アートプラス京めぐり

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道標八幡0252 石田神社・御旅所にある道標

2019年10月26日 18時54分24秒 | 道標

 

川越 東 長池 宇治

堤通 南 天神森 奈良

堤内 西 楠葉 枚方 

堤通 北 よど 八幡

 

 

 

文政2年 (1819年) 施主 伊佐氏

 

おとなしい 犬だ

道標 前回の記事 ⇒ 道標左0251 岩倉観世音  天保6年(1835) 建立

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神社八幡0191 石田(いわた)神社 御旅所

2019年10月26日 15時58分25秒 | 神社

 

 

 

 

 

神社 前回の記事 ⇒ 神社北0190 貴船神社

関連記事 ⇒ 神社八幡0166 石田神社 十三重石塔 算額

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文化財八幡007 伊佐家住宅 江戸時代の豪農の家 重要文化財

2019年10月26日 06時01分31秒 | 建築物・明治・大正など

 

伊佐家住宅 重要文化財

伊佐家住宅は、江戸時代中期の山城地方の代表的民家として、昭和50年(1975)に、先ず主屋と棟札が国の重要文化財に指定され、昭和55年(1980)に主屋以外の建物と普請文書、古図、宅地などが追加指定された。

伊佐家は代々天領の庄屋を勤めた家で、敷地は約2600㎡あり住宅周囲に石垣を築き、正面の南側道路沿いには濠跡が残っている。屋敷の裏三方は竹藪で囲み、竹藪と屋敷とを区切る堀をめぐらしている。屋敷のほぼ中央に享保19年(1734)に上棟の茅葺主屋があり、表側に長蔵を構え、主屋と長蔵の間に中仕切りの高塀を築き、塀中門がある。主屋の裏側には内蔵が隣接して建ち、さらにその裏に東蔵、木小屋、二階蔵 乾蔵が頑丈な石垣の上に建ち並んでいる。特徴しては、主屋の軒の厚い茅葺、玄関から座敷への「桃山」という赤壁、祭礼用のおおきなくど(かまど)主屋と裏側の蔵を結ぶ高縁などがあげられる。

江戸時代の豪農の家の面影をとどめている。

 

 

 

関連記事 ⇒ まとめ045 京都府の重要文化財・国宝 建物

前回の記事 文化財 ⇒ 文化財南006 長谷川家住宅 270年前の農家

 


寺院八幡0645 善照寺  真宗本願寺派

2019年10月25日 20時28分30秒 | 寺院

 

 

 

 

皇紀2600年

 

 

 

関連記事 ⇒ まとめ006 紀元2600年石碑・献木・奉納額  

寺院 前回の記事 ⇒ 寺院八幡0644 西雲寺 

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寺院八幡0644 西雲寺 

2019年10月25日 19時01分00秒 | 寺院

 

 

 

西雲寺に安置されている薬師如来の由来

『薬師如来像』は、およそ平安時代後期以降とされている。より元来、上津屋の石田神社境内にあった真言宗『福泉寺』と申します。その昔、木津川は度重なる河川の決壊や、洪水に見舞われ、村人たちが疫病にかかったり、また木津川は船便としての交通の要所でもあり、人々の生命を守ってくれるのがこの『薬師如来様』です。とのことが書かれた文書が神社に保存されてあります。

御本尊は氏神本地仏として神社境内に安置され村民より深く信仰されていたが、明治維新に至り、神仏混交が許されず、政府の達しにより、当時の村史と氏子中が協議の上にて、西雲寺境内に移転されて村民よりあつい信仰をされていたそうです。

当時の西雲寺檀信徒総代と神社氏子総代により、共有の薬師如来像であることを認めあったのが明治35年11月8日に氏子総代と西雲寺総代によって記名捺印された文書が保存されています。この薬師堂は、一昨年の台風で被害を受け、床および壁が大変破損がひどく修理が出来ず、止むをえず建て替えすることになり、ともに薬師如来様も修復していただき本日ここに落慶法要を致しました。上津屋の皆様が、薬師如来さまへの信仰が本来の氏神本地仏である。如来様の光を授かる事ができるようになった事とその如来様の由来を後世に残すため謹んでここに転記しました。平成12年8月 石田神社 総代

