爺さんが伝えたいこと

寡黙に生きて来た爺さんが、一つの言葉ででも若い人達の役に立つならば、幸いです。

怨霊になった天皇

2021-06-22 20:47:11 | 日記
華やかで粋な京都の祇園の真ん中に、崇徳天皇御廟はある。

もとは後白河院が崇徳天皇の霊を鎮める為に建てた粟田宮を移した物だが、わざわざ宮を造営したのには理由がある。

崇徳天皇は1119(元永2)年に鳥羽上皇と藤原樟子の第一皇子として生まれた。

しかし、実際は樟子が鳥羽上皇の父である白河法皇と密通して出来た子だったため、鳥羽上皇は崇徳天皇を冷遇した。

のちに崇徳天皇は、後継者争いで弟の後白河と対立し保元の乱を招くが、結果は敗北する。

讃岐(現在の香川県)へ流罪となってしまうのだ。

帰京を望んだ崇徳天皇は、みずからの血で写経をして京都へと送ったが、朝廷はそれを突き返した。

すると崇徳天皇は怒り狂い「日本の大魔縁(魔神)とならん」と叫び、今度は舌を噛み切った血で写本に恨みを書き足し、やがて失意のうちに息を引き取ったのだ。

それから奇妙な出来事が起き始める。

崇徳天皇の遺体を入れた棺から、どくどくと血が溢れたり、火葬した煙が風もないのに京都へと流れていったりした。

そして、京都では飢饉や火災、洪水などの天災で社会不安に陥り、崇徳天皇の怨霊伝説が囁かれ始めたのである。

保元の乱で後白河軍についた平清盛の死についても、やはり祟りだとの噂が絶え間なく流れたのだ。

そこで鎮魂のため粟田宮に、崇徳天皇御廟が建てられたのだった。

崇徳天皇の墓そのものは香川県の白峯陵に有るが、これは四国に有る唯一の天皇陵なのである。





都会に首塚という聖地

2021-06-22 02:59:40 | 日記
東京の玄関口の東京駅と皇居の間には、オフィスビル街が立ち並ぶビジネス街が広がっている。

世界を股にかける商社や多くの人々が集う商業ビルなどが集中する華々しい場所だが、その中に周囲とは雰囲気が違う一角がある。

平将門の首塚だ。

平将門といえば平安中期の武将で、一族の抗争を足掛かりに国家転覆を謀った。

いわば逆賊である。

将門がみずから「新皇」を名乗り、朝廷への反旗を翻した承平天慶の乱が起こったのは、10世紀後半のことだった。

朝廷側はすぐに討伐軍を投じて乱の沈静化をはかり、将門は戦いのさなかに流れ矢を受けて絶命している。

遺体は胴体と首が切り離され、胴体は戦場の茨城に、首は京都に運ばれさらし首になった。

ところが、首はいつまでたっても腐らず、それどころか目を見開いたまま「私の体はどこだ。首を繋いでもう一度戦おう」とわめいていたのだという。

そして、ついに首は怪しい光を放ちながら、胴体を求めて空を飛んで行った。

そうして落ちた場所が、現在の首塚が置かれている丸の内だったのである。

首は当事の村人たちによって神社に納められたが、少しでも粗末にすると飢饉や疫病が流行ったため、将門の祟りだと噂された。

その祟りは語り継がれ、戦後、この場所に駐車場を作ろうとしたGHQでさえ工事を中止したというエピソードが残っている。

緑に囲まれたこの首塚の周囲には、ある種の緊張感やパワーが宿っている。

この塚に誠心誠意願えばビジネス上のご利益があるという噂も囁かれている為か、近隣で働くビジネスマンが花や線香を供える風景もよく見られるとか。