明日が年内最後の授業。その後、年末まで少しはホッとしたいな。もうすぐクリスマスだしね。が、できない。年内締切りの原稿がある。ほかにも念頭を去らない案件がいくつか。この一年、なんか走りっぱなしって感じ。しかもゴールが見えない。来年はもっと大変そうだなぁ。ひょっとして、ゴールなんてないの?
ちょっとつらいよ、これは。どこかでバタッと倒れて、それっきり、なんてね。あっ、でも、それはそれでいいかも。もうその後のことは気にしなくていいから(ってか、気にしようがないじゃん。それとも怨霊にでもなる? でも、それじゃ、まわりはいい迷惑だね)。
もう人生の残された時間は少ないのに、何一つ、仕事らしい仕事をしてないよ。これが私の仕事だって人に胸張って示せるようなこと、それこそ、何一つしていない。ただその場その場でやらなきゃいけないことをやっつけてきただけ。それだって、ほんとうにやらなければならないことだったのかどうか。ほとんど、誰がやったって同じ、いや、私より人のほうが優れた結果を残したに違いないようなことばかり。
何やってんだ、俺。なんか、すべてが、とても、空しい。
こんなネガティブ思考に今さら突然陥ったのではありません。もう何十年と、つねにそれと戦ってきているのです。毎朝、目覚めると、「ああ、まだゲームオーバーじゃないんだ」(これって、ちょっとだけモーツァルト的? なんてね)って、起床。戦闘再開。休戦も、終戦もない、きっと死ぬまで。
誰が選んだ、こんな人生 ― おまえだろが ― はい、そうです。
明日の午後から夜にかけてだけは、どうか、これらいっさいのぐだぐだを忘れて、楽しむことを許されたい、切に。
今日、来年度九月からの日本への留学を希望する学生たちから先週提出された願書に目を通しながら、先月中旬から行ってきた彼らとの事前面接のときの様子を思い出していました。
成績抜群で高い目的意識を持ち、しかも人格円満なんていう、もう太鼓判押すしかないでしょっていう優れた候補者がいる一方、全体の成績が不十分、あるいは/そして語学力に懸念があって、こんな学生、日本の提携校に送って失礼にならないかなぁって懸念されるような怪しげな候補者もいます(もっとはっきり言えば、「面洗って出直してこいっ」みたいな)。
でも、皆、日本に行きたいって気持ちはとても強く持っているのは、面接時の彼らの受け答えからひしひしと伝わってきました。その熱意たるや、そんなに行きたいのかぁ、それほどの国じゃないかもしれなけどなぁ、かつての「蜻蛉島 大和の国は」って、こちらが内心独りごちてしまうほどでありました。
それはともかく、彼らに対する私の基本的なスタンスは以下の通りでございます。
さあ、行っておいで。クソ真面目に勉強なんかしなくたっていいさ。感覚を全開放にして、感じられることを全部感じておいで。事前学習なんてどうでもいいってのは言い過ぎだけど、つまらん予備知識で感覚野を狭めるくらいなら、そんなものなしに、いきなり飛び込めばいいと私は思う。飛び込んでから泳ぎ方を身につけるくらいの気持ちでいいさ。もっとも、ほんとうに泳げないと、溺れちゃうけどね。あっ、言っておくけど、溺れてもその責任は私は負わないからね。
もちろん、こんなこと、そのまま彼らに言うわけではありません。
彼らが新たに見出してくれる分だけ日本自身が自らを新たに発見することになるような、そういう留学を私は彼らに切に期待しています。
歴史の教科書ではせいぜいその名が養老律令発布や『日本書記』編纂時の天皇として言及されるだけの元正天皇を主役とした永井路子の『美貌の女帝』を読みながら、以下のようなことを考えた。
どんなに当時の資料を博捜してそれらに忠実に依拠し、舞台となった場所を実際に訪れて現地調査を入念に行い、さらには、その時代の現代における専門家たちの最新の研究成果を十二分に踏まえて書かれたとしても、歴史小説の中の記述を事実として鵜呑みにするわけにはいかないのは言うまでもない。
しかし、他方、厳密な学問的考証に基づいた記述こそが当時の事実に即しているという主張も別の意味でそのまま肯うわけにはいかない。歴史記述は、それがたとえ確実な資料に基づいていたとしても、歴史の再構成(あるいは、大森荘蔵風に「制作」と言ってもよい)であって、歴史の中の事実そのままの「写し」ではありえないからである。むしろ、そのような事実そのままはそもそも存在しないと考えなくてはならない。
