私たちが子供の頃、一寸した雨が降ると地盤の低いとされる所では直ぐに水が溢れ、ひざ上までの水など珍しくな
かった。子供ながらにあの辺には溝があるから危ないとか、もう少し行くと坂になっているから水がなくなる等の
危険情報を熟知していた。
当時は側溝も満足に整備されていなかったから雨の度に起こるこんな事象も慣れっこになっていたものだ。社会イ
ンフラ整備は住民の命を守る第一歩でもあるから、そのような場所を絶滅させることを目指して整備を続けた。
何処の河川や住宅地の側溝などは作られてから何度も整備や改善され続けてきた。数十年、いや数百年にもわた
ってと言うのが正しいかもしれない。そうして少しずつ自然との調和のとれた地域では水の災いから解放されている
が、昨今のゲリラ豪雨のような現象が顕在化すると、再び水との闘いを余儀なくさせられる。
それに付随する形でニュースになって来たのが『50年ぶりの・・・』とか『100年に1度の・・・・』という一生の間に経験
するかしないかの頻度の事が形を変えて次々と起こっている事だ。
台風8号が九州付近に停滞している間、長野県ではゲリラ豪雨に見舞われ土石流が発生して子どもが亡くなった。
TVで見ると河川には土石流対策と思われる護岸工事がされた所でも被害を受けているように見える。長野県は山
が多く川沿いを走ってみると、土砂崩れ防止や土石流対策の堰堤などがいたる所で見られる。
それでも災害を防止できないとなると今まで作り込んできた水に対するインフラは何の意味も持たなくなってしま
うのではないかと心配になる。今までのインフラ整備の概念と今は合致しなくなって来たのに、相変らず以前の考
え方のままでいるとしたら無駄な投資をし続け、事業者の為に事業という事になりかねない。いい例は、3.11に従
来の想定を超えた津波が襲い防潮堤のはずが何の役にも立たなかったのに、同様のものを再建する案が取り上
げられたりしていることだ。
一方、都会地ではコンクリートで固め尽くされ地面で吸収できなくなるから降った雨の一部は下水に流れるが、許
容オーバーになると行き先はなくなる。地下街や地下鉄にも容赦なく流れ込んだりする。
昔、想定しなかったことに対する対策も取られてはいるが、そこには『想定』という壁があることは確かだ。無限
の対策など取りえないから当然の事だから、対策に行き着くところはないかもしれない。
予測しかねる自然現象に人間の浅知恵で立ち向かうなど不遜なことなのか、人間の都合で地球規模の環境破
壊を繰り返すその報いなのか、どちらも間違ってはいないようだ。
八雲町には切通しという水の難所を解消すべく立ち上がった周藤弥兵衛は、藩の援助を待っていては何時まで
経っても完成できないと自ら岩の掘削、私財を投じ42年かけて開通させた。このお蔭を以て大きな災害から解放
され、その偉業は今でも語り尽くされ続けている。このような例は全国に沢山あり昔からの課題は治水、今もなお
課題である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます