爺さんが伝えたいこと

寡黙に生きて来た爺さんが、一つの言葉ででも若い人達の役に立つならば、幸いです。

のんびりする時間

2022-02-28 22:53:29 | 日記
家庭の幸福。それは子供たちの心の太陽である。

その光を受けて、子供たちは花の様に育っていく。

子供を育てるには、家庭に勝るものはない。

学校も塾も頭の教育はしてくれるが、温かい心はなかなか育ててくれない。

家庭は健康な心を育てる温室なのである。

子供たちが悲観したり、思う様に行かない事に悩んだり、迷ったりする時がある。

そんな時こそ、両親の出番なのだ。

「心配しなくても大丈夫だよ」

「誰でも失敗するんだ。誰でも転ぶんだ。でも、誰でも立ち上がるよ」

「人生は勉強ばかりじゃないんだよ。勉強が出来なくても、優しい笑顔で自分の出来る事をやって、楽しく生きている人は沢山いるんだよ」と、穏やかな眼差しで、子供の心を良く思いやり、頭を撫でてやって欲しい。

特に現代の父親の不幸は、家にいても頭の中が、会社や仕事の事で一杯だという事だ。

「燕居するや、申申如たり」ーー燕居とは退職の意、申申如とはのんびりとの意。

父親はせめて退職後は、家でのんびりと寛いで、にこやかな心の先生でありたい。

定年退職した教え子が呟く。

「まあ、最後まで首にならなかったくらいが、良かったのかなあ。二十代から六十まで、毎日毎日、会社の営業成績に気を遣い、上司にも部下にも気を遣い、家や子供の事はまったく妻任せで来てしまった」

過酷な労務下で、家庭ではにこやかな心の先生である事は難しい。

ならば、退職後は、どうぞ頑固ではなく柔軟で楽しい心で「にこやかな心の父母」を目指して欲しいのだが。




背伸びをし過ぎない

2022-02-27 21:34:43 | 日記
就職にしても、就学にしても、自己PRの時代になった。

自分の特質、自分の才能の素晴らしさ、自分の充実した能力などを、遠慮なくPRする。

自分に自信を持って生きる。

自分を過大に評価する事に依って、それにまがう様に努力する。結構な事だ。

ただ、ここで考えてみなくてはいけない事がある。

人間というモノは、自分を高く評価すればするほど、だんだん他の人に対して無礼をなしたり、軽視したり、時に憎んだりするようになる。

「俺に対して、その口のきき方はないだろう」とか「俺の言った事に逆らう気かッ」とか。

人間は聡明で自信を持つほど、相手の弱点をつき、人の心を傷付ける。

孔子は「我は賈(こ)を待つ者なり」という。

「私は自分から売り込まないで、買い手が来るまで待つよ」と…。

人間はPRして売り込むよりは、ちょっと遠慮して謙虚である方がいい、という。

そうすれば、たとえ過大に誉められた時でも、いい気になって傲慢になり、背伸びをし過ぎて、倒れる事もないし、逆にけなされた時でも、劣等感にさいなまれて、暴挙、暴走をする事もない…と。