 

寺院 前回の記事 ⇒ 寺院長岡0643 大悲山 観音寺 洛西観音霊場13番 後醍醐天皇ゆかりの寺

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史跡長岡050 勝竜寺城跡 細川ガラシャが住んでいた

2019年10月25日 05時15分24秒 | 史跡・旧跡

 

勝竜寺城公園

細川ガラシャ(1563~1600)

天正6年(1578)、明智光秀の娘・玉は、父の主君・織田信長に勧められ、勝竜寺城主・細川藤孝の長子忠興に嫁ぎます。そして、その後2年間、勝竜寺城で幸福な新婚生活を過ごしたと言われています。

しかし、天正10年(1582)、父の光秀が主君・信長を討つという歴史上の大事件(本能寺の変)を起こします。天下人となった光秀は、盟友の細川藤孝・忠興親子に加勢を求めますが、親子はこの誘いをきっぱりと断ります。その後、光秀は羽柴秀吉との戦い(山崎の合戦)に敗れ、居城・近江坂本城に落ち延びる道中で亡くなります。一転「逆臣の娘」となった玉は、以後苦難の生活を強いられることとなりました。

 光秀の死後、忠興は、玉を丹後の山奥・味土野(現・京都府京丹後市)に隔離・幽閉します。幽閉が解かれ、大阪城下玉造の細川家屋敷に移り住んだ後も、忠興の嫉妬心による厳しい監視など、様々な困難に見舞われます。この頃から、玉は平安をキリスト教に求めるようになり、洗礼を受けて細川ガラシャ(日本語で恵みの意味)と呼ばれるようになりました。

しかし、秀吉の死後、再び天下が乱れます。徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)の対立が激化し、美濃国関ケ原で決戦(関ヶ原の戦い)が起こったのです。忠興は家康に従い、西軍の上杉家の討伐に向かいますが、これを好機と見た三成は、細川屋敷に軍勢を送り、ガラシャ夫人に人質になるように強要しました。ところが彼女はこれを敢然と拒否し、屋敷に火をかけて壮絶な最期を遂げます。慶長5年(1600)、38歳の生涯でした。

 

 

 

 

北門跡

本丸の北西隅から北の出入り口が見つかった。この出入り口を囲む土塁は高さ2m以上の石垣があり、立派な門が建てられていた。

城内に入るには、堀を渡って第一の門をくぐり四角い形の広場に出る。突き当りを左に折れ、第二の門を通り、やっと城内に入れる。これは攻め入る敵を土塁上から攻撃し、簡単に城内に入れない構造になっていた。この門から山崎合戦に敗れた明智光秀が逃げ出したといわれる。 平成4年3月 長岡京市

 

 

 

東辺土塁と多聞櫓

本丸の東辺に築かれた土塁上の平坦面で、二列の石垣が見つかった。この幅4メートルの間に北東隅の建物(隅櫓)とつながった長屋風の建物(櫓)があったと考えられる。このような構造の建物は多聞櫓と呼ばれ、中に弓矢や槍、鉄砲、火薬などの武器が納められ、城外の敵を攻撃できるようになっていた。また、土塁の斜面にはテラス状の平坦面をつくり、井戸を設けていた。

多聞櫓への階段

本丸の北東隅から石垣で築かれた高さ4メートルの土塁が見つかった。この土塁に登る斜面には大きな自然の石を使った階段が七段作られていた。土塁の上は一辺が10m四方の広い平坦な面があり、城の外を監視、攻撃するための建物があったことを裏付けた。この建物は東辺の土塁上にのびる多聞櫓という長屋風の建物と思われる。

 

 

沼田丸への通路

西辺土塁の中央部で、土塁の頂上にある平坦面を深さ1.5m堀くぼめ、土塁が南北に分断されていた。こと土塁斜面を発掘調査したところ、斜面は階段状に掘られ、二カ所で段差が見つかり、多量に石が埋まっていた。

