お絵描き日記~イラストレーター照井正邦

職人、照井正邦の似顔絵、意匠など。画力の向上を目的に練習しています。

週刊朝日「山藤章二の似顔絵塾」掲載!!(若新雄純)

2021-07-20 03:17:49 | 入選・雑誌掲載談


「ハイパウント!」ラグビーで、蹴り上げたボールを自分で走ってキャッチするプレーをさしますが、そのプレーが若新氏の企画の立案方法と「似ている」と思ったので描いた作品です。
大学ラグビーをテレビ観戦するのが好きでした。大学によってプレースタイルが明確に違っていたからです。勝ち負けだけにこだわるのであったら、どのチームも同じようなスタイルになってしまう。今は違うかもしれませんが、慶応大学のハイパウントの精神は仕事のアイデアにも活かされている、そう思えると愉しく感じてきます。

似顔絵なのに骨格を見られてしまう問題(似顔絵)

2021-07-17 07:04:14 | 雑記


以前、トゥクタミシェワ選手を描いてアップロードしたところ、似顔絵の誇張や特殊な表現と受け取られず、骨格として赤ペン先生のように勝手に添削されたものをアップロードされたことがあります。

似顔絵は顔が主役ですので、大きく描いた顔から枠内におさめた足までを、階調でつないだ表現として描きました。
けれど、似顔絵を知らない画家、あるいはアーティストにとって醜い描き方に思えるのは至極当然で、似顔絵としてではなく、アートとして馬鹿にされる必要があったのかもしれません。

パラリンピックもあり、似顔絵であるとはいえ、誇張が現実であると判断してしまう方がいらっしゃることを想像できなかったことを反省しています。
この似顔絵も、頭身は短いです。似顔絵としては、顔が認識できなくなってしまうので、この頭身が(私の画力の中では)限界かもしれません。
身体の太さについてですが、細く描けば描くほど喜ばれるのは知っておりますが、拒食症を肯定することは難しく、見る人とともに苦しむための藝術ではないので、かつ過食症も問題であると考えています。
文章としての批評や仮説がデマとして扱われたりする等で書けなくなってきている現実を考えると、絵も描けなくなりつつあるのは時代なのでしょうか。
似顔絵を文字化させた説明を求める検閲官的な立場の存在は理解できますし、禁止させる側も生きていけない苦しみを負っていることは知っておりますが、「諷刺精神のない似顔絵」という骨抜きな絵になってしまっている自分の絵を、模写から習おうとしないで頂きたいです。
西洋では模写というのは、「自然から」であり、写真からではないようです。
自然の模写ができる環境をつくるのは難しい時代であると思われますが、他者の絵の模写による問題、「次第に形状が描けなくなる」ことも減ることと思います。

搬出が終わり(美術雑記)

2021-07-04 20:05:04 | アクリルガッシュアート


Title:空間のオブジェ/アクリル画

以前、具象の作品「私ではない誰か2」の表彰式で、抽象専門の批評家の先生に、「絵描きはカナリア」という主旨の希少なご意見を伺える機会に出会えました。
具象画でカナリアになれるかは分かりませんが、また自らカナリアになりたいと思うのも間違いですが、「自分で何を描いているのか分かっていない」作品が描けなければならないのかもしれません。
それが意味するのは、学生時代の教授の「絵描きは分かっていない」という痛烈な批判に、自ら怒られるのを承知で向かっていってしまうシーンが浮かんでしまいます。
もし、そのときそれを描いてしまっていたなら、卒業できずに今の自分はいません。
小さい頃、西洋写実表現を写実主義にまですすめず、あるいはすすめられず、自然主義的な現象に重きを置いてデッサンを描いていた理由の一つとして、「描きたかったのは、絵なのではないか」という答えを出して、この作品を描きました。
まだ、答えを出すには早すぎたのかもしれません。
「空間のオブジェ」というタイトルは、絵画について学習した鑑賞者ではなく、絵描きの目で見てもらいたかったからです。
それは、私の思い描く鑑賞者でもあります。
それに耐え得る絵画となると、その答えが分かってしまうとカナリアにはなれませんが、描いていたのはデッサンではなく素描であり、まだ素描としては、ポジティブに思えば、可能性がありすぎるのだと思うことにしています。