒/恐怖の割合は個体によって異なっているため、自己の情動をもとにして他者の情動を推し量ることは難しいのでしょう。
 
 ……情動の起源に対する物語的な考察があまりに長くなりすぎたためこのあたりで切り上げます。かいつまんで続けますと、人間のあらゆる情動の根底には死への恐怖と生への充足感があり、両者は分かちがたく表裏一体をなしているのだと思うのです。少なくとも人間の身体にとって生が好ましいものだからこそ死を避けるための体感が恐怖や憤怒として現れる。生への歓びは単純なものです。美味な食物や陽の光や水音や美しい色彩を感じたときの暖かな体温を伴った脈拍の上昇を、体感として思い出しさえすれば、「なぜ人は生きなければならないのか?」という疑問はそもそも湧いてこないし、これほどの歓びを手放してさえ「死にたい」と願うことの絶望の深さを推し量ることができる。ただ、それを思い出すためには、生物としてもっとも好ましくない死への恐怖もまた体感として思い出す必要がある。その部分を抑制したまま生への歓びだけを取り戻さんがために理性/言語は情動を模倣することがあるように思います。
 外界からの刺激によって瞬間的に引き起こされる一過性の反応である本物の情動とよく似た反応を脳内に無理やり引き起こし、体感のほうに逆にフィードバックさせる。そうした偽物の「情動」は、過剰で造り物じみていて中毒性があります。今日の、というよりもはや完全に昨日の「国民祭典」の中継に、私はそんな悍ましいイミテーションの喚起を促す浅薄さと過剰さの萌芽を感じました。

今は一体いつなのか?

2019-11-09 19:00:09 | 雑感
失楽園の翻訳は覚悟の上ながら難航しております。
そちらとは別に、今しがたTV中継で眼にした天皇即位を祝う国民祭典の映像について私見を記します。
皇居前に集った観衆による君が代の合唱につづいて、行進曲を背にして「天皇陛下万歳」と叫びながら旭日旗を振る人の集団を眼にして、私は自分が典型的な戦前の大日本帝国の映像のパロディでも見ているような悍ましさを感じました。心底からの熱狂ではなく、「いかにもそれっぽい」浅薄なシュミュラークル。個人的に、私は現皇后陛下の美しさや学識に憬れを抱いていますし、現に存続している皇室そのものを今すぐ廃止するべきだとは思っていません。しかし、それは、七十余年前に本来であれば終結するはずだった旧い社会の伝統が御しがたい偶然によって残ってしまった結果の、美しくはあってもいずれ消えてゆくべき過去の幻影のようなものだと思っています。君主制はかつての社会には必要なものであったにせよ、今はもう必要とされていない。それを無理やり存続させることは、かつて確かに美しく高貴であったものを醜悪かつ滑稽に貶めるやり方でしかない。そんな憤りを感じました。