内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

自己認識の方法としての異文化理解(五)

2015-01-10 10:16:35 | 随想

 昨日までの三日間で取り上げた理解の三条件を簡単にまとめると、以下のようになる。同定可能な対象があること、その対象が一定の規則に従って分節化された世界の中にあること、その対象を他の諸対象と一定の関係において位置づけうる概念システムがあること。
 以上の前提に立って、本稿の最初に提起した、「なぜ自文化理解ということは問題にならないのか」という問いに答えてみよう。
 自分がその中で生きている生活世界の文化を理解するということ、つまり「自文化理解」ということが問題として立てにくいのは、すでに「わかっている」自文化、つまりその中でいかに行動すべきかがすでにわかっている生活世界は、それ自体が自明性の地平を構成しており、したがって、そのかぎり、その地平は対象化されえないからである。自明性に支配された日常世界に生きているかぎり、その一部が問われるべき対象として他の諸対象から区別されて現れないのは当然のことだと言える。つまり、自文化は、すでに「わかっている」いるからこそ、一度も「理解」されたことがないのである。
 翻って、異文化が理解の対象となるのは、それが私たちの慣れ親しんだ世界の自明性の地平の上に未知なるもの・不明瞭なもの・不可解なものとして現われるからである。しかし、その対象を理解するためには、それを他の諸対象との関係において位置づけるための「既得の」概念のシステムがなくてはならない。このシステムが自文化の内部にすでに構成されており、それを自覚的に用いることができれば、異文化理解に到達することも困難ではないであろう。しかし、そのシステムが自覚されているとはかぎらない。しかも、そのシステムがすでに構築されているとはかぎらないのである。
 ここでまず問題とすべきなのは、だから、理解の前提となる自明性の地平を露呈させ、それを用いて理解を試みる概念のシステムを、あるいはその不在を、いかに自覚するかということである。己がその上で物事を見ている自明性の地平を方法的に対象化すること、その水準を自覚的・方法的に引き下げることがここでの問題になる。
 以上から言えることは、異文化理解は、その理解それ自体が目的であったとしても、自らがその上で生きている自明性の地平を相対化する方法を身につけることを必然的に含意しているということである。異文化を「理解」することは、自分が「わかっている」世界を問い直し、そこから理解の枠組みを規定している概念のシステムを抽出し、そのシステムそのものを対象化し、「わかっている」世界を敢えて理解の対象とする認識過程への第一階梯であると言うことができる。










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1 コメント

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こんにちは。 (Takeo)
2021-04-14 05:50:00
わたしなら。「異文化理解」よりも「自文化理解」の講座に出席したいですね。
何故なら。わたしにとって、「自明性」というものは端から存在していないので、「自文化」といっても「異文化」となんら変わることろはないのです。

逆に、わたしには日本に生まれ、日本人の両親に育てられ、日本人だけの学校に通い・・・・しているから、日本の文化風俗習慣が、自明のこととして、意識に上らない=対象化されないということが不思議です。

>自明性に支配された日常世界に生きているかぎり、その一部が問われるべき対象として他の諸対象から区別されて現れないのは当然のことだと言える。

これは日本人で日本で生き、生活している以上、日常のどこかに裂け目を見つけるということは、ほぼありえないと解釈してよろしいのでしょうか?

我々は須らく精神を持っています。日本という国土の上に置かれた、無機物ではありません。最新の投稿にもあったように、過去の日本と21世紀現在の日本は、少なくとも地続きとはいえず、そこに確固たる連続性があるとは思えません。現代日本に暮らしながら、過ぎ去った、或いは消え去った時間に思いを馳せるということ、これは、自国の包摂する異文化ではないでしょうか?



例えば写真家たち、ドアノーであれ、ブラッサイであれ、イジスであれ、サヴィーヌ・ワイスであれ、彼ら・彼女らは、実時間のパリを見事に対象化していませんか?
カフェでおしゃべりをする仲間たちであったり、セーヌ河畔で、日光浴している女性だったり、何の変哲もない荒物屋の店先だったり、酔っ払って、ベンチで寝ているおとこだったり。まったく実時間の中の自明性の世界を彼らは何故対象化することが出来たのでしょうか?見慣れた風景、見慣れた人々を。

素人の写真て、大抵、綺麗なもの、珍しいものを写しますよね。
けれども、今見る小津映画のあの異文化性ときたら。

先生、そもそも、自明性とは、どのような経緯で、自明のことになったのですか?
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