押田さんのブログでイスタンブールでバリン郷事件から16周年の抗議集会が行なわれたことを知った。先の1997年2月25日、西側でも大きく報道されたクルジャ(イーニン)暴動と違い、この事件はほとんど知られていないのではないだろうか。
私も、その事件のあったことは知っていたけれど、書物などに書いてあることは少ない。
バレン郷、いったい新疆ウイグル自治区のどのあたりに在り、どんな事件であったのかを調べて見なければならないが、それはなかなか定かではない。
ここではWEB上で見られたアメリカのジョージタウン大ジェームス・ミルワード教授の論文から引用してみようと思う。
http://www.eastwestcenter.org/res-rp-publicationdetails.asp?pub_ID=1479
1990年4月5日 バリン事件 バレン郷のアクト鎮(カシュガルの10キロ南方)は1984年に「民族統一モデル鎮」と名づけられていた。6年後この称号は中国の支配に対する武装蜂起の証拠が発露したときに皮肉なものとなった。ある報告に拠れば、この反乱はカシュガル全域の政府庁舎に対する連続した同時攻撃が計画され、馬がその運動を早める為に確保された。この計画はつたえられるところによればゼイニディン・ユスフと「東トルキスタンイスラム党」に率いられたとされ3月に部分的に発覚した、そのグループはモスクとカセットテープを通じて武器を集めることを広めたといわれる。トラブルが起こり(中国の報告によれば)山に逃げ込むまでに警察との戦闘にかかわった人(6~7人が死亡)は200人ほどであった。人民解放軍は空軍を使い、反乱を徐々に鎮圧し、全南新疆での一斉逮捕取締りをはじめた。
この蜂起の下に横たわっていた問題は新疆への漢族中国人の移入および中国政府が一人っ子政策をウイグル人を含む少数民族に広げるであろう報告だとされる。
この時代はソ連の崩壊前夜、冷戦終結、天安門事件直後で世界の激動の波が南新疆にも押し寄せていたのであろう。しかしこれほどの事件が世界に報道されることはなかった。
バリン郷はカシュガルの南方でありながら、キルギスキジルス自治州のアクト県に所属している。何でこのようなゲリマンダーのような行政区画なのかはよくわからない、地図はこちら。http://www.n-wisdom.com/map_volume/xinjiang/52.htmもしかすると分割支配の考え方なのかもしれない。写真はバレン郷の特産物とされる巴仁杏。
阿克陶(アクト)県について キジルスキルギス自治州ページ(中国語)
http://218.31.148.126/Article/show.asp?id=228
巴仁杏とは(中国語)
http://www.chinaculture.org/gb/cn_index/2005-07/21/content_70963.htm