華やかで粋な京都の祇園の真ん中に、崇徳天皇御廟はある。
もとは後白河院が崇徳天皇の霊を鎮める為に建てた粟田宮を移した物だが、わざわざ宮を造営したのには理由がある。
崇徳天皇は1119(元永2)年に鳥羽上皇と藤原樟子の第一皇子として生まれた。
しかし、実際は樟子が鳥羽上皇の父である白河法皇と密通して出来た子だったため、鳥羽上皇は崇徳天皇を冷遇した。
のちに崇徳天皇は、後継者争いで弟の後白河と対立し保元の乱を招くが、結果は敗北する。
讃岐(現在の香川県)へ流罪となってしまうのだ。
帰京を望んだ崇徳天皇は、みずからの血で写経をして京都へと送ったが、朝廷はそれを突き返した。
すると崇徳天皇は怒り狂い「日本の大魔縁(魔神)とならん」と叫び、今度は舌を噛み切った血で写本に恨みを書き足し、やがて失意のうちに息を引き取ったのだ。
それから奇妙な出来事が起き始める。
崇徳天皇の遺体を入れた棺から、どくどくと血が溢れたり、火葬した煙が風もないのに京都へと流れていったりした。
そして、京都では飢饉や火災、洪水などの天災で社会不安に陥り、崇徳天皇の怨霊伝説が囁かれ始めたのである。
保元の乱で後白河軍についた平清盛の死についても、やはり祟りだとの噂が絶え間なく流れたのだ。
そこで鎮魂のため粟田宮に、崇徳天皇御廟が建てられたのだった。
崇徳天皇の墓そのものは香川県の白峯陵に有るが、これは四国に有る唯一の天皇陵なのである。