このことから、土塁の斜面に石を使って階段をつくり、土塁の頂上まで登り、沼田丸へ渡ったものとみられる。また、西辺土塁の南端で人頭大の大きな石や小石が見つかった。これらは土塁上にあった隅櫓などの建物に使われたとみられる。

本丸跡

城の心臓部にあたる本丸は、東西約105m、南北約70mで、その周囲には水を湛えた幅広い堀が造られ、その内側に高く土を盛り上げた土塁を巡らしている。

堀は深さ約3mで、幅が15mを越え、土塁の裾には石垣が築かれていた。土塁は高さ4~5mで、四方を取り囲んでいた。しかも、最も高く築いた西辺の土塁は、四角い形をした本丸の南側に張り出していた。これは南門から攻め入ろうとする敵をこの高い土塁上から攻撃する目的があった。

土塁南辺の中央に推定される南門の位置では、杭列や大きな石垣が見つかった。北西隅からは石垣で築いた北門が、北東隅では土塁に登る階段が、東辺の土塁上では長屋風の建物

(多聞櫓)の土台である石垣などが発見された。

本丸内では、西半部で南北方向の堀で石で蓋された溝などが、東半部で井戸二基や礎石建物三棟が見つかった。堀は幅約4m、深さ2mで、井戸はいずれも深さ約2m、直径0.9mの石組みのものであった。

 

 

 

 

 

 

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡長岡049 勝龍寺城土塁・空堀跡  長岡京市

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蔵のある風景長岡0385回  長岡京市 神足神社 付近

2019年10月24日 11時19分38秒 | 蔵のある風景

 

 

蔵のある風景 前回の記事 ⇒ 蔵のある風景左0384回 岩倉 山住神社 付近


運動記録 10月23日   12回目 階段昇降14段3m、11キロ重で100往復 月合計 1200往復

 


寺院長岡0643 大悲山 観音寺 洛西観音霊場13番 後醍醐天皇ゆかりの寺

2019年10月24日 06時53分08秒 | 寺院

 

 

 

 

 

 

関連 ➔ お寺・神社めぐり07  洛西33所観音霊場

寺院 前回の記事 ⇒ 寺院北0642 正覚寺

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運動記録 10月23日   12回目 階段昇降14段3m、11キロ重で100往復 月合計 1200往復


寺院北0641 西向寺(さいこうじ) 浄土宗

2019年10月23日 20時49分02秒 | 寺院

 

 

 

 

西向寺(さいこうじ)

幸阿弥谷と号し、浄土宗知恩院派に属する。寛永年間(1624~1644)清誉浄顕(せいよじょうけん)上人が西向庵と称する小草庵をこの地に創建し、念仏弘通(くつう)の道場としたのが当寺の起こりである。現在の堂宇は宝暦2年(1752)、六世俊龍和尚により再建された。明治15年(1882)本山知恩院から寺号を得て、西向寺と名を改め、以後庶民の寺として栄え現在に至っている。

本堂には本尊阿弥陀如来25菩薩を祀る。南脇壇に安置する二体の阿弥陀如来像は「二葉

の弥陀」と称し、藤原時代中期の作と言われる。この仏像内に納められていた慶安2年(1649)銘の胎内文書・本尊再興奉加帖によれば、上賀茂神社の別所であった上賀茂御堂西念寺のもので、明治初年の廃仏毀釈で廃寺となった際に当寺に安置されたものと推定される。

 

 

 

 

 

 

また、地蔵堂東側には明徳2年(1391)銘の地蔵菩薩板石塔婆があり「京の三板碑」の1つにあげられている。爪彫地蔵と言われている。

高さ1.55m、緑泥片岩製、表面に地蔵立像を線彫りして、下方に明徳2年(1391)一結衆35人が逆修(死後の法事を生前に行うこと)のために建立としたことを刻している。東山正法寺、百万遍了蓮寺の板石塔婆とともに京都の三板碑に挙げられている。

 

 

