高校野球の季節になってきました。昨年の自分の記事を見たら、浦和市立の4強のことを書いていました。それに次ぐ思い出として、1998年夏の大会の滑川高校(現滑川総合高校)の3回戦進出を記事にします。
当時は、夏の大会が記念大会で、埼玉県代表が東埼玉、西埼玉の2校選出でした。埼玉県の場合、強豪は東埼玉に固まっている傾向があるので、西埼玉の地区はチャンスだと思っていましたが、代表になったのは甲子園初出場だった普通の県立高、滑川高校でした。
滑川高校といえば、当時「滑川の大魔神」と呼ばれていた久保田投手(現阪神)がいました。ただ、当時の久保田は4番捕手という、野手としての期待でしたが、最後の1イニングだけキャッチャーミットをグラブに持ち替えて、投手として登板する抑えでした。120km台のストレートだった先発の滝島投手から、突然150km近いストレートを投げる久保田が出てくる継投に、相手は意表を突かれ、1,2回戦を勝ち上がることに成功します。
当時、FMNack5で、スポーツキャスター大野勢太郎氏が、普通の県立高の滑川高校にとって甲子園で2勝もするのは滞在期間が延び、予定外の出費なので、寄付を呼びかける異例の事態になったことは覚えています。当時の甲子園は、後にプロを賑わす、いわゆる「松坂世代」の年で、松坂以外にも杉内(鹿児島実:現巨人)、久保(関大一:現阪神)、上重(PL学園:現日テレアナウンサー)などがいました。
滑川高校は、甲子園で2勝したことにより、その久保擁する関大一と対戦するところまで来ました。その試合は惨敗に終わりましたが、全国レベルがどれくらいのものか体感できたのは滑川高校にとってはいい経験になったと思います。
その後、久保田は進学した常磐大で投手に専念することになりました。高校時代はストレートとフォークしか投げられない理由で1イニングのリリーフでしたが、投手としてのノウハウを覚えた久保田は阪神からドラフト3位指名を勝ち取り、のちに必勝リレーの「JFK」として名を知られる存在になりました。
普通の県立高校でもこれだけできると、記憶を呼び戻してくれるのはこの滑川高校以来出ていません。もう一度、こんな感動を味わいたいから、私は高校野球に惹かれるのだと思います。
当時は、夏の大会が記念大会で、埼玉県代表が東埼玉、西埼玉の2校選出でした。埼玉県の場合、強豪は東埼玉に固まっている傾向があるので、西埼玉の地区はチャンスだと思っていましたが、代表になったのは甲子園初出場だった普通の県立高、滑川高校でした。
滑川高校といえば、当時「滑川の大魔神」と呼ばれていた久保田投手(現阪神)がいました。ただ、当時の久保田は4番捕手という、野手としての期待でしたが、最後の1イニングだけキャッチャーミットをグラブに持ち替えて、投手として登板する抑えでした。120km台のストレートだった先発の滝島投手から、突然150km近いストレートを投げる久保田が出てくる継投に、相手は意表を突かれ、1,2回戦を勝ち上がることに成功します。
当時、FMNack5で、スポーツキャスター大野勢太郎氏が、普通の県立高の滑川高校にとって甲子園で2勝もするのは滞在期間が延び、予定外の出費なので、寄付を呼びかける異例の事態になったことは覚えています。当時の甲子園は、後にプロを賑わす、いわゆる「松坂世代」の年で、松坂以外にも杉内(鹿児島実:現巨人)、久保(関大一:現阪神)、上重(PL学園:現日テレアナウンサー)などがいました。
滑川高校は、甲子園で2勝したことにより、その久保擁する関大一と対戦するところまで来ました。その試合は惨敗に終わりましたが、全国レベルがどれくらいのものか体感できたのは滑川高校にとってはいい経験になったと思います。
その後、久保田は進学した常磐大で投手に専念することになりました。高校時代はストレートとフォークしか投げられない理由で1イニングのリリーフでしたが、投手としてのノウハウを覚えた久保田は阪神からドラフト3位指名を勝ち取り、のちに必勝リレーの「JFK」として名を知られる存在になりました。
普通の県立高校でもこれだけできると、記憶を呼び戻してくれるのはこの滑川高校以来出ていません。もう一度、こんな感動を味わいたいから、私は高校野球に惹かれるのだと思います。
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