楽園の復活 ―マイ・コールド・プレイスー ②
思いかえすに、私はつねにこの「楽園」の香気をもつ作品に惹かれてきた。もたないタイプの作品も(出来の如何におうじて)充分に楽しむものの、そこにあのロリエンの黄金の陽射しに対する言いがたい憧れはない。私の惹かれる「楽園」には金の陽が射していなければならない。夕方前の六月の午後、電車の窓越しに射してくるような、明るすぎてものさびしい黄ばんだ陽の光である。あるいは乾いた白い陽でもいい。そこでは時間がゆっくりと流れ、色はみな輝かしく、そのくせすべての輪郭が虚ろにぼやけてみえる……
……思わず抒情に酔ったが、具体的な要求をあげると、「虚ろにぼやけてみえる」からといって緻密な描写が不要なわけではない。むしろ描写は不可欠である。ひと筆、ひと筆がはっきりとして、細部に渡るまで目に浮かぶようで、それでもなお「虚ろにぼやけてみえる」――われながら無茶きわまりないこの要求にもっともよく答えてくれたもののひとつは、ルイスの『ナルニア国物語』第一作『ライオンと魔女』に出てくるビーバー氏のダムの描写だろうか。それは次のように描かれる。
ダムの上流は、もともとは深い川の淵だったはずですが、もちろんいまは一枚の平たい、こい緑色の氷の層でした。そしてダムの下流は、上よりずっと低くなっていて、やはりこおりついていますが、こちらは平らではなくて、川水があわだち、わきかえっておどったまま、その瞬間にこおった形になっていました。また、水がダムの上からしたたる場所や、ダムのあいだからほとばしるところでは、ずらりとつららの壁となってかがやき、さながら、まじりけのない砂糖でこしらえた大きな花や花たばや、花づなや花わでかざりあげたようでした(サンプル①)
緻密で分かりやすい描写である。また、わが憧れのどうやら根源近くにあるらしい『指輪物語』のロスロリエンは次のように描かれる。
左手には大きな塚山があり、上古の春と変わらぬ青々とした緑の草地でおおわれていました。そしてそこには王冠を二重に置いたように木が環状に二列に植わっていました。外側の木は樹肌が雪のように白く、葉はすでに落ちていましたが、その姿のよい裸の枝ぶりだけでも美しい木立でした。内側の木は非常に丈の高いマローン樹で、今もまだうすい金色で装われていました。二列の木に囲まれた中央に一本の大樹がそびえ立ち、その高い枝の真中にきらきらと白いフレトが光っていました。木々の根元の草地にも、緑の丘の辺にも、星のような形の小さな金色の花が一面にちりばめられていました。またその間には、ほっそりとした茎にうなじを垂れ、淡い淡い青をまじえた白い花が咲き乱れていました。花々は鮮やかな緑の草の中にかすみのようにぼうっと光っていました。これらすべてのものの上には空が青く広がり、午後の日射しは赤々と丘を照らし、木々の下に長い緑の影を作っていました(サンプル②)
緻密すぎていっそ分かりにくいほどの描写である。「二列」は一回でいい。しかし、おのれの主張ながら、いったいこれらのどこが「虚ろでぼやけている」というのか? いいかえれば、これらの描写のどこに私の「楽園」の精髄があるのだろうか? 比較は検討のつねである。比較対象として、まず、きわめてトールキッシュな「至福の地」を描こうとして失敗した――失礼きわまりない言い草だが正直そうとしか思えない――N・スプリンガー『闇の月』の「エルウェストランド」の描写を引く。
大気はかぐわしい香りでいっぱいだった。たけの高い百合めいた花が見わたすかぎり悩ましく揺れていた。のちにかれはそれがアスフォデルだと知った。中には薔薇色がかった紫のアマランスもかたまって咲き、さらに……(中略)……エルウェストランドはかれの心に魔法をかけ、見えぬ彼方まで遠く誘った。ゆるやかに起伏する土地の間をうねうねと小径が走る。藺草や点々とする草原、かぐわしい果樹園、荒野が径の両側に波うつように広がっていた。しばらくたってからかれは、太陽がないこと、澄んではいるが空は青くなく、やわらかな桃色とモーヴ色で、えもいわれぬ微妙な光は影をつくらず、ただマゼンダ色の靄を生むばかりだということに気づいた(サンプル③)。
幻想的な色合いにみちた描写である。この作者が「楽園」に魅せられ、全力でそれを描こうとしていることは疑うべくもない。だがこの美々しい文章に私は魅力を感じなかった。いったいそれはなぜか? サンプル①の鮮やかな白や、サンプル②の緑と金色に比べて、サンプル③のバラ色はなにがちがうというのか? まさか色の好みではあるまい。なにか違いがあるはずなのだ。金のガチョウの腹を裂くようでいささかためらわれるものの、ここでサンプルの文章そのものを比較検討してみたい。