歴史を記述するということ、あるいはそれを語るということは、取りも直さず、歴史の中には語り得ぬものがそれこそ無数にあるということを示すことである。記述し続ければ、あるいは語り続ければ、いつかはすべてが語られるということはありえない。
歴史小説を読む愉しみの一つは、歴史において語り得ず、当時の人びとによって生きられるしかなかったこと、または、感じられるしかなかったこと、あるいは、当時の誰によってもけっしてそれとして認識されることがなかった現実、それらへの想像力を刺激してくれることにあると私は考える。
歴史小説の中のある記述が、歴史家から見れば論証不能な空想的なものであったとしても、そこに私たちは歴史の体温のようなものを感じることがある。
例えば、ある人物を前にして、当時の人たちは必ずや何かを感じたはずである。その人物が傑出していればなおのことである。その何かを感じたという事実があったことをある生き生きとした仕方で伝えてくれる記述に歴史小説の中で出会うとき、読書の悦びを私は感じる。
『美貌の女帝』の冒頭を引いておこう。
誰が言いだしたのだろう。
「ひめみこの瞳はすみれ色だ」
と。幼い日からの彼女の美貌を、人々はそんな言い方で噂しあった。細いうなじを心持ちかしげるようにして、少女が相手をみつめるとき、黒眸がちのその瞳の奥に、ふとすみれ色の翳がよぎるのだという。
古代史の授業の準備ために読んでいたいくつかの書物に共通して使用されていた「主体的」あるいは「主体性」という言葉のことがちょっと気になった。
まず、その中のいくつかの例を挙げてみよう。
推古朝における遣隋使や遣唐使の派遣に際し、大使や副使に随行した行政担当官、あるいは中国の先進的文化に触れ、それらを身につけて帰国した人たちが、新たな国家建設の役割を担うようになると、自身で考え、制度を構築することで、中国文化を受け身としてではなく、主体的に取り込むようになっていったのではあるまいか。(米田雄介『奇跡の正倉院宝物 シルクロードの終着駅』、角川選書、2010年)
したがって天平こそ、聖武が主体的に定めた初の年号であったのである。もっともそこには藤原氏の意図が深く絡んでいたから、聖武の主体性だけで決まったものではいことはいうまでもない。(『平城京誕生』、角川選書、III「平城京・京の繁栄」(執筆・舘野和己)、2010年)
遣唐使が将来した唐の文物は、日本で即受容されるとは限らなかった。そこで、唐文化移入の特色として、日本側の主体的立場に基づく選択性にも注目しなければならない。(森公章『遣唐使の光芒 東アジアの歴史の使者』、角川選書、2010年)
この三書がすべて角川選書であることに特に他意はない。私が参照したのはすべて電子書籍版であり、すべてこの一ヶ月間に購入したものである。初版がすべて2010年刊行なのは、平城京遷都千三百年を狙った出版だということであろう。しかし、そのことも今日の記事の話題には直接的に関与しない。
上掲三例における「主体的」ないし「主体性」という語の使用法に特に不明な点があるわけでもない。いずれの場合も、「自らの判断と責任において」というほどの意味で、受動性とか受け身などの反対語として用いられている。
では、なぜそれが気になったかというと、「主体」という語は、もともとは subject(英), sujet(仏), Subjekt(独)の訳語であったのに、これらの文脈での「主体」は、もはやそれらの原語には訳し戻せない意味を帯びてしまっているからである。
おそらくどの著者も、原語を一瞬たりとも意識せずに、ましてやその西洋哲学史二千五百年における意味の変遷などまったく思いもかけずに、「主体的」「主体性」という語を当然のごとくに使用している。それくらいこれらの語は日本語に定着しているのだとは言うことができるだろう。
しかし、まさにそのことが、日本語における主体概念がその西洋的起源から切り離されたところで一般化していることの根深い病理を示している。
