爺さんが伝えたいこと

寡黙に生きて来た爺さんが、一つの言葉ででも若い人達の役に立つならば、幸いです。

悩んだら深呼吸

2022-03-30 01:34:38 | 日記
現代人は、自分の考えさえしっかり持てば、それだけで一人前であるかの様に、思っている人が多い。

あるいは、自分の知能とか技術が充実していれば、豊かな人生が送れると、信じきっている人も多い。

その通りで、あるかも知れない。

しかし、この一回こっきりの人生を、真に人間らしく生きるには、あらゆる人間が、偉大なる宇宙の生成力(徳)一つに依って生かされていると言う、疑う事の出来ない事実に、目を開かなくてはならない。

何故か自分が宇宙の生成力に依って、生きていると言う事実に無関心な人は、逆境に対処出来ないから…。

いくら自分の考えをしっかり持っていても、自分の考え通りに世の中は動いてくれない。

知識と技能に優れていても、アッという間に時代遅れになってしまう。

しかし「仁者は仁に安んず」で、もし宇宙の寛大な生命と一体感があれば、どんな時も安らかである。

常に人間は宇宙の生命を、自分の住む家と心得ていれば、楽しく過ごせる。

彼の勤務先は、ミッションスクールであった。

彼の宗教は禅宗であった、にも関わらず、毎日微笑んで十八年勤めた。

苦痛は無かったのか?

実は毎日まいにちが、苦痛と悩みの連続であった。

異教徒である私が悪い。

疑われても、誤解されても、当然なのだ。

その苦悩を脱する為に、毎日某仏閣の選仏場で座禅をした。

生きているこの生命の原因は、何かを求めた。

ある時深呼吸を一つして「なぁーんだ」と思った。

生きている原点は呼吸なのだ。

宇宙には、禅もキリスト教もない。



欲張らない

2022-03-28 15:59:47 | 日記
人生は短い。

私たちはともすれば、今よりもっとお金を貯めたい、今よりもっといい仕事をしたい、今よりもっと長生きをしたい、今よりもっと地位を上げたい、今よりもっと人に認められたい…と、もっともっとと思いながら、上を目指して日々を送る。