思いかえすに、私はつねにこの「楽園」の香気をもつ作品に惹かれてきた。もたないタイプの作品も(出来の如何におうじて)充分に楽しむものの、そこにあのロリエンの黄金の陽射しに対する言いがたい憧れはない。私の惹かれる「楽園」には金の陽が射していなければならない。夕方前の六月の午後、電車の窓越しに射してくるような、明るすぎてものさびしい黄ばんだ陽の光である。あるいは乾いた白い陽でもいい。そこでは時間がゆっくりと流れ、色はみな輝かしく、そのくせすべての輪郭が虚ろにぼやけてみえる……
……思わず抒情に酔ったが、具体的な要求をあげると、「虚ろにぼやけてみえる」からといって緻密な描写が不要なわけではない。むしろ描写は不可欠である。ひと筆、ひと筆がはっきりとして、細部に渡るまで目に浮かぶようで、それでもなお「虚ろにぼやけてみえる」――われながら無茶きわまりないこの要求にもっともよく答えてくれたもののひとつは、ルイスの『ナルニア国物語』第一作『ライオンと魔女』に出てくるビーバー氏のダムの描写だろうか。それは次のように描かれる。
ダムの上流は、もともとは深い川の淵だったはずですが、もちろんいまは一枚の平たい、こい緑色の氷の層でした。そしてダムの下流は、上よりずっと低くなっていて、やはりこおりついていますが、こちらは平らではなくて、川水があわだち、わきかえっておどったまま、その瞬間にこおった形になっていました。また、水がダムの上からしたたる場所や、ダムのあいだからほとばしるところでは、ずらりとつららの壁となってかがやき、さながら、まじりけのない砂糖でこしらえた大きな花や花たばや、花づなや花わでかざりあげたようでした(サンプル①)
緻密で分かりやすい描写である。また、わが憧れのどうやら根源近くにあるらしい『指輪物語』のロスロリエンは次のように描かれる。
左手には大きな塚山があり、上古の春と変わらぬ青々とした緑の草地でおおわれていました。そしてそこには王冠を二重に置いたように木が環状に二列に植わっていました。外側の木は樹肌が雪のように白く、葉はすでに落ちていましたが、その姿のよい裸の枝ぶりだけでも美しい木立でした。内側の木は非常に丈の高いマローン樹で、今もまだうすい金色で装われていました。二列の木に囲まれた中央に一本の大樹がそびえ立ち、その高い枝の真中にきらきらと白いフレトが光っていました。木々の根元の草地にも、緑の丘の辺にも、星のような形の小さな金色の花が一面にちりばめられていました。またその間には、ほっそりとした茎にうなじを垂れ、淡い淡い青をまじえた白い花が咲き乱れていました。花々は鮮やかな緑の草の中にかすみのようにぼうっと光っていました。これらすべてのものの上には空が青く広がり、午後の日射しは赤々と丘を照らし、木々の下に長い緑の影を作っていました(サンプル②)
緻密すぎていっそ分かりにくいほどの描写である。「二列」は一回でいい。しかし、おのれの主張ながら、いったいこれらのどこが「虚ろでぼやけている」というのか? いいかえれば、これらの描写のどこに私の「楽園」の精髄があるのだろうか? 比較は検討のつねである。比較対象として、まず、きわめてトールキッシュな「至福の地」を描こうとして失敗した――失礼きわまりない言い草だが正直そうとしか思えない――N・スプリンガー『闇の月』の「エルウェストランド」の描写を引く。
大気はかぐわしい香りでいっぱいだった。たけの高い百合めいた花が見わたすかぎり悩ましく揺れていた。のちにかれはそれがアスフォデルだと知った。中には薔薇色がかった紫のアマランスもかたまって咲き、さらに……(中略)……エルウェストランドはかれの心に魔法をかけ、見えぬ彼方まで遠く誘った。ゆるやかに起伏する土地の間をうねうねと小径が走る。藺草や点々とする草原、かぐわしい果樹園、荒野が径の両側に波うつように広がっていた。しばらくたってからかれは、太陽がないこと、澄んではいるが空は青くなく、やわらかな桃色とモーヴ色で、えもいわれぬ微妙な光は影をつくらず、ただマゼンダ色の靄を生むばかりだということに気づいた(サンプル③)。
幻想的な色合いにみちた描写である。この作者が「楽園」に魅せられ、全力でそれを描こうとしていることは疑うべくもない。だがこの美々しい文章に私は魅力を感じなかった。いったいそれはなぜか? サンプル①の鮮やかな白や、サンプル②の緑と金色に比べて、サンプル③のバラ色はなにがちがうというのか? まさか色の好みではあるまい。なにか違いがあるはずなのだ。金のガチョウの腹を裂くようでいささかためらわれるものの、ここでサンプルの文章そのものを比較検討してみたい。