 

 

 

 

 関連記事・板碑 ⇒ 広い境内の知恩寺  「百万遍」 名付け親は後醍醐天皇

寺院 前回の記事 ⇒ 寺院北0640 常徳寺 常盤地蔵 牛若丸

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寺院北0640 常徳寺 常盤地蔵 牛若丸

2019年10月23日 20時48分15秒 | 寺院

 

 

 

 

 

 

常徳寺

当寺は明応2年(1493)に知足山とし改号され、寛永5年(1628)日奥(にちおう)上人が金工後藤氏の帰依を得て中興した日蓮宗妙顕寺派の寺で、当時、妙覚寺住職だった日奥は、京都のすべての寺に法要を求めるなど弾圧を強めた豊臣秀吉に反発。寺を追われて常徳寺に身を寄せた。信者以外に施しを受けない「不受不施」の主義を貫き、それがもとで弾圧にあったという。日奥は不受不施派の派祖であり、教えは今も息づいている。本堂には常盤御前が牛若丸の安産を祈願したとつたえる木像・常盤地蔵を安置し、寺の再興には刀装金具の彫刻を職業とする後藤家が財政支援をし、特に後藤演乗が日奥の教えにより真言宗から改宗、寺の基礎が整った。境内墓地には後藤演乗(七代)以下、近世の後藤氏一族の墓があり、また寺宝に後藤長乗夫妻像(江戸時代)を有する。「知足山」と号するのは、船岡山の東南麓にあった知足院の名を継いだからである。知足院は平安前期に創建された天台宗園城寺(三井寺)の別院で、本尊不動明王は世に「知足院不動」として崇敬を得た。関白藤原忠実は知足院関白といわれ、保元の乱後、当院に住み、応保2年(1162)ここで没した。藤原家と関係の深い大寺であったが、中世の兵火に衰退した。

本堂に安置する常盤地蔵と称する地蔵菩薩立像(藤原時代)は、知足院の旧仏といわれ、他に知足院関係の古文書がある。

 

関連記事 ⇒   義経・弁慶 伝説  源平物語 

寺院 前回の記事 ⇒ 寺院北0639 東坊 浄土真宗本願寺派

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史跡長岡049 勝龍寺城土塁・空堀跡  長岡京市

2019年10月23日 10時19分28秒 | 遺跡・遺物

 

 

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡宇治田原048  信西塚  平安時代・平清盛方

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神社北0190 貴船神社

2019年10月19日 15時44分43秒 | 神社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水徳を司り給う神様で人間の生活は素より動植物宇宙の生きとし生けるもの悉くの生成化育の生命力となって不断に活動されています。

本社は鞍馬山麓、貴船神社と共に水難厄除の御神であり家内安全と商売の隆昌を希い願う人達特に多く万民の崇敬をあつめている。尚古来一般の神社に見る建築と異なり珍しい北向きに祀られた御神殿となっており古くから北向きの御神は霊験殊の外あらたかなものがあるごとくはよく衆人の知るところである。

 

この地方は古くから賀茂別雷神社の荘園であった関係上同社の摂社で貴船谷に鎮座せられる延喜式内社たる元官幣中社貴船神社の御祭神を勧請したのである。鎮座年代は明らかでないが、恐らく鎌倉時代の初期ごろの鎮座と思われる。その間、時代の変遷と共に盛衰はまぬがれなかったが氏子との関係は極めて密接なるものがあって現在に及んでいる。

 

神社 前回の記事 ⇒ 神社北0189 石井神社  御土居の跡に建つ

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運動記録  10月18日      11回目   階段昇降14段3mを100往復 月合計1100往復

 

               この日より背負うリュックの重さ⁺2㎏、計11㎏に増量



まち歩き北1084  彫刻 「寒」  山崎正義

2019年10月19日 06時31分12秒 | まち歩き

 

 

 

 

 

 まち歩き 前回の記事 ⇒ まち歩き左1083 岩倉 石座(いわくら)神社 の 幟

関連記事 ⇒ まとめ020 彫刻

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