個が個として自立・自律し得ない国において、本来主体性など成り立ちようがないのだ。主体性が個を否定する根源的主体性になったり、個を収奪する国家の主体性などが語られてしまった国(かつてそうだったが今は違うと言えるだろうか)に、主体など生きる場所はないのだ。
二十一世紀に入って(言い換えれば、小泉政権の誕生の頃から)、「日出ずる国」で「自己責任」という言葉が「主体性」にとって替わるかのように頻繁に使用されるようになったことはけっして偶然ではない。
自分で判断して行動し、その結果として失敗したなら、その責任は全部自分で負え。社会も国家もそれに対しては一切責任を負わない。おまえがどうなろうと知ったことではない。いいか、そのつもりでいろ。
これが現代日本における主体の成れの果てである。
人によく知られた文章が必ずしも名文とはかぎらない。仮にそれがいわゆる名文であったとしても、美しい文章であるとはかぎらない。美しくなくとも優れた文章ではあるという意味で、それは名文である、と言ってもよい。
もちろん、いわゆる美文など、ここでは論外である。そんな文章は、書いた者の小賢しさだけが取り柄であり、実は美しくさえない。
文章の美しさはそれを書いた者の心根の美しさだと言いたいのでもない。
ただ、虚心坦懐に読んだときに、端的に、これは美しい文章だ、と言いたい文章がある。
そんな文章の一つが三木清の「幼き者の為に」である。現代日本語で書かれたこれ以上に美しい文章を私は知らない。
三木は、一九三六年に喜美子夫人を失った。享年三十三歳である。その翌年、故人を記念するために、縁者や知友の追悼文および故人の和歌、書簡の類を集めて、『影なき影』と題された文集を三木は編んだ。その文集に寄せた自身の文章が「幼き者の為に」である。
七歳で遺された娘洋子のために書かれたこの文章は、岩波の全集版で二十頁ほどの文章である(第十九巻)。その文章は、こう始まる。
洋子よ、お前はまだこの文章が讀めないだらう。併しやがて、お前はきつとこれを讀んでくれるに違ひない。その時のために父は今この文章を書いておかうと思う。
この文章を読みながら、何度か涙が溢れるのを禁じ得なかったことを正直に告白しておく。
その最後の段落の全文を引用する。
彼女の一生は、短いと云へば短いと云へるし、また長いと云へば長いと云ふこともできるであらう。彼女の一生はまことに弛みのないものであつた。そして死んでゆく時には彼女は殆ど人間的完成に達してゐたと信じる。人々の心に自分の若い美しい像を最後として刻み付けてこの世を去つたのは彼女が神に特別に愛されてゐたからであらう。私としては心殘りも多いが、特に彼女の存命中に彼女に對して誇り得るやうな仕事の出來なかつたことは遺憾である。私が何か立派な著述をすることを願つて多くのものをそのために犠牲にして顧みなかつた彼女のために、私は今後私に殘された生涯において能ふ限りの仕事をしたいものだ。そしてそれを土産にして、待たせたね、と云つて、彼女の後を追ふことにしたいと思ふ。
こう書いた三木に残されていた人生はわずか八年であった。
日本古代史の授業は、来週が最終回になる。締め括りとして、阿倍仲麻呂の話をすることにしている。その準備として上野誠『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』(角川選書、2013年)を読んでいる。
きわめて乏しい当時の資料を基に仮説を積み重ね、歴史的想像力を駆使し、新しい「阿倍仲麻呂」像を、盛唐の宮廷社会の人間関係の中に位置づけつつ、構築しようとしている。その当否について私にはなんとも言えないが、とても興味深い企図だとは言えると思う。
第三章「科挙への挑戦」に「太学で得た人的ネットワーク」との小見出しがつけられた節がある。そこでの問いは、太学で仲麻呂はどのように学んだのか、あるいは何を身につけたのか、ということである。
著者は、後に仲麻呂が外国人でありながら中国の官界で異例の出世を遂げたことから、おそらく太学時代に、人的ネットワークを築くことに成功したのだろうとの仮説を立てる。
