お絵描き日記~イラストレーター照井正邦

職人、照井正邦の似顔絵、意匠など。画力の向上を目的に練習しています。

アートとしての似顔絵(雑談)

2009-11-14 15:23:19 | 雑記
写実主義
ファインアート
デザイン、コンセプチャルアート
印象派
象徴派
ダダイズム
フォービスム
キュビスム
シュルレアリスム・・・

アートにゃ色々あるけれど、一つ言えるのはアーティスト精神がなければ、アートとしての似顔絵は描けないということです。
私にそれがあるかは大いに疑問ですが、似顔絵を根源的な存在に変えてやろうという情熱だけはあります。
そして、似顔絵がアートと認められたとき、私はその「アートらしき似顔絵」の側には立たないことは、なんとなく感じます。
大衆の多くに認められるような一般化されてしまったアートには、その生命力はすでにないと思うからです。

私は、アーティストとはエゴイスティックな人間だと勝手に思い込んでいて好きになれませんでしたが、それがエゴではなく、セルフという全体性の回復にあると気付いたとき、目からウロコが出ました。
そして、意識を優先するデザイン脳である私には不可能な次元のワークだと感じました。
けれど、「似顔絵」という存在がアートになり得るためには、エゴ(自我)による他者との協調よりも、それを含めたセルフ(自己)の回復が必要だという考えに、今では賛同しています。
それを実現するためには、日本的なエゴを捨てるという発想ではなく、エゴを持って、セルフの宇宙に飛び込まなければいけません。
そうでなければ、セルフを「意識する私」であると錯覚してしまい、自我肥大に陥ると思うからです。
ここで問題になるのが、「そこまでして『似顔絵』をアートとする」必要性があるのか、ということです。
命をかけるべきことは、別にあるのではないかということです。
しかし、この「べき」思考は、意識の領域の産物であり、純粋に「面白いから」や「ゾクゾクするから」といった感覚的欲求の理由によって、その行為を肯定したほうがよさそうです。

足をすくわれる要素は、「目的がある」「何かの役に立つもの」を作ろうとしてしまうことです。
それは、人間にとってでしかない。
確かに、似顔絵を見るのは人間ですが、それでは全体性の回復とは呼べません。

結果として似顔絵であればよい訳で、似顔絵である「べき」思考からは、アート、すくなくともファインアートとしての似顔絵、さらにエモーションを感じさせる似顔絵は生まれないと思います。

では、どうすればよいか。
それは、私には全く分かりません。
でも、それを私が望んで描き続けている限り、可能性はゼロではない。
また、誰かの描いたその「似顔絵」と、生きている間に出会えるかもしれません。

そう思うと、胸が熱くなってくるのです。

それを描ける人は、アートというものを極限にまで追求した者か、全くアートを知らない者であると思います。

私は、美術をかじりすぎてしまったので、それを捨てることが困難です。
それが、私がデザインとしての似顔絵しか描けない、大きな問題点です。

また、似顔絵が、他者にとって大きな笑いや喜びを伴うものであるならば、その要素は逆に、大きな苦しみや悲しみから生まれるものだと思います。

それは、最も野蛮な動物でありながら、最も高貴な人間でなければいけないということです。

ますます不可能な気がしてしまいますが、「アートとしての似顔絵を描く」とは、(私にとっては)大きな誤解を生むことを恐れずに言えば、以上のことに挑み実践することです。

長っ!!!