そうして「したい」様になる為に、さまざまな企画を立てて努力している内に、だんだん居心地の悪い人生になっていく。

自分の「したい」事が、自分の能力に適したものであれば、何の問題もないが、あまりにも自分の波長に合わない事を「したい、したい」と骨を折っている人の多いことか。

「したい」ことが多くて「したい」ようにならないと、誰もが不満や愚痴をこぼし出す。

その内悩み、苦しみ出す。

孔子は、どんな不幸な状態であっても、その不幸の中に一筋の光を見つけ、あれこれ「したい」と思わず、ひたすら人を思いやって「無為」にして今日を生きよと、主張する。

「無為」は「為さ無い」と読む。

でも「無為」とは、何もしないという事ではない。

自分中心の我儘な行動はしないで、人の為に行動するという事なのだ。

我儘で自己中心的な人は「有為」の人という。

自己中心の人は、思い通りにならないと、気が治まらない。

自分の思ったように事が進まないと、人を激しく攻撃したり、怒鳴ったりして、人を深く傷つける。

「無為にして治まる」

孔子は牧畜を司る役人になった時、別に何の施策も取らなかった。

ひたすら農民を思いやりの仲良く生活していたが、その寒村はみるみる家畜が増え、豊かな村になって、その職務を成し遂げたという。



無礼者には距離をおく

2022-03-26 17:33:48 | 日記
人は社会を離れて、生きていけない。

人間関係を疎かにしては、生きていけない。

社会生活の中で、人間関係を潤滑にしていくには、礼節が大切である。

レストランでもホテルでも、この頃は以前よりずっと丁寧に、礼を尽くしてくれる。

気持ちが良いが、この礼の作法がお客を呼ぶ為の技術であったら、枝葉のものになる。

礼の作法を行っている、人の心は育っていかない。

礼とは、人に敬意を表す作法だ。

ではいったい、人が持っている何に敬意を表すのか。

あらゆる人は、宇宙の生成力(大徳)によって生きている。

その人の大徳の力を、敬するのである。

社会には敬意を表したい人も、そうしたくない人もいるだろうが、たとえどんな人であっても、宇宙の大徳の力によって、歩き、立ち、座っているのだ。

万人が持っている、完全無欠の大徳の力を敬し、礼の作法を行っていく事で、実は自分の精神も、等しく広く深く大きな心に、なって行くのだ。

だが、いくら自分が礼を尽くしても、人間関係は、相手が有っての事である。

関係は一人では作れない。

お互いが、礼の大切さを理解し、礼の心を深めて、平和な人間社会を作って行こうという、協力心がなくてはならない。

「人にして不仁ならば、礼を如何せん」で、自分だけが努力しても、相手にその気がなければ、こちらか不愉快になるだけだ。

自分の努力にも関わらず、相手が無礼千万な態度をとって来たら、決して相手に好かれる様に、努力してはいけない。

無礼な人とは、相手が変わるまで距離を置く事だ。



支えてくれる人の存在

2022-03-25 12:39:25 | 日記
小学生や中学生の表情が、暗く厳しくなっている。

大人しくて明るく可愛らしい子供が、随分減ってしまった。

何処とはなしに、兎に角、人に抜きん出る事ばかりに、焦っている。

大人たちの表情も、真面目ではあるが楽しさがなく、何処かに迷いがある。

スカッとしない。

社会の中で抜きん出るには、どうしたって友と戦わなくてはならない。

皆んなで一緒に仲良くやろうという、人徳が無くなった。

常に自分だけが、抜きん出ようという一念で、友と戦い友と比べ、友情は上部だけの薄っぺらな物に、なってしまった。

世の中の人が、殆んどそういう競争と孤立の方向で生きていく中で、大病をした人や災害やトラブルに巻き込まれた人たちは、自分が沢山の人たちのお陰で、生きて来ている事を知って、感謝をして生きている。

「徳狐ならず、必ず鄰(となり)有り」

「ありがとう」と言える人の周りには、大勢の善人が集まってくる。

善光寺さんの本堂の下に、地下道がある。

あの暗闇の中を手探りで歩いていると、たまらなく不安に襲われて、前に進めなくなるが、一人でも手を取って呉れる人がいると、何でもないのだ。

自分の人生は、時間の連続で今日まで来たが、その時間の途中で「こうすれば良いのか」「ああすれば良いのか」と、いくつかの選択肢に迷った。

今までそんな時は、必ず自分で自分の道を選んだと思っていた。

しかし、そうではなかった。

その時に…友がいた、両親がいた、先生たちがいたのだ。





プラス思考の友を持つ

2022-03-24 02:43:20 | 日記
どんな友だちを持っているかで、人生は変わる。

人は色々な楽しみを、胸にして生きている。

欲を欲しいままにして、多額の財を得て、胸を張っておごり高ぶるのが、楽しみな人。

ゴルフやクルーザーで友だちと興奮し、友情に耽るのが、楽しみな人。

旨いものを沢山食べ、上等な酒や焼酎を飲み合うのが、楽しみな人。

どんな楽しみを持って生きるかは、それぞれ自由である。

人に迷惑さえ掛けなければ、なるべく沢山楽しみを持って生きれば良いが、そういう友は単なる友であって「賢友」ではない。

賢友とは、自分の命が宇宙の生成力(天徳)によっている事に、深く目覚めている友を言う。

賢友は宇宙の生成力に、常に感謝している。

「賢友多からん事を楽しむ」

宇宙と共に生きている賢友は、例外なくブラス思考で、明るい顔をしている。

そんな賢友を友としていると、それだけで人生は好転する。

自分の心の持ち方が、運命を変える。

人が宇宙や自然の生成力に依って、生かされている事を、しっかりと自覚して生きている賢友は、堂々と自由に生きてはいても、宇宙や自然の偉大さの中で「弱い自分」を常に実感している。

賢友は自分が生きているは、沢山の人のお陰である事も、痛感している。

賢友はちょっとした人の親切にも「ありがとう」と頭を下げる。

こんな人が傍にいてくれたら、よしッ!何でもやってみようと思う。