この人的ネットワークとは、「その社会を生きていくための、いわば財産にあたるもの」である。学校における人的ネットワークの形成は、地縁や血縁では得ることのできない人的ネットワークを形成する。それがもたらすものは、端的には友人たちだが、その友人たちから得られる情報もまた大きな資産となってゆく。「その情報は、人生の選択において決定的な役割を果たす」ことがある。
仲麻呂が中国宮廷社会に人的ネットワークを有していたことは、何よりも詩の贈答からわかる。なぜなら、盛唐の宮廷社会では、詩の贈答が人的ネットワークを形成する道具ともなっていたからである。
「唐土において、まったく地縁と血縁を持っていなかった仲麻呂に、最初に人的ネットワークを授けたのは、ほかならぬ太学入学であったと考えてよい」と著者はこの節を結んでいる。
人生での成功のために人的ネットワークの構築が決定的な重要性をもっていることは、古今東西どこでも同じであろうから、著者のこの節での所説は至極まっとうな仮説ではある。
日本古代史の授業では、先週から遣唐使の話をしている。
命がけで海を渡り、学業に打ち込んだであろう古代日本の留学生たちの実情について、さまざまな事例を話している。それは、異国の文化を現地で学ぶとはどういうことのなのか、学生たちに我が身に引きつけて考えてほしいからである。
遣唐使の一員として唐に渡り、現地で長年研鑽を積んだ留学生たちは、皆が皆、帰国後に無条件にしかるべき地位を得たわけではない。
在唐三十一年の後に帰朝した行賀は、唐で法相と法華とを学んだといわれているが、、帰朝直後に受けた留学成果を試す口頭試問の際にはかばかしく答えることができなかった。
口頭試問にあたった東大寺僧明一は、折角こんなに国費を使って学業をしてきたのに、この程度の学識しか得られなかったのか、こんなことなら、とっとと帰ってくればよかっただろうに、と口をきわめて行賀を罵倒する。行賀はそれを聞いて恥じ入り、大粒の涙を流す。
行賀伝は、あまりにも中国生活が長ったために日本語が下手になってしまったからうまく答えられなかっただけである、それに、学識と論争術は別物だ、と弁護している。
それはともかく、国費で留学した以上、それに見合う成果をあげなければならぬという使命感が途方もない重圧として行賀にのしかかっていたことは間違いないであろう。
今日は、来年度日本留学希望学生の願書締切り日であった。みんな緊張した面持ちで願書を手に面接に来た。皆、自分の将来のために、日本に行って勉強したいわけである。もちろんそれでいい。それぞれに志望動機は願書に明確に表明されている。
古代日本の遣唐留学生と現代フランスの日本留学希望学生とを比較して云々することなど、もちろん意味がないだろう。ただ、「自分のため」という個人的な動機をどこかで超えていってほしい、と私は切に願う。
昨日、東洋大学大学院教務課から来年度夏期集中講義「現代哲学特殊演習」のシラバス作成依頼が届いた。これで八年連続でこの博士前期課程の科目を担当することになる。
これは、教える側にとって大変ありがたい科目で、基本的に、教員がやりたいことを自由にやってよいのである。つまり、今自分が考えていること、考えたいこと、考えるべきだと思っていることを自由にテーマに選んでよい、ということである(と私は理解している)。
過去七年を振り返ってみると、「主体の考古学」「鏡の中のフィロソフィア」(二年連続)「種の論理」(二年連続)「技術・身体・倫理」「自然と技術」などのテーマを取り上げた。
いずれの場合も、最初にテキストありき、ではなく、まず基本的な問題を提起し、それに関連するさまざまなテキストを読んでいくというスタイルをとってきた。とはいえ、五年目までは、事実上、テキストを読むことを中心に演習を構成していた。しかし、ここ二年ははっきりと問題提起型にシフトし、読解用テキストはあくまで議論のきっかけにしか過ぎなくなってきた。
このアプローチのメリットは、関心を異にした学生たちがそれぞれの立場から問題を自由に論じやすいことである。実際、彼らにとってもこれは他の演習ではなかなか経験できないことだったので、おおむね好評であった。
デメリットは、議論が拡散しやすく、地に足の着いた議論を積み重ねていくことを忘れがちになることである。あれこれ問題は提出されたけれど、さてそれをどう考えていったらいいのかについては中途半端に終わりやすいということである。
