麻生太郎議員の似顔絵を描いてみました。
この連作の最初の作品は、浅田真央選手の似顔絵です。
その似顔絵に対して「不愉快」という貴重なコメントを頂きました。
確かに、私も自分の絵を見て不愉快ではあります。
その不愉快さというのは、その前に続けたセルフフォトコラージュ似顔絵から続いています。
自分の顔というのは不愉快。それを切り刻むことで、一定の快楽は生まれているのかもしれませんが、結局出来上がるのは自分の顔なので、不愉快極まりない。この感覚を新しい作品に生かせないかというのは、無意識の中にあったかもしれません。
筆ペン、製図ペンなど、線表現というものに、ある程度評価を頂けるようになったと同時に限界も感じ始めていました。
そこで「面を塗って残った面が線になれば、変わって来るのではないか?」
結果はなんてことはない、白い線で描いたのと同じです。
けれど、現れる線は無意識の領域のものです。
この無意識というのがやっかいで、気味悪さをを内包している。
代わりに、塗った平面のほうは活性化してきます。
絵の具の不自由さと似顔絵という制約によって、逆に特異な形状を生み出します。
でも、この白い線の気味悪さはぬぐい去ることができず、面をつなぎ、線をなくす表現に至りました。
そこでの、名無しさんの「不愉快」コメントです。
何か神のお告げのようなショックを受けました。正直言いますと、自分もその気味悪さから、逃げていたのです。
生きているうちに何度か、精神的にダメージを受けるコメントというの頂くことがあります。
「絵が小さく見える」
「これは似顔絵ではない」
「似顔絵とはほど遠い」
「悪意を感じる」
「不愉快」
こう言ったコメントは、ずっと残って引きずっていくもので、その声は消えることはありません。
悪意があってコメントされたのであれば、その方の勝利です。
今回で言えば「不愉快」と言われた名無しさんの勝ちです。
常に私は苦しいわけですから。
しかし、そのまま苦しんでいても辛いだけですから、創作するしかないわけです。
きっとその「不愉快さ」の中に、何らかの美や新しい方向性があるとポジティブにとらえてみたいと思います。
そこで、麻生氏の似顔絵では、また白い線を残す手法に戻し、背景も暗く塗ってみることにしました。本当は黒で塗ろうと思ったのですが、なぜか絵の具が見当たらなく、それも必然かもしれないとグレーで塗りました。
しばらくは、この「不愉快さ」と対峙しなければならないと思っています。
そのステレオタイプの対処法は分かっています。
アカデミックなデッサンの基礎に立ち返ることです。
骨格や、ヴァルールをあわせることです。
そうすれば、たちどころに心地よい作品になるでしょう。
けれども、それというのは後退です。
私が描かなくても、誰かが描く似顔絵です。
私というのは、アンドレ・ブルトンのシュルレアリスムのように、あるいは日本の職人のように「自我の消失」「無名性」でかまわないと思っています。
だけれど、「誰も描かない作品を描きたい」という気持ちはあります。
残したいとは思いません。死んだらそれで終わりだと思っています。
アカデミックな要素を排除すれば、より「不愉快」な作品になっていくかもしれません。
それでも吐いてでも、少しでも前へ進んでいきたいと思っています。
似顔絵ブログランキングに参加しています。↓