人から認められたい、世間から高い評価を受けたい、充実した人生を送りたい。一度限りの人生だ。

そう思うなら、目標を作って能動的に活動するがいい。

ただ、その時に自分の才能や体力を自覚する事だ。

自分の力を知らず、無理し続けて、不幸にも目的を達成できないと「ああ俺は負け組」と思い、劣等感のルツボに自分を追い込んで、ヘトヘトになって悩み、苦しむ事になる。

控え目であれば、苦悩はない。





「良いライバル」を持つ

2022-02-24 08:44:27 | 日記
ヨーイ・ドン。百メートルのゴールを目指して突っ走る。

とにかく、自分が一番になろう。

自分を追い抜く者がいると、肘で相手を押し退けようとする。

自分がもっとも好きな友達だが、自分より前を走っていて、カーブの処で転ぶと「やあい、ざまみろ」と愉快になる。

どんな人生でも、競争し始めたら、愛と友情を失う。

今日の世界は、どこもかしこも競争主義の活動によって、信じ合って、お互いが仲良くする「和」の心が、侵害されいる。

平和は架空の虹である。

他人の事は放っておいて、自分だけがお山の大将になりたい。

自分の考えだけが正しいと思って、他人の意見は全く聞き入れず、わがまま勝手に振る舞い、暴言を吐いている独善者。

他の競争相手を潰して、利益を独り占めにしようと企む独占者…。

独善と独占を胸に秘めて、世界の平和と安定を口にしても、それは美しい空論だ。

まずは相手の考えをよく聞き入れ、相手の立場を立ててあげる。

次に誰もが、同じ宇宙の生命で生きている事を自覚し、敬し合ってこそ世界が輝く、とはいっても、何も競争する事が一切否定されている訳ではない。

いつでも何処でも誰とでも競争して常に「勝たなければならない」と思っている事が、平和を破壊するという事なのだ。

友情のあるライバルは、常にいた方が良い。

「己れ立たんと欲して人を立つ」

自分が立ちたいと思ったら、まず他人を立てる…と孔子が言うのは、何故だろう。

何とか他人を立てようと努力している内に、実は自分にも凄い力が着くという事なのだ。

独善ではなく、ライバルと共に成長するのだ。



怖さを知る

2022-02-20 00:02:55 | 日記
剣豪・宮本武蔵が豊前小倉に滞在していた時に、一人の兵法修行者が面会を求めてきた。

武蔵は会って、話を聞き、骨柄を見て「なかなかのお腕前の様で、これならどの諸侯に仕えて、指南しても良いでしょう」と誉めた。

ところが、ふと相手が自分の木刀を見せて「これは諸国を廻って、試合を望まれた時に使います」と言うのを聞くと、武蔵は「その程度の腕で試合をするなどと、バカな事を言ってはいけない」と、その家の主人の小姓をそこに座らせ、その前髪に一つの飯粒を付け、大刀を抜いた。

そして「見よ」と振り下ろすと、その飯粒だけが見事に真っ二つに切れていた。

それをその兵法者に見せて、「これが出来るか」と聞くと、もちろん「出来ません」と言う。

すると武蔵は「これ程の腕が有っても、なかなか敵には勝てないものだ。試合など滅多にするものではない。
試合を望む者があれば、早々にその所を立ち去るのが、真に兵法の真髄を知った者と言えるのだ」と戒めたと言うのてある。

宮本武蔵と言えば、生涯に六十有余の勝負をして、一度も後れを取らなかったと言う剣の名人である。

その武蔵がそう言うことを、言っているのは興味深いことだと思う。

結局、武蔵という人はいわゆる「怖さ」を知っていたのではないだろうか。

怖さを知ることは、人間にとって極めて大切なことだと思う。

人間がより良く生きて行くには、常に自分を律し、自分を正して行く事が大事だが、それにはやはり何らかの形で、怖さを知る、言い換えれば、怖い人、怖い物を持つことが必要であろう。

子供は親が怖い、生徒は先生が怖い、社員は社長が怖いというように、人間は怖さを知ることによって、自分の身を正しく保って行ける訳である。

怖いもの知らずという人は、往々にして行きすぎて失敗したり、他を傷つけたりすることにもなる。

ところが、指導者、最高責任者になると、直接叱ったり注意してくれる人がいないから、つい怖さを忘れがちになる。

しかし、よく考えてみれば、社長とか総理大臣といった最高責任者でも、直接には誰も叱ってくれないが、過ちがあれば必ず世間大衆というか、国民のいわば罰が返ってくる。

だから、総理大臣であっても国民に怖さを感じ、政治に誤りなきを期さなくではならない。

そういう怖さを知ることが、指導者にとって極めて大切だと思う。




若い人に手を貸す

2022-02-18 16:40:50 | 日記
「イエス・ウィ・キャン」の時代になった。

かつては「イエス・アイ・キャン」の時代だった。

自分で考え、自分の目標を掲げ、弱い者を叩いて、一人勝ちする…。

「イエス・アイ・キャン」の競争社会は、勝ち組と負け組の格差を作った。

しかも、何と勝ち組の大企業や大金持ちが、崩壊し始めた。

もう余分な競争は止めて、皆なで手を 取り合って、強者も弱者もなく、大きな天徳の命を、明るく幸福に平和に生きて行く時が来た。

勝ち組のいけない点は「自分だけが良ければ良い」「弱い者を労る心が無い」の二つだ。

孔子は「下に拝するは礼なり」と言っている。

下位の者が上位の者に、礼を尽くすのも礼の作法だろうが、もっと肝心な礼は、上位の者が下位の者を労り、慈しみ、愛する礼なのである。

世界の金融が大崩壊して、「恐慌の時代」が来る。

皆なで少ないお金を融通し合って、弱きを助ける暖かい世界にしよう。

「イエス・ウィ・キャン」の時代こそ、皆なへの思いやりと、皆なで仲良くする為の「礼」が必要となる。

知友の社長は「良樹細根」を座右の銘にして、社員一人ひとりに対している。

「良樹細根」とは、すくすくと健康に育つ木は、必ず大地の中に根をしっかり張っているという意味だ。

見落としていけないのは、その根の先には細かい糸の様な根が付いていて、この細根が、大地の栄養を吸収しているという事だ。

まだ若く入社して程ない、社員一人ひとりの力の偉大さは、計り知れない。

社長は「良樹細根」を胸に、新入社員にも和して優しく、丁寧に礼を尽くす方が良いという。