長宗我部で、長浜まちあるき・・・7 元親公墓
9月2日(木)、午後1時半に若宮八幡宮の元親公銅像前に集合して、
約2.5キロメートルのコース8箇所を、地元のガイド武田末男さん他の説明を受けながら、約2時間半かけて一周しました。
万歩計で計っていたご婦人の二人とも、7,500歩でしたと教えてくださいました。
長宗我部で、長浜まちあるき・・・1 元親公銅像(初陣の像)
長宗我部で、長浜まちあるき・・・2 若宮八幡宮
長宗我部で、長浜まちあるき・・・3 戸の本古戦場跡
長宗我部で、長浜まちあるき・・・4 雪渓寺信親公墓
長宗我部で、長浜まちあるき・・・5 秦神社
長宗我部で、長浜まちあるき・・・6 鶴田塾跡
第2回 土佐の鎌倉長浜と長宗我部史跡を歩く
平成22年10月16日(土)午後1時30分集合
集合場所 若宮八幡宮元親公初陣の像前広場
参加申し込み先 氏名・連絡先を記入し、前日までにFAX 088-842-1025 に
参加費 無料 募集人員 30人
連絡問い合わせ先 土佐の鎌倉長浜を歩く会 武田末男 携帯 090-6283-4217
⑥ 鶴田塾跡から ⑦元親公墓までは、距離もあり、街中の細い路地を通ったりするので、ガイドの方についていかなくてはいけません。
案内標識板
長宗我部元親は、天文8年(1539)岡豊城に生まれ、戸の本の初陣以後次々と宿敵を降し、天正3年(1575)には土佐を統一、天正13年(1585)春には遂に四国全土を制圧するも秀吉の南征にあい、同年夏にはその軍門に降り、土佐一国に減封されました。
元親は武略家としてのほか教養もあり、文化人としても評価が高く、内政面でも立法家として「長宗我部氏掟書」の制定や優れた検地記録である「長宗我部地検長」の作成など、数々の業績を残しています。
慶長4年(1599)5月19日、伏見で病没、享年61、法号雪蹊恕三、火化の後遺骨は土佐に送られ、この天甫寺山に葬られました。この墓の形式を宝篋院塔といいます。
今一代の英傑の眠る静寂のこの地にあって、瞬時の光芒を放ち、やがて歴史上から消え失せた長宗我部一族を想うとき、その哀惜の念止み難いものがあります。
長宗我部元親公墓
さて、次は土佐の英雄、元親公の墓所へ。
50人近い方が参列しました。
元親公の墓所はそんな大きくなく、山の中腹にあるので
こんなに大勢乗れるのかしらという不安。
この画像は、前の時のものです。
11月23日長宗我部ツアー①若宮八幡宮・長宗我部元親公墓碑
土佐の鎌倉長浜と長宗我部史跡を歩く 資料
(地元のガイド武田末男さん作成)
⑦ 元親公墓
長宗我部元親の墓:天甫寺山中腹に眠る。玉垣に囲まれた宝鏡印塔である。
永禄三年の初陣より、十五年掛け土佐を統一し、続いて四国制覇の完成間際、豊臣秀吉の侵攻を受け、秀吉に降り、土佐一国の主になっている。
居城は岡豊城、大高坂城、浦戸城と変わり、小田原攻めや二度に渡る朝鮮の役を戦っている。
慶長五年京都伏見で没し波乱万丈の六十一歳の生涯を閉じている。遺体は京都天竜寺で荼毘ふされ,土佐に帰り四男盛親の手で葬られ,法名は雪蹊怒三大禅定門。
HN:サカチャン
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