さて、来年度はどうするか。この演習の内容をあれこれ考えるいるときが愉しいのである。シラバスの締切りは1月17日だからまだ一月以上ある。他の仕事が山積しているからのんびりとはしていられないが、このシラバス作成過程を自由な哲学的思考の時間として楽しみたい。
昨日の記事で取り上げた『古代人と夢』の第一章で、西郷信綱は、『今昔物語集』「信濃国王藤観音出家語」(第十九巻第十一話)の全文(結語を除く)を引用した上で、同説話についての南方熊楠の未発表手稿「自分を観音と信じた人」(旧版全集第四巻)での評言を引用している。
東西人共多分は、現代の世相人情を標準として、昔の譚を批判するから、少しも思ひやりなく、一概に古伝旧説を、世にありうべからざる仮托虚構でデッチ上た物と断ずる。
この評言の中に出てくる「思ひやり」という言葉について、それは、事象を時代の文脈そのもののなかで見ることで、歴史的想像力という言葉に置き換えることもできると西郷は言う(16頁)。
この場合、思いやりとは、自分の身は今いる場所に留まったままでの単なる同情や共感ではありえない。過去の事象をその時代の文脈そのもののなかで見るためには、資料の博捜、フィールドワーク、確実な証拠に基づいた論証の積み重ねなど、地道な前提作業を必要とする。その上で、その時代の人たちの立場に身を置いて感じ考えてみるだけの想像力を発揮しなくてはならない。
歴史的想像力としての思いやりは、現在の自分の立場から自由にならなければ生まれないし、無方法でも直感的なものでもない。この意味で、思いやりをもつには自分から対象に近づいていく自発的な行動が必要だし、よく思いやるためには時間もかかる。
このように歴史を思いやることで、今の自分から少しでも自由になり、人にも優しくなれるといいのだが。
毎晩のように夢を見るが、碌な夢ではない。いい夢など見た記憶がない。
目が覚めるとすぐにストーリーはあらかた忘れてしまうことがほとんどだが、夢の気分といったものは、覚醒後も少し心身に残存する。ときには、精神的に少し引きずることもある。大抵の場合、そのときの現実生活の中で原稿の締切りが迫っていたり、一向にはかどらない仕事があったりして、気分的に追い詰められていて、夢もそのことを反映した内容になっている。バカバカしい。覚醒時にもしんどい思いをしているのだから、寝ているときくらいそっとしておいてくれと言いたいが、いったい誰に言えばいいのか。
古代人にとって、夢は、現代人にとってとは比べものにならない重要性をもっていた。それはある意味で、現実生活の一部、あるいは、もっと正確に言えば、「夢もまた一つの「うつつ」、一つの独自な現実である」ということになるだろう(西郷信綱『古代人と夢』、平凡社ライブラリー、1993年、12頁)。
事実、『万葉集』にも夢を詠んだ歌は少なくない。それらを読むことで、古代人にとって夢がどのような役割を果たしていたのか、知ることができる。例えば、次の歌を読むと、相手を絶えず恋つづけていると、その相手の夢の中に姿を現すと信じられていたことがわかる。
間なく 恋ふれにかあらむ 草枕 旅なる君が 夢にし見ゆる (巻第四・六二一)
個別の身体の中に個として閉ざされた存在にとっては、夢はその内部での脳内現象とそれに付随する生理現象に還元されてしまう。しかし、古代人にとって、夢は人と繋がる生命線の一つになりうるのだ。こんな話、現代に生きる私たちにはもう縁なき迷信と片付けてよいであろうか。
西郷信綱の名著『古代人と夢』の次の一言に私はとても共感する。
私がここに古代人の夢をとりあげるのは、近代人において大して価値のないものとして、いわば脇の方に追いやられたままになっている諸要素の一つ ― つまり夢 ― をもう一度主題化することによって、人間的な何かを忘却のなかから想い出すよすがにしてみたいというにすぎない。昔を想い出すことが忘れていた今を想い出すことであるような、そういう想い出しかたがありそうな気がする。(12頁)
西郷の主題を私なりに変奏すると、なんか小林秀雄調になってしまって少し気が引けるけれど、昔を上手に想い出すことは、今をより良く生きることにほかならない、となろうか。